第9話 親友の証と生け贄のシステム
地獄のような一夜が明けた。
朝靄に包まれた白百合邸の巨大な門の前で、王国の至宝たる聖女・エルリアは、焦点の合わない虚ろな瞳で立ち尽くしていた。
彼女の純白の法衣は、物理的な損傷こそ固有スキル奇跡の浄化によって完全に修復されているものの、魂に刻まれた無数の『死の激痛』によって、全身から冷や汗が滝のように流れ落ちていた。
胃袋を爆破され、喉を溶かされ、氷点下の冷気で内臓を凍らされ……それを一晩中、強制的に治癒させられながら食べ続けるという、文字通りの無限地獄。
「エルリアちゃん、今日は本当に楽しかったですわ!」
門まで見送りに来た伽羅・ヴァン・ディザスターは、朝日に照らされてキラキラと輝くような満面の笑みを浮かべていた。
「私、同年代の女の子の親友ができたのは初めてですの。たくさんお話もできましたし、何より私の手料理を、あんなに嬉し泣きしながら完食してくださるなんて……!」
「ぁ……ぁ……」
エルリアの喉からは、掠れた乾いた音しか出なかった。
対話など、何一つ成立していなかった。エルリアが必死に王都の被害や平和について訴えようとしても、伽羅は「まあ! そんなに熱く語るなんて、よほどスープのスパイスが効いているのね!」と曲解し、ひたすらに料理の感想として受け取ってしまっていたのだ。
「さあ、これは私からの友情の証、お土産ですわ」
伽羅は上位悪魔のメイドに持たせていた、可愛らしいピンク色のリボンが結ばれた巨大なバスケットを、エルリアに押し付けた。
「中には、昨日の『爆炎竜の涙腺スープ』の素と、特製の神星鋼クッキーをたくさん詰めておきましたの。王都の皆様にも、私のおもてなしのお裾分けをして差し上げてね」
「……ひっ……」
バスケットから微かに漂う硝煙の匂いと、異常な重量感を感じ取った瞬間。エルリアの顔は死人のように蒼白になり、膝がガクガクと震え始めた。
「それじゃあ、気をつけてお帰りになってね。またいつでも遊びにいらして。……もし忙しいなら、今度は私の方から、王都のエルリアちゃんのところへお茶会をしに伺いますわ!」
「っ!?」
その言葉は、エルリアの崩壊しかけていた自我に、最後の強烈な楔を打ち込んだ。
(こ、この化け物を……絶対に、王都へ向かわせてはならない……っ!)
エルリアは震える手でバスケットを抱え込み、引き攣った笑顔を無理やり顔に貼り付けた。
「あ、ありがとう、ございます……。ええ、また……私から、必ず、ご挨拶に伺いますから……! どうか、お屋敷で、お待ちになっていてくださいませ……っ」
それが、聖女が絞り出した決死の防波堤であった。
「まあ! 嬉しい! お待ちしておりますわね!」
ブンブンとちぎれんばかりに手を振る伽羅に見送られ、エルリアは逃げるように馬車に転がり込んだ。扉が閉まった瞬間、彼女は床に崩れ落ち、ついに声を上げて泣き崩れたのであった。
同日、昼下がり。王城の『円卓の間』。静まり返った室内には、大理石の床を叩く、カチ、カチ、という小さな音だけが響いていた。
「……エルリア殿。本当に、無事、なのか?」
円卓の上座から、国王の代理である第一王子が、震える声で問いかけた。報告の場に現れた聖女エルリアは、椅子に座ったまま、両手で温かいホットミルクの入ったマグカップを握り締めていた。しかし、彼女の歯の根は合っておらず、カチカチと絶えず鳴り続けている。
「はい……。私の、神聖なる守護の力で、肉体は、無事です……。ただ、内臓を七十四回ほど爆破され、三十二回ほど溶かされた、だけですので……」
