第2話|結衣の15年間
柊が別荘を離れて間もなく、結衣の生活は一変した。
九歳の結衣には、あまりにも突然の出来事だった。
父が仕事中に倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだ。
小さな会社を経営していた父は、事業が傾き、多額の負債を抱えていた。
それでも家族には心配をかけまいと、一人で会社を立て直そうとしていた。
休むこともなく働き続けた末の、過労だった。
父を失った悲しみに浸る間もなく、会社は倒産。
住んでいた家も手放すことになった。
結衣は母と二人、小さなアパートへ移った。
それまで当たり前だった暮らしは、何もかも変わった。
母は朝から晩まで働いた。
結衣も成長するにつれ、自分にできることを増やしていった。
高校生になると学校帰りにアルバイトを始め、わずかでも家計の足しになるように母へ渡した。
そんな結衣にも、一つだけ諦めたくないものがあった。
絵を描くことだった。
紙と鉛筆さえあれば、嫌なことを忘れられた。
やがて結衣は、デザインを本格的に学びたいと思うようになる。
でも、大学へ進む余裕などないことは誰より分かっていた。
「私、就職する」
高校三年のある日、結衣がそう言うと、母は娘の顔をじっと見た。
「本当にそれでいいの?」
「うん。大学はお金がかかるし」
母は何も言わなかった。
だが、結衣が進学を諦める必要はなかった。
高校での成績と、これまで制作してきた作品が評価され、返済不要の給付型奨学金を受けられることになったのだ。
結衣は大学へ進学。
生活費を補うためのアルバイトは続けた。
それでも、好きなデザインを学べる毎日は嬉しかった。
努力すれば、いつか自分の力で母を楽にしてあげられる。
そう信じていた。
◇
大学で結衣が出会ったのが、二歳年上の川島麻衣だった。
会社経営者の娘で、服も持ち物も結衣とはまるで違う。
最初のころ、麻衣は親切な先輩だった。
「糸瀬さん、この課題いいじゃない」
「ありがとうございます」
結衣も素直に慕っていた。
だが、結衣の作品が教授たちから評価されるようになるにつれ、麻衣の態度は変わっていった。
あるコンテストを前に、結衣は何日もかけて一つのデザインを完成させた。
自分でも納得できる作品だった。
ところが、提出を前にデータが消えた。
そして後日。
結衣は信じられないものを目にする。
受賞作品として展示されていたのは、自分が作ったデザインだった。
その下に記されていた名前は――。
川島麻衣
「先輩、これ……私の作品ですよね?」
麻衣は顔色一つ変えなかった。
「何のこと?」
「私が作ったデザインです」
「言いがかりはやめてくれる?」
「でも……」
「証拠はあるの?」
結衣は言葉を失った。
制作途中のデータも、提出できる形の記録も十分には残っていなかった。
周囲も、受賞者である麻衣の言葉を信じた。
結衣は何もできなかった。
悔しかった。
それでも大学を辞めるわけにはいかない。
結衣は黙って耐えるしかなかった。
◇
大学四年になるころ、今度は母が倒れた。
検査の結果、治療が難しい病気だと分かった。
結衣は就職活動をしながら、病院へ通う生活を始めた。
第一志望企業の面接当日。
家を出ようとした結衣のもとへ、病院から母の容体が急変したと連絡が入った。
迷う余地などなかった。
結衣は面接を諦め、病院へ向かった。
別の企業では最終面接まで進んだ。
今度こそ就職を決めたい。
そう思いながら面接会場へ急いでいたときだった。
歩道の脇に、老婦人が倒れている。
結衣は足を止めた。
腕時計を見る。
時間に余裕はなかった。
一瞬だけ迷った。
だが、そのまま通り過ぎることはできなかった。
「大丈夫ですか?」
結衣は駆け寄り、救急車を呼んだ。
老婦人の手を握り、救急隊が到着するまでそばにいた。
当然、面接には遅れた。
事情を説明し、頭を下げた。
それでも採用には至らなかった。
あの日助けた老婦人が誰だったのか。
結衣は知らないまま、大学を卒業した。
◇
卒業後、結衣に必要だったのは夢よりも、まず収入だった。
母の治療費と二人の生活費。
正社員の仕事を探しながら働き続け、二十三歳のとき、久世グループのデザイン部でアルバイトとして採用された。
大きな会社でデザインに関わる仕事ができる。
たとえアルバイトでも、結衣は嬉しかった。
だが、初日に聞こえた声で足が止まった。
「……糸瀬さん?」
振り返る。
そこにいたのは、川島麻衣だった。
麻衣も驚いたようだったが、すぐに笑顔を作った。
「久しぶりね」
「……お久しぶりです」
大学時代の先輩は、すでにデザイン部で部下を持つ立場になっていた。
「アルバイトなら、私の仕事を手伝ってもらえるわよね」
最初は資料整理だった。
簡単な修正作業が増えた。
やがて麻衣は当然のように言った。
「参考案をいくつか出して」
結衣は言われた通りにデザイン案を作った。
数日後、その案は麻衣の成果として会議に提出されていた。
大学時代と同じだった。
分かっている。
声を上げるべきだということも。
それでも、今は仕事を失えない。
母の治療にはお金がかかる。
結衣は唇をかみ、また自分の名前を飲み込んだ。
◇
現在。
社長室では、柊が熊谷の集めた資料を黙って読んでいた。
父親の死。
会社の倒産。
家を失ったこと。
高校時代から続けたアルバイト。
給付型奨学金での大学進学。
母親の病気。
そして就職活動。
柊の記憶にいる結衣は、九歳のままだ。
『じゃあ、待ってるね』
あの日、笑っていた少女。
その直後から、これほどの十五年を生きてきた。
柊は資料を置いた。
ふと、別の書類に目を留める。
最近、社内で高く評価されたデザインだった。
柊はそれを手に取った。
「くま」
「はい」
「このデザインを作ったのは誰だ」
熊谷が資料を確認する。
「記録上は、川島麻衣となっております」
柊の目が細くなった。
「……記録上は?」
熊谷はわずかに間を置いた。
「実際に制作したのは、結衣様かと」
柊の手が止まる。
十五年前。
守れなかった少女が――。
今も、自分の会社の中で理不尽な扱いを受けている。
柊の目から、先ほどまでの迷いが消えた。




