第13話|結婚が怖い
翌朝。
結衣は昨夜から何度も、柊の言葉を思い返していた。
「結婚しろ」
あまりにも突然だった。
けれど、嬉しくないわけではない。
むしろ、嬉しくて仕方がなかった。
好きな人から結婚を申し込まれたのだ。
本当なら、すぐに「はい」と言いたい。
それでも――結衣には、どうしても踏み出せない理由があった。
「柊さん。結婚って、二人だけのことじゃないですよね」
柊は当然のように答えた。
「二人のことだろう」
「久世家は違います」
柊の眉が寄る。
結衣の頭に浮かんだのは、怜奈だった。
美しく、家柄もよく、幼いころから久世家と付き合いがある。
それに比べて自分は、父を早くに亡くし、母と二人で生きてきた。
ようやく正社員として歩き始めたばかりだ。
「おじいさまとおばあさまにも、反対されるかもしれません」
「関係ない」
「あります!」
「反対されても結婚する」
「そういう問題じゃありません!」
結衣は困ったように柊を見る。
本当に分かっていないらしい。
「柊さんのことは好きです。でも……結婚は、もう少し考えさせてください」
柊は納得していない顔をしていた。
それでも、それ以上返事を迫ることはなかった。
◇
結衣を家まで送ったあと。
柊は車の後部座席で、明らかに不機嫌だった。
「くま」
運転席の熊谷が答える。
「はい」
「結衣は俺が好きだと言った」
「左様でございますね」
「俺も結衣が好きだ」
「存じております」
「なら、なぜ結婚できない」
熊谷は少し黙った。
「社長には簡単でも、結衣様にはそうではないのでしょう」
「何が違う」
「すべてです」
柊が眉を寄せる。
「久世家の名前、財産、会社、周囲の目。そして、ご当主様方です」
柊にとっては、生まれたときからそこにあったものばかりだった。
「結衣様は社長と結婚するだけではございません。結衣様のお立場からすれば、久世家へ入ることになります」
柊は黙った。
初めて、結衣が何を怖がっているのか少しだけ分かった。
自分にとって当たり前の世界が、結衣にとってはまったく知らない世界なのだ。
◇
「では、ご当主様方にご紹介なさいますか?」
熊谷に聞かれ、柊はしばらく考えた。
だが、すぐに首を振る。
「まだいい」
熊谷が少し意外そうに振り返った。
「よろしいので?」
「今の結衣をじいさんに会わせたら、余計なことを言う」
「……否定はいたしかねます」
孫の結婚を待ち望んでいる祖父だ。
柊が女性を連れてきたと知れば、結婚式の日取りどころか、その先まで勝手に話を進めかねない。
柊は容易に想像できた。
『式はいつだ』
『ひ孫は何人だ』
結衣の顔が真っ青になるところまで浮かぶ。
「緊張で倒れる」
「……可能性はございますね」
柊は窓の外を見る。
結衣は、社長である自分にさえ最初は怯えていた。
そんな結衣を突然、久世家の当主夫妻の前へ連れていく必要はない。
まずは結衣自身が、自分との結婚を望めるようになること。
祖父母への挨拶は、そのあとでいい。
◇
数日後。
仕事帰りに二人で食事をしていたときだった。
「柊さん」
「なんだ」
結衣はしばらく迷ってから尋ねた。
「どうして……私なんですか?」
柊の手が止まる。
「前にも聞いたな」
「はい。でも……やっぱり分からないんです」
結衣は膝の上で手を握った。
怜奈のような女性がいる。
柊なら、もっと美しくて、家柄もよくて、何でも持っている女性を選べる。
なのに、なぜ自分なのか。
「私じゃなきゃ駄目な理由が、分からないんです」
以前、同じことを聞いたとき、柊は答えた。
『お前だからだ』
あのときは、それで十分だと思っていた。
けれど、結衣はまだ不安を抱えている。
柊はようやく気づいた。
結衣は何も知らないのだ。
十五年前。
両親を失い、誰とも話したくなかった自分の前に現れた少女。
何度無視しても、翌日にはまたやって来た。
花を持ってきた。
菓子を半分押しつけた。
くだらない話を延々として、いつの間にか自分を笑わせた。
そして突然、いなくなった。
何度あの場所へ行っても、もう会えなかった。
それでも忘れられなかった。
ずっと探していた。
「……理由ならある」
結衣が顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ」
「じゃあ、教えてください」
柊は少し考えた。
言葉だけでは足りない。
あの場所で話したかった。
「ここでは話さない」
「え?」
「お前に見せたい場所がある」
「場所?」
「ああ」
それ以上、柊は何も言わなかった。
◇
次の休日。
柊の車は都会を離れ、山あいへ向かっていた。
結衣は助手席から何度も柊を見る。
「どこへ行くんですか?」
「着けば分かる」
「それ、さっきも聞きました」
「なら聞くな」
「教えてくださいよ」
「嫌だ」
結衣は呆れて窓の外へ目を向けた。
「柊さんって、本当に言葉が足りませんよね」
柊は答えない。
「熊谷さんがいないと困りません?」
「困らない」
「熊谷さんは困ってると思います」
柊がわずかに眉を寄せる。
結衣は小さく笑った。
車はさらに山道を進んでいく。
そのとき――。
結衣の表情が変わった。
見覚えのある景色が、一瞬、窓の外を流れた。
「……ここ」
柊は何も言わない。
結衣は窓へ顔を近づける。
古い道。
木々に囲まれた小さな坂。
記憶の奥にしまわれていた景色が、少しずつよみがえってくる。
「まさか……」
やがて車が止まった。
森の中に、一軒の別荘が見える。
結衣は動けなかった。
「どうして……」
柊が先に車を降りる。
結衣もゆっくりと外へ出た。
古い木々。
庭。
少し手を入れられているものの、建物もほとんど記憶のままだった。
忘れるはずがない。
九歳のころ。
毎日のように遊びに来た場所。
そして――。
大好きなお兄ちゃんと出会った場所。
結衣は吸い寄せられるように庭へ入った。
「ここ……知ってます」
柊は黙って結衣の後ろを歩く。
庭の片隅。
あのころ、一人で座っていた少年がいた。
ほとんど話してくれなかった。
笑ってもくれなかった。
それでも結衣は毎日ここへ来た。
『お兄ちゃん!』
記憶の中で、幼い自分の声が響く。
結衣は庭を見つめた。
無口で、少し怖かったお兄ちゃん。
それでも毎日のようにここへ来て、一緒に過ごした。
最後の日には、「また来る」と約束してくれた。
――懐かしい。
どうして柊さんは、私をここへ連れてきたんだろう。
胸の奥が締めつけられる。
父が亡くなり、突然この町を離れることになった。
だから、約束を守れなかったのは自分のほうだった。
結衣はゆっくり振り返る。
「柊さん……」
柊がまっすぐ結衣を見ていた。
「どうして、この場所を知ってるんですか?」
答えはない。
けれど。
目の前の柊と、記憶の中の少年が――。
なぜか一瞬、重なった。
結衣の胸が大きく鳴る。
柊は十五年間、何度も訪れた場所を見渡した。
そして結衣へ視線を戻す。
「やっと、ここまで連れてこられた」
「……え?」
結衣は動けない。
その言葉の意味を、まだ理解できなかった。
けれど――。
ずっと閉じていた十五年前の扉が、今、ゆっくりと開き始めていた。




