第16話|同じ痛み
主任を外されてから、麻衣の結衣に対する態度はさらに険しくなっていた。
自分は役職を失った。
大学時代を含め、これまでの実績まで調べ直されている。
その一方で、結衣は正社員になり、デザイナーとして評価され始めた。
麻衣には、それが許せなかった。
「糸瀬さん。これ、今日中にお願い」
麻衣が資料の束を結衣の机へ置く。
結衣は中身を確認した。
「でも、これは麻衣さんの担当ですよね?」
「忙しいの。手伝ってくれてもいいでしょう?」
以前なら、結衣は黙って引き受けていた。
仕事を失うのが怖かった。
自分が我慢すれば済むと思っていた。
でも、今は違う。
「すみません。私も自分の仕事がありますので、全部はできません」
麻衣の顔つきが変わった。
「正社員になった途端、ずいぶん偉くなったのね」
「そういうつもりではありません」
結衣はそれ以上反論せず、自分の仕事へ戻った。
麻衣はその背中を睨みつける。
結衣が変わった。
いや。
自分の言うことを聞かなくなった。
そのことが、何より腹立たしかった。
◇
その日の午後。
結衣は共有資料を確認していて、見覚えのあるデザインに気づいた。
自分が新しい企画のために制作した案だった。
それが麻衣の資料へ入っている。
「麻衣さん」
「何?」
「このデザインですけど……」
結衣は画面を示した。
「私が制作したものですよね?」
麻衣は一瞬だけ目をそらした。
「ちょっと参考にしただけでしょう」
「でも、このまま提出する資料になっています」
「だから何?」
結衣は麻衣を見た。
以前なら、ここで黙っていた。
しかし今回は目をそらさない。
「提出するなら、私の名前でお願いします」
麻衣の表情が一気に険しくなる。
「正社員になったからって、調子に乗らないで」
「そんなつもりはありません」
「社長に気に入られてるからって!」
周囲の社員が、何事かと振り返った。
麻衣は結衣の腕を強くつかむ。
「痛い……離してください」
「あなたさえいなければ、こんなことにはならなかったのよ!」
「麻衣さん、離して――」
結衣が腕を振りほどこうとした。
その瞬間。
「もう、うるさい!」
麻衣が結衣を強く突き放した。
結衣の身体がよろめく。
次の瞬間、腰から腹部にかけて机の角へぶつかった。
「……っ!」
そのまま床へ倒れ込む。
鋭い痛みがお腹を走った。
結衣は反射的に腹部を押さえた。
頭に浮かんだのは、昨日から考え続けていたことだった。
「……赤ちゃん……」
かすかな声だった。
だが、麻衣には聞こえた。
「……え?」
麻衣の顔色が変わる。
結衣自身、まだ妊娠していると確定したわけではない。
それでも今は――。
この痛みが怖かった。
◇
ほぼ同じ時刻。
柊は役員会議に出席していた。
役員が資料を示しながら説明を続けている。
その途中だった。
「……っ!」
突然、腹部に鋭い痛みが走った。
柊が顔をしかめ、机へ手をつく。
「社長?」
会議室がざわつく。
痛みは一度では終わらなかった。
締めつけられるような強い痛みが続く。
ただの腹痛ではない。
直感的に分かった。
頭に浮かんだのは――結衣だった。
朝、ほぼ同時に起きた吐き気。
熊谷から聞いた、久世家に伝わる奇妙な体質。
柊は椅子から立ち上がった。
「会議は中止だ」
「社長、しかし――」
「後にしろ」
熊谷もすぐに席を立つ。
「社長、まさか……」
「結衣だ」
「ですが、結衣様に何かあったという連絡は――」
「分かる」
結衣は腹を押さえたまま、会議室を出た。
「結衣に何かあった」
理由など説明できない。
それでも確信していた。
◇
柊はそのままデザイン部へ向かった。
腹部の痛みはまだ続いている。
フロアへ入った瞬間、奥に人だかりが見えた。
柊の表情が変わる。
「どけ」
低い声に、社員たちが振り返った。
社長だと気づき、すぐに道を開ける。
その先に――。
結衣が倒れていた。
お腹を押さえ、顔は真っ青だった。
「結衣!」
柊は駆け寄り、その場へ膝をつく。
「柊……」
「どこが痛い」
結衣は震える手で腹部を押さえる。
「お腹が……」
その言葉とほぼ同時に、柊にも同じ場所へ強い痛みが走った。
だが、そんなことはどうでもよかった。
結衣の手を握る。
「救急車を呼べ!」
熊谷はすでにスマートフォンを手にしていた。
「手配しております」
「結衣、俺を見ろ」
結衣が涙のにじんだ目を柊へ向ける。
そして柊の袖をつかんだ。
「柊さん……もし……」
「何だ」
「赤ちゃんがいたら……助けて……」
柊の表情が止まった。
「……赤ちゃん?」
結衣は泣きながら首を振る。
「まだ、分からないんです。でも……生理が遅れてて……吐き気もあって……」
朝の吐き気。
結衣の様子。
そして、自分に起きている異変。
すべてが一つにつながった。
柊は結衣の手を強く握る。
「大丈夫だ」
「でも……」
「俺がいる」
短い言葉だった。
それでも結衣は、柊の手を握り返した。
◇
ほどなくして救急車が到着した。
結衣はストレッチャーへ乗せられ、そのまま救急車へ運ばれる。
柊も迷わず乗り込んだ。
熊谷は自分の車で病院へ向かう。
車内でも、結衣の腹痛は続いていた。
そして結衣が顔をしかめるたびに――。
柊にも同じ場所へ痛みが走る。
救急隊員が柊の顔色を見て尋ねた。
「ご主人も体調が悪いんですか?」
「俺はいい。結衣を診てくれ」
まだ夫ではない。
だが、訂正している余裕などなかった。
病院へ着くと、結衣はすぐに診察室へ運ばれた。
柊は廊下で待ち続けた。
熊谷も到着する。
「社長」
「……ああ」
それ以上、二人の間に言葉はなかった。
もう――。
久世家に伝わる体質を、迷信だとは思えなかった。
◇
しばらくして、診察室の扉が開いた。
医師が姿を現す。
柊はすぐに立ち上がった。
「結衣は?」
「落ち着いています。今のところ大きな問題はありません」
柊がようやく息を吐いた。
「……妊娠は?」
医師は少し驚いたあと、うなずいた。
「はい。妊娠されています」
柊の動きが止まった。
本当に。
自分と結衣の子どもがいる。
「子どもは無事なのか」
「現時点では問題ありません。ただ、腹部を強く打っていますので、しばらく安静が必要です」
柊は目を閉じた。
結衣も。
子どもも。
無事だった。
その事実に、ようやく身体の力が抜ける。
すると医師が続けた。
「それから、もう一つ」
「何だ」
医師は検査画像を確認した。
「赤ちゃんは一人ではありません」
柊が顔を上げる。
「……何?」
「双子です」
沈黙が落ちた。
横にいた熊谷まで、珍しく目を見開く。
「……二人?」
「はい」
結衣が妊娠している。
しかも――双子。
柊はしばらく言葉を失った。
驚きのあとに、喜びが込み上げる。
だが、その瞬間。
表情が変わった。
そもそも、なぜ結衣は腹を打ったのか。
柊は熊谷を見る。
「くま」
「はい」
「結衣は、なぜ倒れた」
熊谷の目つきも変わった。
「すぐに確認いたします」
喜ぶのは、それからだった。
結衣と二人の子どもを危険にさらした理由を――。
柊はまだ知らない。




