第7話 極上のあーんと甘絶なる死
王都最強の英雄アーサーは、全身の骨を軋ませる超重力の拘束の中、目の前に差し出された「それ」を絶望的な眼差しで見つめていた。
可愛らしいウサギの形をした手作りクッキー。しかし、それは神星鋼と魔竜の骨格、そして火竜の血で練り上げられた、攻城兵器の砲弾にも等しい超硬度金属塊である。
「あら、どうなさいましたの? もしやお嫌いかしら? ……それとも、あーんをして差し上げた方がよろしくて?」
伽羅・ヴァン・ディザスターは、小首を傾げて小悪魔のように微笑んだ。その瞳には一切の悪意も殺意もなく、ただ純粋に「大切なお客様を持て成したい」という慈愛だけが満ち溢れている。それが何よりも恐ろしかった。
「……ふざけ、るな……っ」
アーサーは血を吐くような声で呻いた。
彼は王都最強の武人である。これまで幾多の死線を潜り抜け、伝説の魔獣すらも己の剣で屠ってきた。防御を捨てた決死の特攻陣形で挑んだ結果が、「椅子に縛り付けられて金属の塊を無理やり食わされる」という屈辱的なお茶会になろうとは、誰が予想できただろうか。だが、彼の異常なまでの闘争心は、いまだ折れてはいなかった。
(食ってやる……! こんなふざけた兵器、俺の顎の力と闘気で噛み砕いて、こいつの度肝を抜いてやる……っ!)
アーサーは狂気に満ちた眼で伽羅を睨み返し、重力に逆らってわずかに首を前に出した。そして、伽羅の白魚のような指が摘む『ウサギ型クッキー』に向かって、大きく口を開いたのだ。
「まあ! やはりアーサー様は、あーんをご所望だったのですね。とってもお茶目な方」
伽羅は嬉しそうにパァァッと顔を輝かせると、何の躊躇いもなく、その超質量の金属塊をアーサーの口の中へと押し込んだ。
「はい、あーん」
アーサーは全身の魔力を顎に集中させ、渾身の力で噛み合わせた。
——ガギィィィィィィンッ! およそ人間が食事をした時には絶対に鳴らない、凄まじい金属の衝突音が庭園に響き渡った。
「が、ごぉっ……!?」
アーサーの目が見開かれた。
砕けたのは、クッキーではない。彼の強靭な歯であり、顎の骨であった。魔力で強化された王都最強の肉体が、ただの「手作りのお茶菓子」の物理的硬度に完全敗北したのだ。
だが、真の地獄はここからであった。口腔内に微かに滲み出た『火竜の血』の成分が、アーサーの唾液と反応し、致死量の超高温へと瞬時に達したのである。
「あ、あ、がぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
アーサーの喉の奥から、言葉にならない絶叫が迸った。口の中から爆発的な炎が噴き出し、彼の目や耳からも黒煙が上がる。内臓が文字通りマグマに焼かれるような、想像を絶する激痛。
「あっ……」
副官のルークをはじめとする精鋭たちは、椅子に縛り付けられたまま、自らの英雄が「お茶菓子を一口食べただけで内側から燃え上がり、光の粒子となって消滅していく」という、あまりにもシュールで凄惨な光景を目の当たりにして、完全に精神を破壊された。
「……まあ」
光となって消えゆくアーサーの残滓を見つめながら、伽羅は両手で頬を押さえ、うっとりとしたため息を漏らした。
「一口召し上がっただけで、あんなに情熱的な声を出して天に昇ってしまうなんて……。やはり、私のお手製クッキーは最高傑作でしたわね!」
彼女の脳内では、アーサーの絶叫は「美味さに悶絶する歓喜の声」として変換されていた。そして、伽羅の血のように赤い瞳が、未だ椅子に拘束されている残りの精鋭たち——ルークたちへと向けられた。
「さあ、皆様。アーサー様が身を以て証明してくださった、最高に美味しいお茶菓子ですわよ。……遠慮はいりません。全員に、私が直々にあーんをして差し上げますわ!」
