第8話 聖女の決意と死ねない晩餐会
王都を出発する馬車の中で、聖女・エルリアは静かに目を閉じ、神への祈りを捧げていた。
プラチナブロンドの長い髪に、穢れを一切知らない純白の法衣。彼女は幼き頃より神の声を聴き、その絶大な治癒能力と慈愛の心で、数え切れないほどの民や冒険者たちを救ってきた、王国における生きた至宝である。
そんな彼女に課せられた使命はただ一つ。武力による討伐が不可能となった『厄災の化身』の元へ単身で乗り込み、対話によって王都への怒りを鎮めること。
(……アーサー様たちを退けたほどの御方です。きっと、人間に対して深く、悲しい憎しみを抱いておられるのでしょう)
エルリアは胸元で両手をぎゅっと握り締めた。
どれほどの罵倒を受けようと、どれほど恐ろしい拷問を受けようと構わない。彼女には、常軌を逸した回復能力を誇る固有スキル奇跡の浄化と、致死ダメージを自動で無効化する神聖なる守護が備わっている。
痛みには耐えきれる。自分の身一つで王都が救われるのなら、いかなる理不尽も愛で包み込んでみせる。
その悲壮なまでの自己犠牲の精神を胸に抱き、エルリアを乗せた馬車は、静まり返った白百合邸の門前に到着した。
護衛を下がらせ、エルリアはたった一人で敷地へと足を踏み入れた。
荒れ果てた魔境のような場所を想像していた彼女は、目前に広がる光景に息を呑んだ。
美しく手入れされた広大な庭園。咲き乱れる色鮮やかな花々。そして、エントランスには一切の武装をしていない美しいメイドたち——高位の鑑定を持つエルリアには、それが人の皮を被った上位悪魔の群れだとすぐに分かったが——が、完璧なカーテシーで彼女を出迎えたのだ。
「お待ちしておりました、聖女エルリア様。当家のお嬢様が、奥のダイニングルームでお待ちです」
「あ……ええ、案内をお願いします」
拍子抜けするほどの丁重な扱いに戸惑いながらも、エルリアは促されるままに邸宅の奥へと進んだ。
通された先は、王城の晩餐会場すらも凌駕するほど豪奢で、煌びやかなシャンデリアが輝く巨大なダイニングルームであった。そして、その中央に置かれた、長く美しいマホガニーのテーブルの奥。
「……まあ! ようこそいらっしゃいました、エルリア様!」
漆黒のドレスに身を包んだ、恐ろしいほどの美貌を持つ少女が、満面の笑みで立ち上がった。
伽羅・ヴァン・ディザスター。世界を滅ぼすと言われる最悪の厄災は、まるで待ち焦がれていた親友にでも会ったかのように、目をキラキラと輝かせていた。
「わたくし、女の子のお客様がいらっしゃるのは初めてで、とても楽しみにしておりましたの! さあ、さあ、遠慮なさらずにお掛けになって!」
「は、はい……」
圧倒的な歓迎の空気に呑まれ、エルリアは用意された上座の椅子へと腰を下ろした。殺気は愚か、警戒心すら微塵も感じられない。本当に彼女が、あの王都最強の英雄たちを地獄の底へと突き落とした化け物なのだろうか。
(いや、騙されてはいけません。きっと、対話の糸口を探るための高度な心理戦……。まずは、こちらから誠意を示さなければ)
エルリアは姿勢を正し、真剣な眼差しで伽羅を見据えた。
「ディザスター公爵令嬢。本日は、あなたに王都の代表としてお話ししたいことがあり——」
「まあ、お話の前に、まずはお食事になさって」
伽羅はパチンと指を鳴らし、エルリアの言葉を清々しいほどの笑顔で遮った。
「せっかく同年代のお友達がいらしたのですもの。私、本日はとびきり腕によりをかけて、特製の『フルコース』をご用意いたしましたのよ」
「フル、コース……?」
嫌な予感が、エルリアの背筋を駆け抜けた。アーサーたちが「超硬度のクッキー」で顎を砕かれたという報告は聞いている。しかし、目の前の少女は「手料理で歓迎したい」と本気で喜んでいるのだ。
悪魔のメイドが恭しく一礼し、エルリアの前に最初の銀の皿——前菜を置いた。
「こちらは前菜の、『猛毒這い寄る沼海月のマリネ』でございますわ」
「……はい?」
エルリアの顔が引き攣った。皿の上では、紫色のドロドロとした粘液状の物体が、生きているかのようにうねうねと蠢き、鼻を突くような刺激臭を放っていた。触れただけで皮膚が溶け落ちる、致死性の猛毒を持つ魔物の肉である。
「女の子はお肌の美容が大切ですからね。この海月はコラーゲンがたっぷりで、内側から綺麗にしてくれますの。さあ、冷めないうちにどうぞ」
伽羅はニコニコと笑いながら、自身も全く同じものを口に運び「美味しい」と頬を抑えている。彼女の異常なステータスと耐性があってこそ成立する暴挙であった。
(……これを、食べろと? いや、しかし、ここで拒絶すれば交渉は決裂する。私には浄化のスキルがある……毒程度なら、無効化できるはず!)
