第24話 愚帝の裏切りと絶望の超進化
大魔王を封印し、隣国であるグランヴェルザ帝国を滅亡の危機から救った翌日、帝都の迎賓館で休息をとっていた王都最強の英雄アーサーと、聖女・エルリアたちは、窓の外の異様な気配に目を覚ました。
「……団長。迎賓館が、帝国軍の精鋭部隊によって完全包囲されています」
窓枠から外を覗き込んだ副官のルークが、険しい顔で報告する。
見下ろせば、黒鋼の鎧に身を包んだ数万の帝国兵が、槍と弓を構えて迎賓館を幾重にも取り囲んでいた。空には竜騎士部隊が旋回し、完全に退路を断っている。
「どういうことだ。俺たちは国賓として招かれているはずだが……」
アーサーが訝しげに眉をひそめたその時、迎賓館の重厚な扉が乱暴に蹴り開けられた。雪崩れ込んできた近衛兵たちに守られるようにして現れたのは、昨日命を救ってやったはずの帝国皇帝と、その宮廷魔術師長であった。
「大人しくしろ、王国の騎士ども! 貴様らは、我が帝国に対する重大な侵略の意図を持った逆賊として、この場で処断する!」
「なっ……! 逆賊だと!?」
アーサーは信じられない思いで皇帝を睨みつけた。
「我々は貴国からの救援要請に応じ、大魔王を討伐したのですよ! 何故このような真似を!」
「黙れ! 神話の化け物を赤子のように捻り潰す貴様らのその異常な力が、どれほどの脅威か分かっているのか! あのような規格外の暴力を持つ貴様らを、生かして我が国の国境を越えさせるわけにはいかんのだ!」
皇帝の目は、極度の恐怖と疑心暗鬼によって完全に濁りきっていた。
助けられた恩義よりも、自分たちの常識を覆すほどの『理外の力』への恐怖が勝ってしまったのだ。大魔王という共通の敵がいなくなった今、彼らにとって最大の脅威は、目の前にいるアーサーたち王国軍となってしまったのである。
「それに、貴様が持っているその『大魔王の封印石』。それを持ち帰られては、王国が強大な魔力を手に入れることになる。……それは我が国が接収し、帝国の新たな兵器として有効活用させてもらう!」
「馬鹿なことを仰らないでください! この封印石は、聖女の祈りによって辛うじて抑え込んでいる劇物です。素人が触れれば、結界が崩壊します!」
エルリアが悲鳴のように叫んで制止する。しかし、皇帝の傍らに立つ宮廷魔術師長が、傲慢な笑みを浮かべて前に出た。
「小娘が、我が帝国の魔術を舐めるな。お前たちのような野蛮な力に頼らずとも、私の高位魔術で完全に制御してみせるわ! 大人しくそれを渡せ!」
魔術師長が杖を振りかざし、強烈な重力魔法でアーサーの懐から封印石を強引に引き寄せようとした。
「やめろっ!」
アーサーは封印石を守ろうと手を伸ばすが、彼がここで全力を出せば、ただの人間である魔術師長や皇帝を粉微塵に吹き飛ばしてしまう。無駄な殺生を避けるため、無意識に手加減をしてしまったその一瞬の隙が、取り返しのつかない致命的なミスを生んだ。
魔術師長の放った制御魔法と、アーサーの闘気、そしてエルリアの封印結界。三つの力が空中で複雑に衝突し、封印石に想定外の物理的負荷を与えてしまったのだ。
——ピキッ。迎賓館の静寂を切り裂く、乾いたガラスの割れるような音。
「あっ……」
エルリアの顔から、すべての血の気が引いた。空中に浮かんだ手のひらサイズの封印石に、幾筋もの亀裂が走る。
次の瞬間、パァァァァンッ!という爆発音と共に封印石が砕け散り、中からおびただしい量の漆黒の瘴気が、まるで間欠泉のように噴き出した。
「ひっ!? な、なんだこれは……っ!」
魔術師長が悲鳴を上げる間もなく、噴き出した瘴気は彼の肉体を一瞬で飲み込み、その生命力と魔力を根こそぎ奪い取ってミイラのように干からびさせた。
「グハハハハハッ! 愚か! あまりにも愚かな人間どもよ!」
瘴気の中から、かつて封印された大魔王の怨嗟の声が響き渡る。
だが、実体を失っている大魔王の瘴気は、魔術師長を喰らい尽くした後、さらなる強大な『器』を求めて濁流のように渦を巻いた。そして、その矛先が向けられたのは、この場で最も神聖な力を持つエルリアであった。
「エルリア殿、危ないっ!」
アーサーは咄嗟にエルリアを突き飛ばし、自らの体を盾にして彼女を庇った。
ズゴォォォォォォッ!
