第14話|お兄ちゃん
「私……子どものころ、ここに来たことがあります」
「ああ」
結衣が振り返る。
「どうして柊さんが知ってるんですか?」
柊は答えない。
「来い」
それだけ言うと、別荘の中へ入っていく。
「もう……」
相変わらず説明が足りない。
結衣は戸惑いながら、その背中を追った。
廊下を歩くたびに、忘れていた記憶が少しずつ戻ってくる。
この角を曲がった。
ここで何度も走って叱られた。
そして――。
柊は一つの部屋の前で足を止めた。
「入れ」
結衣は静かに中へ入った。
◇
部屋へ足を踏み入れた瞬間、不思議な感覚に包まれた。
「ここも……」
知っている。
昔、何度も入った部屋だ。
柊は棚の前へ行くと、丁寧にしまわれていた一枚の紙を取り出した。
「見ろ」
「?」
結衣は受け取った。
少し色あせた紙。
そこにはクレヨンで、大きな男の子と小さな女の子が描かれていた。
結衣の指が止まる。
下のほうに、幼い字が残っている。
おにいちゃんへ みお
「……これ」
胸の奥で、何かが弾けた。
断片的だった記憶が、一気によみがえってくる。
いつも一人で庭にいた少年。
話しかけても、最初はほとんど返事をしてくれなかった。
それでも結衣は毎日のように通った。
花を持っていった。
お菓子を半分こした。
勝手に話しかけて、勝手に隣へ座った。
やがて少しずつ話してくれるようになった。
初めて笑ってくれた日は、嬉しくて仕方がなかった。
そして、別れの日。
『お兄ちゃん、もう来ないの?』
『また来る』
『絶対?』
『ああ』
『じゃあ、待ってるね』
結衣の手が震えた。
ゆっくり顔を上げる。
十五歳だった少年。
三十歳になった目の前の男性。
面影を探すように、柊の顔を見つめる。
「……、お兄ちゃん?」
柊はしばらく何も言わなかった。
そして。
「遅い」
結衣の目から、ぽろりと涙が落ちた。
◇
「だって……分かるわけないじゃないですか」
涙を拭いながら、結衣は柊を見た。
「十五年ですよ? それに久世グループの社長だなんて……」
記憶の中にいるのは、無口で少し怖かった十五歳の少年だ。
日本屈指の財閥を率いる男と結びつくはずがない。
「どうして言ってくれなかったんですか」
柊は少し黙った。
「最初は、言うつもりだった」
「じゃあ、どうして?」
柊は結衣を見つめる。
再会したときから、何度も言おうとした。
けれど――。
十五年前の記憶があるから自分を選ぶのではなく、今の自分を見てほしかった。
そして柊自身も、二十四歳になった結衣を知りたかった。
「今の俺を見てほしかった」
「……え?」
「昔のことを知らなくても、お前が俺をどう思うのか知りたかった」
結衣はしばらく柊を見つめた。
そして、泣きながら口を尖らせる。
「そんなの……ずるいです」
「何がだ」
「私だけ何も知らなかったじゃないですか」
「今、知った」
「そういう問題じゃありません」
柊の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それを見て、結衣はさらに悔しそうな顔をした。
◇
柊は、結衣が知らなかった十五年間を話し始めた。
別荘を離れたあとも、結衣との約束を忘れなかったこと。
翌年、再びこの場所へ戻ってきたこと。
しかし――結衣はいなかった。
近くを探しても、誰に聞いても、居場所は分からなかった。
それから何度も探した。
でも、十五年間、結衣を見つけることはできなかった。
「……ずっと?」
「ああ」
結衣は信じられないように尋ねる。
「十五年間?」
「そうだ」
「そんな……」
結衣は手の中の絵を見る。
十五年前に自分が描いた、たった一枚の紙。
それを柊は今まで大切に残していた。
「じゃあ……会社で会ったときから、私だって分かってたんですか?」
「最初は確信がなかった」
「でも……」
「社員証の名前を見た」
柊は続ける。
「それに、髪を耳へかけただろ」
結衣が自分の髪に触れる。
「そんなことで?」
「昔から同じだった」
結衣の頭の中で、これまでの出来事が一つずつつながっていった。
なぜ、自分の過去を調べたのか。
なぜアルバイト一人のデザインに目を向けたのか。
なぜ母の病気にまで力を貸してくれたのか。
そして。
なぜ――自分だったのか。
「だから、私に……」
結衣が言いかけると、柊が遮った。
「勘違いするな」
「え?」
「お前を探していたのは事実だ」
柊はまっすぐ結衣を見る。
「でも、昔のお前だから好きなんじゃない」
結衣の息が止まる。
「再会してから、お前を見た」
父親を亡くし、会社も家も失い、母と二人で生きてきた。
母を支えながら働く姿。
自分の作品を奪われても、誰かを恨み続けることなく生きてきたこと。
それでもデザインを諦めなかったこと。
不器用なくらい真っすぐなところ。
柊は短く言った。
「今のお前を知って、もう一度好きになった」
結衣の目から、また涙がこぼれた。
今度の涙は、悲しいものではなかった。
自分の知らないところで、この人はずっと自分を覚えていてくれた。
そして今。
過去の自分ではなく、今の自分を選んでくれている。
◇
柊が結衣の手を取った。
「結衣」
「はい」
今度は命令ではなかった。
「俺と結婚してくれるか」
結衣の胸がいっぱいになる。
もう、柊の気持ちは疑っていない。
この人は本当に自分を愛してくれている。
十五年間探してくれた。
再会してから今の自分を知り、それでも好きだと言ってくれた。
だからこそ。
簡単に「はい」と言えない自分が苦しかった。
「……少しだけ、待ってください」
柊の表情が止まる。
「まだ駄目なのか」
結衣は申し訳なさそうにうなずいた。
柊の声が低くなる。
「まだ俺を信じられないのか」
「違います」
結衣はすぐに首を振った。
「柊さんのことは、信じています」
「なら何が怖い」
結衣は答えられなかった。
怖いのは柊ではない。
その向こうにある世界だった。
久世家。
日本有数の財閥。
まだ会ったこともない祖父母。
そこへ「嫁」として入る自分。
考えただけで胸が苦しくなる。
結衣は一歩近づき、柊の胸へ顔を埋めた。
「……もう少しだけ、待ってください」
柊は黙っていた。
十五年待った。
ようやく見つけた。
やっと結衣も自分を好きになった。
それなのに、結婚だけは頷かない。
まだ完全には理解できない。
それでも――。
柊は結衣を抱きしめた。
「分かった。待つ」
結衣が顔を上げる。
柊は指で、その頬に残った涙を拭った。
「ただし、諦める気はない」
「……知ってます」
結衣が笑う。
その笑顔は、十五年前と変わらなかった。
途切れていた約束は、ようやくつながった。
けれど二人にはまだ――。
結衣が越えるにはあまりにも大きく見える「久世家」という壁が残っていた。