エルリアは覚悟を決め、震える手でフォークを握り、毒海月の肉を口へと運んだ。
——ジュワァァァァァッ!
「……っ!? あ、ぐっ……!」
口内に入れた瞬間、エルリアは声にならない悲鳴を上げた。猛烈な酸が舌を焼き、喉を溶かす激痛。即座に固有スキル奇跡の浄化が発動し、溶けた肉体が一瞬で再生される。しかし、咀嚼して飲み込むまでの間、彼女は「喉が溶けては再生する」という無限の苦痛を味わい続けることになった。
「ふふっ。エルリア様、とても美味しそうに召し上がってくださるのね。良かったですわ」
瞳に涙を浮かべ、白目を剥きかけながらも飲み込んだ聖女を見て、伽羅は「嬉し泣きをするほど感動してくれた」と激しく勘違いしていた。
「さあ、お次はスープですわよ。『爆炎竜の涙腺スープ』。少しピリ辛ですが、体が芯から温まりますの」
次に出されたのは、マグマのように赤く煮えたぎり、時折ボッ、ボッ、と小さな爆発を起こしている恐ろしい液体であった。
「あ、あの、伽羅様……。私、お話が……」
「遠慮なさらないで。ほら、冷めると爆発力が落ちてしまいますわ」
強引にスプーンを握らされ、スープを口に流し込まれる。
ドォォォォンッ! エルリアの体内で、凄まじい爆発が起こった。胃袋が木端微塵に吹き飛ぶほどの破壊力。並の人間なら即死し、光の粒子となって神殿送りである。
しかし、彼女は『聖女』であった。致死ダメージを自動で無効化する神聖なる守護が発動し、彼女の命を強制的に繋ぎ止める。そして、奇跡の浄化が吹き飛んだ内臓を超速で再生させる。
「あ、がぁぁぁぁっ……ひ、ひぃぃぃっ!」
死ねない。彼女の卓越した回復スキルが、絶対に彼女を死なせてくれないのだ。内臓が爆破されては再生し、焼かれては治癒する。神殿での復活という「逃げ道」すらも封じられた、終わりなき無間地獄。
「まあ! あんなに激しく咳き込んで……やっぱり少しスパイスが効きすぎましたかしら? でも、とても健康的に汗をかいていらっしゃいますわ!」
伽羅は、椅子の上でガタガタと痙攣し、涙と涎を垂らしながら白目を剥いているエルリアを見て、「スパイスでデトックス効果が出ている」と本気で感心していた。
「次はメインディッシュの『地獄牛の極厚ステーキ』ですわよ! お口直しの『氷結魔女の絶対零度シャーベット』もございますから、残さず食べてくださいね!」
「……ぁ、ぁぁ……かみ、さまぁ……っ」
エルリアの自我は、もはや崩壊寸前であった。対話など、最初から成立するはずがなかったのだ。この厄災の化身は、悪意など全く持っていない。ただ純粋な善意と、果てしなくズレた常識で、客人を物理的に限界まで「もてなそう」としているだけなのだから。
王国の最後の希望であった聖女は、自身の強力すぎる治癒能力のせいで、ただひたすらに、致死量のフルコースを永遠とも思える時間をかけて食べさせられ続けるのであった。