「あ、がぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
大魔王の漆黒の瘴気が、アーサーの強靭な肉体に真っ向から直撃し、彼の口や目、そして毛穴という毛穴から強引に侵入していく。
「アーサー様ぁぁぁっ!」
エルリアが悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、吹き荒れる瘴気の嵐に弾き飛ばされる。アーサーの視界が急速に闇に染まっていく。英雄としての強靭な精神力で抗おうとするが、封印の鬱憤を溜め込んだ神話の悪意は、彼の意識を深い深淵へと強制的に沈めていった。
やがて瘴気の嵐が収まると、そこには、力なくうなだれるアーサーの姿があった。
「あ、アーサー……様……?」
エルリアが震える声で呼びかける。
ゆっくりと、彼が顔を上げた。その黄金の髪はどす黒く染まり、誇り高き碧眼は、血のような禍々しい真紅へと変貌を遂げていた。そして、彼の全身からは、周囲の空間を歪ませるほどの圧倒的な暗黒のオーラが立ち上っている。
「……クハハハハ! 素晴らしい! なんという素晴らしい肉体だ!」
アーサーの口から発せられたのは、彼自身の声でありながら、幾重にも重なったような大魔王の邪悪な声であった。
「なっ……アーサー殿が、大魔王に乗っ取られたというのか!?」
皇帝が腰を抜かして悲鳴を上げる。
「驚嘆に値するぞ、この人間の器は! 極限まで鍛え上げられた闘気、そして何より、ありとあらゆる極大魔法や猛毒、絶対零度すらも無効化する『理外の耐性』が魂に刻み込まれているではないか!」
大魔王は、アーサーの肉体が伽羅の理不尽なおもてなしによってバグレベルにまで強化されていた事実を、自らが器に入ることで完全に理解し、狂喜乱舞した。
「この神すら凌ぐ最強の肉体と、我が無限の魔力が融合した今! 我はかつての世界を滅ぼした時をも遥かに凌駕する、真の絶対存在へと『超進化』を遂げたのだ!」
アーサーの姿をした大魔王が両手を広げると、迎賓館の屋根が吹き飛び、空を覆うほどの漆黒の翼が現出した。
「ば、化け物め……っ! 全軍、あの男を撃てぇぇっ!」
パニックに陥った皇帝が狂乱して叫ぶ。
帝都を包囲していた数万の軍勢が、一斉に矢と魔法を放つ。しかし、大魔王が軽く手を振っただけで、放たれた数万の攻撃はすべて漆黒の嵐に飲み込まれ、逆に帝国兵たちが嵐に巻き込まれて虫けらのように吹き飛ばされていく。
「や、やめろ! アーサー様を攻撃するな!」
エルリアが涙ながらに叫ぶが、ルークたち王国の精鋭たちも、アーサーの肉体を傷つけることができず、ただ防御結界を張って耐えることしかできない。
「グハハハ! まずは我を陥れた愚かな皇帝よ、貴様から血祭りに上げてくれるわ!」
大魔王が漆黒の炎を宿した大剣を構え、無慈悲な一撃を振り下ろそうとした。
アーサーという最強の物理的耐性と、大魔王の無限の魔力。それは正真正銘、この世界における完全無欠の絶望であった。
誰の目にも、帝国、いや世界そのものの終わりが確定したかに思えた。
その、絶望に染まる帝都の空に。
「……まあ! アーサー様ったら、なぜそのような反抗期のような格好をしていらっしゃるの?」
不釣り合いなほどに甘く、美しく、そしてどこまでも能天気な少女の声が、涼やかに響き渡ったのである。




