第15話|二人の異変
十五年前の「お兄ちゃん」が、目の前にいる久世柊だった。
しかも柊は、十五年間ずっと自分を探し続けてくれていた。
結衣はようやく、なぜ柊がこれほど自分を大切にしてくれるのかを知った。
もう、柊の気持ちは疑っていない。
それでもプロポーズへの返事だけは、まだできずにいた。
柊を信じている。
怖いのは、その先にある久世家だった。
「じいさんたちのことは気にするな」
柊はそう言う。
でも、結衣はまだ一度も祖父母に会ったことがない。
怜奈は幼いころから久世家に出入りし、祖父母とも親しい。
家柄もあり、久世家のこともよく知っている。
それに比べて自分は、ようやく正社員として働き始めたばかりだ。
「本当に私が、久世家のお嫁さんになっていいのかな……」
一人になると、そんな考えが浮かんだ。
柊を信じられるようになっても、その不安だけはまだ消えなかった。
数日後。
朝から柊は身体のだるさを感じていた。
熱があるわけではない。
けれど、何となく身体が重い。
食欲もなかった。
いつもなら好きなコーヒーを入れようとして――。
香りが広がった瞬間、思わず口元を押さえた。
「うっ……」
慌てて窓を開ける。
少し休めば治まったものの、妙だった。
仕事へ行く準備をしながら、結衣は予定を確認するためカレンダーを開いた。
そして、手が止まった。
「……あれ?」
日付を数える。
もう一度数え直す。
間違いない。
生理が遅れている。
胸が大きく鳴った。
まさか――。
結衣は無意識に、お腹へ手を当てた。
もし、本当にそうだったら。
ここに、柊の子どもがいる?
そう考えた瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。
嬉しい。
その気持ちは、確かにあった。
でも同時に、強い不安が押し寄せる。
まだプロポーズに返事すらしていない。
久世家の祖父母にも会っていない。
そんな自分が妊娠していたら――。
久世家はどう思うのだろう。
その日の仕事帰り。
結衣はドラッグストアの前まで行った。
中へ入り、妊娠検査薬の売り場まで行く。
手を伸ばしかけて――止めた。
知るのが怖かった。
もし本当に妊娠していたら、今までと同じではいられない。
結局、結衣は何も買わずに店を出た。
柊には――まだ言えなかった。
◇
翌朝。
結衣は柊と朝食をとっていた。
最近は、二人で過ごす時間も増えている。
柊がいつものようにコーヒーへ手を伸ばした。
香りがふわりと広がる。
その瞬間。
「……うっ」
結衣が口元を押さえた。
ところが、ほぼ同時だった。
「……っ」
柊も顔をしかめる。
二人が顔を見合わせた。
「柊さん?」
「結衣?」
結衣は慌てて席を立ち、洗面所へ向かう。
柊にも強い吐き気がこみ上げてきた。
しばらくして戻ってきた結衣は、無理に笑った。
「昨日、何か変なもの食べたかな……」
柊は黙って結衣を見る。
昨日の夕食で、二人は同じものばかり食べたわけではない。
それなのに、ほぼ同じ時間に同じ症状。
しかも最近、結衣はどこか様子がおかしい。
食欲が落ちている。
顔色もよくない。
何かを考え込んでいることも増えた。
そのとき。
柊の頭に、昔どこかで聞いた話がよぎった。
久世家の男は、深く結ばれた女性の身体に起きた変化を、自分の身体にも感じる。
そんな話だった。
くだらない迷信だと思っていた。
今までは。
◇
会社に着いても、吐き気は完全には治まらなかった。
社長室へ入ると、熊谷が待っていた。
「おはようございます」
「……ああ」
熊谷は柊の顔を見る。
「お加減がよろしくないようですが」
「朝から気持ちが悪い」
熊谷の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「結衣様は?」
柊が顔を上げる。
「……なぜ結衣を聞く」
「念のためでございます」
柊は熊谷をじっと見る。
「同じだ」
「同じ症状を?」
「ほぼ同時にな」
熊谷は黙った。
そして何も言わず、自分の鞄を開ける。
取り出したのは、小さな透明のタッパーだった。
蓋を開ける。
中には、薄く切ったレモンがきれいに並んでいる。
柊の眉間にしわが寄った。
「……くま」
「はい」
「それは何だ」
「レモンでございます」
「見れば分かる」
熊谷は平然と一切れ差し出した。
「どうぞ」
柊は怪訝そうに受け取る。
一口かじった。
酸っぱい。
ところが――。
妙にうまい。
「……」
柊は無言でもう一切れ取った。
さらに一切れ。
熊谷は何も言わず、その様子を見ている。
三切れ目を食べ終えたところで、柊が手を止めた。
ゆっくり熊谷を見る。
「くま」
「はい」
「お前、何か知ってるな」
◇
熊谷は少しだけ困った顔をした。
「以前、久世家に長くお勤めだった方々から、伺ったことがございます」
「何を」
熊谷は少し声を落とす。
「久世家の男性は、愛する女性の身体に大きな変化が起きた際、同じような症状が現れる、と」
柊は黙った。
「迷信だろう」
「私もそう思っておりました」
二人の視線が、机の上のタッパーへ落ちる。
レモンはすでに半分近くなくなっていた。
柊が眉を寄せる。
「……なら、なぜ持っている」
「念のためでございます」
「いつからだ」
「最近です」
柊が熊谷を睨む。
「最近とは」
「結衣様と社長がお付き合いを始められてからです」
「……くま」
「はい」
熊谷は平然としていた。
「結衣様に、お尋ねになってはいかがでしょう」
柊はしばらく黙った。
今朝の結衣を思い出す。
何かを隠している顔だった。
問い詰めれば、きっと答える。
でも――。
「いや」
「よろしいので?」
「あいつが話すまで待つ」
熊谷は静かにうなずいた。
「承知いたしました」
柊は再びタッパーへ手を伸ばす。
熊谷がそれを見ながら、何も言わず蓋を少し近くへ寄せた。
◇
そのころ。
結衣はデザイン部のデスクで、一人カレンダーを見つめていた。
やっぱり遅れている。
吐き気も続いている。
身体のだるさも消えない。
可能性は、日に日に高くなっている気がする。
結衣はそっと、お腹へ手を当てた。
もし本当に。
ここに柊の子どもがいるなら――。
嬉しい。
それなのに、怖い。
柊には言いたい。
でも、まだ言えない。
プロポーズにも答えていない。
久世家にも認めてもらっていない。
もし子どもだけを必要とされたら。
そんな考えが一瞬浮かび、結衣は慌てて打ち消した。
柊はそんな人ではない。
分かっている。
それでも、久世家まで同じだとは限らない。
そのとき。
少し離れた場所から、結衣をじっと見ている女性がいた。
二階堂怜奈。
結衣がお腹へ添えた手。
最近の顔色。
食欲の変化。
怜奈の表情から、ゆっくり笑みが消えていく。
「……まさか」
結衣は、その視線に気づいていなかった。
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