「ひっ……!」
「い、いやだ、俺は……っ、あぐぅっ!?」
逃げ場のない重力地獄の中、白百合邸の美しい庭園には、屈強な戦士たちの断末魔と、凄まじい金属音が幾度となく鳴り響いた。それはまさに、慈愛という名の圧倒的な暴力がもたらした、逃げ場のない絶望のティータイムであった。
数分後。王都の中心にそびえ立つ白亜の大聖堂、『復活の間』。そこでは、かつてないほどの異様な光景が広がっていた。
「み、水ぅぅっ! 氷水を持ってきてくれぇぇっ! 腹の中が、腹の中が燃えているぅぅっ!」
「歯がっ、俺の顎が砕け……っ! あ、あぁぁぁっ!」
大理石の床の上で、王都最強の精鋭たちが、自らの口を抑えながらのたうち回っている。魔法で焼かれたわけでも、剣で斬られたわけでもない。「クッキーを食べさせられた」という事実が、彼らの魂にこれほどのトラウマと幻肢痛を刻み込んでいたのだ。
そして、その中心。英雄アーサーは、床に両膝をついたまま、虚ろな瞳で宙を見つめていた。
「……団長、アーサー団長……っ」
口から幻の黒煙を吐き出しながら、ルークが涙声で這い寄る。
「……ルーク」
アーサーは、生気のない声で呟いた。彼の燃え盛るような闘争心は、その一瞬だけ、完全にへし折られていた。
「俺は……剣で斬られるのも、魔法で吹き飛ばされるのも、恐怖だとは思わなかった……。だが……」
アーサーはガタガタと震える両腕で、己の体を抱きしめた。
「あんな……笑顔で、得体の知れない金属の塊を食わされるのは……もう、たくさんだ……っ」
最強の英雄に『甘いものへの絶対的なトラウマ』を植え付けた瞬間であった。
翌日、王城の円卓の間。
重鎮たちの表情は、すでに絶望を通り越して諦観へと至っていた。
「……防御を捨てた決死の特攻すらも、彼奴にとっては『元気な挨拶』に過ぎず、強制的に椅子に座らされて……クッキーで、全滅……だと……?」
宰相は、報告書を持つ手を震わせながら、力なく椅子に背中を預けた。もはや、武力による討伐は不可能である。軍隊を送ろうが、英雄を送ろうが、彼女にとってはすべて等しく『お茶会の余興』として消化されてしまうのだ。
「……武力での介入は、完全に放棄するしかあるまい」
国王の代理として出席していた第一王子が、重々しく口を開いた。
「もはや、彼女は天災だ。台風や地震に剣を向ける者がいないように、我々も彼女に対して武力を行使してはならない。……必要なのは、対話だ。彼女の怒りを鎮め、王都への被害を防ぐための『交渉役』を送るしかない」
「交渉役……と言われましても。あの狂気の空間に足を踏み入れ、対話ができる人間など……」
「おるだろう、一人だけ」
第一王子の言葉に、円卓の全員が息を呑んだ。
「神の声を聴き、あらゆる理不尽を愛で包み込む、我が国最高の至宝。……聖女エルリアを、派遣する」
武力ではなく、純粋な愛と対話の力。それこそが、厄災を鎮める唯一の希望であると、彼らは縋り付くように決定を下したのだ。
同じ頃、当の『厄災の化身』は。
「皆様、昨日も本当によく食べてくださいましたわ」
伽羅は、すっかり綺麗になった庭園で、上機嫌に鼻歌を歌っていた。
「あんなに硬いクッキーを、一口で跡形もなく平らげてしまうなんて。やはり、殿方の胃袋は底なしですのね。……ええ、決めましたわ」
彼女はパンッ、と嬉しそうに手を打ち合わせた。
「お茶菓子程度では、皆様のお腹は満たせません。次にお客様がいらした時は……最高級の食材を使った、フルコースの『ディナー』をご用意しておもてなしいたしますわ!」
神の加護を持つ不老不死の冒険者たちへ向けられた、純度百パーセントの善意。王国の放つ希望の『聖女』と、狂気の『厄災』のフルコース・ディナー。相反する二つの事象が、間もなく最悪の形で交差しようとしていた。