焦点の合わない瞳で虚空を見つめながら、エルリアは淡々と地獄の回数を口にした。その言葉に、円卓を囲む重鎮たちは一斉に顔を覆い、絶望の呻き声を漏らした。王国の至宝たる聖女すらも、あの厄災の化身の前ではただの玩具に等しかったのだ。
「……よく、生きて帰ってきてくれた」
円卓の末席から、静かな、しかし深い共感の籠もった声が響いた。王都最強の英雄、アーサーであった。
アーサーはゆっくりと立ち上がると、エルリアの傍まで歩み寄り、彼女の前に置かれた『ピンク色のバスケット』を忌々しげに見下ろした。
「あいつは、悪意で人を殺すわけじゃない。純粋な善意と歓待の心で、相手が死ぬまで……いや、死んでもなお、地獄のもてなしを押し付けてくる。そういう化け物だっただろう」
「……アーサー、様」
エルリアは、ゆっくりとアーサーを見上げた。
かつては、純粋な武を追い求める荒々しい男だと思っていた。しかし今、彼の瞳の奥にある『死の激痛を知る者』としての暗い影を見て、エルリアの心に奇妙な安堵と連帯感が芽生えた。
「はい……。彼女は、王都を滅ぼす気など毛頭ありません。ただ、私を『親友』だと呼び……もし私が遊びに行かなければ、彼女の方から王都へ、お茶会をしにやってくると……」
「なっ……!?」
第一王子が弾かれたように立ち上がった。
「あの厄災の公爵令嬢が、王都へ来ると言うのか!? 馬鹿な、あんな出鱈目な極大魔法を街中で放たれれば、ただの一般市民など一瞬で塵も残らず消滅してしまうぞ!」
「ええ。ですから、私がお約束いたしました。必ず、こちらから定期的にご挨拶に伺うと」
エルリアの言葉に、円卓の間は凍りついた。それはつまり、彼女の機嫌を損ねないために、王国側から定期的にあの白百合邸へと赴き、『地獄のおもてなし』を受け続けなければならないということを意味していた。
「……馬鹿な。それではまるで、古の邪神に生け贄を捧げるようなものではないか!」
宰相が頭を抱えて叫んだ。
「生け贄のシステム、か。言い得て妙だな」
アーサーは自嘲気味に笑い、腰の剣の柄を強く握り締めた。
「だが、他に選択肢はない。あいつが王都に来るくらいなら、俺たちが盾になるしかないんだ。……安心しろ、エルリア殿。次は俺も同行する。神殿送りにされる痛みには、もう慣れた」
「アーサー様……」
最強の剣士と、最高の治癒士。かつては国を救うために肩を並べるはずだった二人の英雄は、今や『いかにして厄災の善意に耐え抜き、時間を稼ぐか』という、底知れぬ絶望の共有者として固く結ばれてしまったのである。
一方、その頃。
恐怖と絶望に包まれる王都の真情など知る由もなく。伽羅・ヴァン・ディザスターは、白百合邸の広大な厨房で、上位悪魔のメイドたちと共に楽しそうに包丁を握っていた。
「ふふっ。エルリアちゃん、次にお茶会をする時は、もっとたくさんのお友達を連れてきてくれると言っていましたわね」
伽羅の目の前には、近隣の魔境から狩り尽くされてきた、巨大な猛毒這い寄る沼海月や爆炎竜の肉塊が山のように積まれている。
「アーサー様たちも、きっとまたいらっしゃいますわ。常連客の皆様と、新しい親友。こんなに大勢のお客様に恵まれるなんて、私、本当に幸せ者ですわね」
前世の退屈な現実世界では、決して味わえなかった充実感。どんなに派手な演出をしても壊れない、素晴らしいお客様たちとの交流。
「皆様のために、もっともっと、心と魔力のこもった新しいメニューを開発しなくては! 次は、食べると空へ飛んでいけるような、最高に刺激的なお料理を作りますわよ!」
厄災の公爵令嬢は、満面の笑みでそう高らかに宣言した。彼女のピュアで狂気的な『おもてなしの心』が尽きない限り、英雄たちの終わらない受難の日々は、永遠に続いていくのであった。




