第18話|新しい暮らし
退院した結衣を乗せた車は、自宅とは反対の方向へ進んでいた。
「柊さん」
「なんだ」
「本当に、自分の家で大丈夫です」
「駄目だ」
即答だった。
「どうしてですか」
「退院したばかりだ」
「それはそうですけど……」
何度言っても、柊はまったく聞く気がない。
やがて車は、大きな邸宅の前で止まった。
以前、雨の日に一度だけ来たことがある、柊の家だった。
玄関を入った結衣は、その場で固まる。
家政婦や料理人など、何人もの使用人が並んでいた。
「お帰りなさいませ、結衣様」
「…………」
結衣はゆっくり柊を見る。
「柊さん……私、しばらくお世話になるだけですよね?」
「そうなのか?」
「そうです!」
柊は何も答えない。
すると、使用人たちの中から一人の女性が前へ出た。
「本日より結衣様を担当させていただきます」
「担当?」
「看護師でございます」
結衣の目が大きくなる。
「看護師!?」
柊は平然としていた。
「何かあったとき困る」
「私、病人じゃありません!」
「退院したばかりだ」
「それ、さっきも聞きました!」
少し後ろにいた熊谷の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
結衣にとっては、体調が落ち着くまでの一時的な療養生活。
だが柊は最初から、結衣を一人暮らしへ戻すつもりなどなかった。
◇
そのころ。
会社を去った麻衣は、怒りがおさまらずにいた。
主任の肩書も。
仕事も。
自分の実績だと思っていた作品も。
すべて失った。
麻衣はスマートフォンを手に取り、二階堂怜奈へ電話をかけた。
「二階堂さん。面白いことを教えてあげます」
『何?』
「糸瀬結衣、妊娠してますよ」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
『……何ですって?』
「あの子を突き飛ばしたとき、『赤ちゃん』って言ったんです」
麻衣自身、それ以上のことは知らない。
だが怜奈には十分だった。
柊の子ども。
このままでは、結衣が本当に久世家の妻になる。
怜奈の表情から、ゆっくり余裕が消えていった。
◇
数日後。
柊の家で療養していた結衣のスマートフォンに、知らない番号からメッセージが届いた。
開いた瞬間、結衣の手が止まる。
そこには、若いころの柊と怜奈が並んで写っていた。
次の写真には、久世家の祖父母と怜奈。
四人とも親しげに笑っている。
さらに文章が続いていた。
久世家が本当に望んでいるのは、二階堂家との結婚です。
そして――。
子どもができたからといって、あなたが久世家の妻として認められるとは限りません。
結衣の表情が曇った。
怜奈が久世家と親しいことは事実だ。
祖父母にまだ会っていないことも、ずっと不安だった。
以前の自分なら、そのまま信じていたかもしれない。
怖くなって、一人で答えを出していたかもしれない。
けれど。
『俺が欲しいのは結衣だ』
病院で聞いた柊の言葉が、はっきりよみがえった。
結衣はスマートフォンを握りしめる。
今度は一人で抱え込まない。
◇
その夜。
柊が帰宅すると、結衣はすぐに声をかけた。
「柊さん。これ……」
スマートフォンを差し出す。
柊は写真とメッセージを見た。
顔から表情が消える。
「誰からだ」
「分かりません。知らない番号です」
柊は顔を上げる。
「くま」
「はい」
近くにいた熊谷が、それだけですぐにスマートフォンを確認する。
「調べます」
結衣は写真を指さした。
「これは……本物なんですよね?」
「ああ。写真はな」
結衣の顔が少し曇る。
柊は続けた。
「昔の写真だ。じいさんたちの付き合いで撮っただけだ」
「……そうなんですね」
「俺は怜奈と結婚しようと思ったことは、一度もない」
迷いのない声だった。
結衣は静かにうなずく。
「……はい」
柊が少し意外そうに見る。
「信じるのか」
結衣は小さく笑った。
「柊さんが、信じてもいいって教えてくれたから」
柊は何も言わなかった。
ただ、結衣をそっと抱き寄せる。
以前なら、怖くなれば自分から離れていた。
今の結衣は違う。
不安になっても、柊に話せる。
一人で逃げなくなっていた。
怜奈の最初の揺さぶりは、失敗に終わった。
◇
結衣の体調が落ち着いたころ。
柊は、結衣とともに母のもとを訪れた。
手術後の経過は順調で、母の顔色もずいぶんよくなっていた。
その前で、柊は珍しくきちんと姿勢を正す。
「結衣さんと結婚させてください」
隣に座る結衣まで緊張する。
母は少し驚いたあと、柊ではなく娘を見た。
「結衣は、それでいいの?」
結衣は柊を見る。
十五年間、自分を探してくれた人。
今の自分を見て、もう一度好きになったと言ってくれた人。
もう迷わなかった。
「うん」
母はしばらく娘の顔を見てから、微笑んだ。
「それなら、私から言うことはありません」
そして柊へ視線を戻す。
「この子は昔から、何でも一人で抱え込むところがあります」
「知っています」
即答だった。
結衣が思わず柊を見る。
「そこ即答するんですか?」
母が声を上げて笑った。
柊は真顔のままだ。
「事実だろ」
「そうですけど……」
母は二人を見ながら、さらに笑った。
柊は改めて頭を下げる。
「必ず大切にします」
母は静かにうなずいた。
「よろしくお願いします」
◇
帰り道。
車へ乗った途端、柊が言った。
「明日、婚姻届を出す」
結衣が勢いよく振り向く。
「明日!?」
「何か問題があるか」
「ありますよ!」
「母親の許可はもらった」
「許可って……!」
柊は本当に、もう何も問題はないと思っているらしい。
だが結衣には、まだ一つ気になることがあった。
「柊さんのおじいさまと、おばあさまは?」
「ああ」
「ああ、じゃありません。まだ一度もお会いしてないんですよ?」
柊は平然と答えた。
「籍を入れてからでいい」
「ええ!?」
「今連れていったら、お前は緊張で倒れる」
「倒れません!」
言い切ったものの。
想像する。
久世家本邸。
日本屈指の財閥の当主夫妻。
そこへ、結婚の挨拶に行く自分。
「……たぶん」
「ほらな」
「まだ倒れるって決まってません!」
柊の隣で、結衣は頬を膨らませた。
◇
その日の夜。
怜奈のもとへ、新しい知らせが入った。
匿名のメッセージを送っても、結衣は柊から離れなかった。
それどころか――。
柊は結衣の母へ、正式に結婚の挨拶を済ませた。
そして近いうちに婚姻届を出すという。
「どうして……」
怜奈には理解できなかった。
結衣なら、家柄の違いを突きつければ身を引くと思っていた。
けれど逃げなかった。
柊が、結衣を変えた。
しかも、結衣のお腹には柊の子どもまでいる。
怜奈はしばらく考え込んだあと、静かに笑った。
「だったら……味方のふりをすればいいのね」
数日後。
結衣のもとへ、小さな贈り物が届いた。
差出人は――二階堂怜奈。
添えられたカードには、丁寧な文字が並んでいた。
ご懐妊おめでとうございます。これからは仲良くしましょう。
結衣は戸惑いながら、その言葉を見つめていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
柊と結衣の物語を最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
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