第18話 厄災の優雅な一日と悪魔の忠誠
朝。柔らかな朝の光が、白百合邸の豪奢な天蓋付きベッドを照らし出す。伽羅・ヴァン・ディザスターは、心地よい目覚めと共にゆっくりと身を起こした。
「おはようございます、お嬢様。本日の目覚めはいかがでしょうか」
完璧なカーテシーと共に、純白のエプロンドレスに身を包んだメイド長が歩み寄ってくる。彼女の頭には美しい山羊の角が生え、背中には蝙蝠の羽が折り畳まれている。神話の時代に世界を恐怖に陥れた上位悪魔の一柱、セバスティアであった。
「ええ、とても良い気分ですわ、セバスティア。今日も素晴らしい一日になりそうね」
「それは何よりでございます。さあ、本日のモーニングティーをご用意いたしました」
セバスティアが恭しく差し出したティーカップからは、芳醇な香りと共に、微かに紫色の妖しい湯気が立ち上っていた。
魔界の深淵にのみ自生し、一口飲めば魂まで腐り落ちるという猛毒の魔草のブレンドティー。しかし、伽羅はそれを躊躇いなく口に含み、うっとりと目を細めた。
「……んんっ。とってもスパイシーで、朝の目覚めにぴったりのお味ですわ」
「お気に召して光栄の極みでございます。お嬢様の強靭な……いえ、美しいお体に合うよう、数万の魔草から厳選いたしました」
セバスティアは心底嬉しそうに微笑んだ。
かつて、彼女がこの邸宅に召喚された時、当然のように召喚主である人間の少女を食い殺そうとした。しかし、伽羅の『軽くあしらうような扇子の一振り』によって肉体の九割を吹き飛ばされ、圧倒的な力の差——神の理すらも凌駕する理外の魔力——を前に完全な服従を誓ったのだ。
今では、この狂気と慈愛に満ちた規格外のお嬢様に仕えることこそが、彼女にとっての最大の誇りであり、悪魔としての至上の喜びとなっていた。
午前中。庭園の散歩と手入れ。
「まあ! 今日も私のお庭はとても綺麗ですわね!」
伽羅は日傘を差し、色鮮やかな花々が咲き乱れる庭園を歩いていた。
彼女の足元にすり寄ってくるのは、愛くるしい子犬——三つの頭を持つ魔界の番犬、獄炎の仔犬たちである。彼らは伽羅に撫でられると、嬉しそうに尻尾を振り、口からぽふっと小さな火球を吐き出した。
「よしよし、元気なワンちゃんたち。お散歩の後はちゃんとおやつをあげますわよ」
「お嬢様、本日の庭園の様子はいかがでしょうか」
芝生の手入れをしていた庭師の男が、深く頭を下げた。筋骨隆々の巨体に、岩のようにゴツゴツとした皮膚を持つ彼は、かつて大地を揺るがした大地の魔神である。
「とても素晴らしいわ。でも、あちらの入り口付近に植えた『吸血魔蔦』が少し元気がないようですわね。葉っぱがカサカサしていますわ」
伽羅が指差したのは、かつてアーサーたちを苦しめた、触れた者の血液を吸い尽くす極悪なトラップ植物であった。最近、アーサーたちが強くなりすぎて、蔦の攻撃を全く受け付けなくなったため、栄養が不足して萎れかけていたのだ。
「申し訳ございません。早急に、隣の魔境から新鮮な魔獣の血を仕入れてまいります」
「ええ、お願いね。私のお花たちが悲しむ姿は見たくありませんもの。お客様がいらした時に、元気なお姿でお出迎えできないと失礼にあたりますから」
伽羅は本気でそう言いながら、萎れかけた魔蔦を優しく撫でた。魔蔦は彼女の魔力に触れ、喜ぶようにシュルシュルと動いて彼女の腕に絡みつく。
魔神の庭師は、その光景を眩しそうに見つめていた。悪意なき狂気で魔界の植物すらも愛でる彼女の姿は、彼ら魔の眷属から見れば、まさしく絶対的な女神のそれであった。
午後。厨房での優雅なお菓子作り。
「さあ、今日はどんなお茶菓子を作りましょうか。前回はアーサー様が、クッキーを一口召し上がっただけで情熱的なお声を上げて天に昇ってしまいましたから、もう少しだけ柔らかくして差し上げないと」
伽羅はフリルのエプロンを身につけ、広大な厨房に立っていた。
隣で補佐をするのは、燃え盛る炎の髪を持つ料理長、炎の魔神である。
「お嬢様、本日の主素材はこちらにご用意しております」
料理長が恭しく差し出したのは、銀色の輝きを放つ神星鋼のインゴットと、暴風竜の逆鱗であった。
「ふふっ、ありがとう。でも、少し柔らかくするために、今日はマシュマロの要素を取り入れてみましょう」
伽羅は指先から超高温の業火を発生させ、ミスリルのインゴットをドロドロに溶かし始めた。その熱量は、隣にいる炎の魔神すらも冷や汗を流して後ずさりするほどの異常な温度である。
「お、お嬢様の火力は、いつ拝見しても恐ろしいほどに美しい……。我ら炎の精霊すらも灰にする熱量です」
「あら、お世辞が上手ですこと。でも、お菓子作りは愛情と火加減が命ですわ」
伽羅は溶けたミスリルの中に、魔力で極限まで圧縮した『暴風の魔力』を練り込んでいく。外側はミスリルでコーティングし、内側には噛んだ瞬間に暴風が弾け飛ぶという、文字通り『口の中で爆発する弾力』を再現したのだ。
「完成ですわ! 名付けて、『|天駆ける暴風のマシュマロ・ミスリル包み《テンペスト・マシュマロ・ミスリル》』ですの!」
「素晴らしい出来栄えです、お嬢様! これを口にされたお客様は、きっと空を飛ぶような喜びに包まれることでしょう!」
料理長は拍手喝采を送った。
もしアーサーたちがこれを見れば、再び絶望の底に突き落とされることは間違いない。しかし、この邸宅の中では、これが『至高のおもてなし』として大絶賛されるのである。
夕暮れ時。書斎での静かな時間。
一日の作業を終えた伽羅は、美しいアンティークの机に向かい、優雅な筆記体で手紙をしたためていた。
『親愛なるアーサー様、エルリアちゃん、そして常連客の皆様へ』
彼女の脳裏に浮かぶのは、いつも自分のお茶会に参加してくれる、大切で情熱的な友人たちの顔だ。
『先日は王城の美しい空中庭園にお招きいただき、誠にありがとうございました。皆様がご用意してくださったサプライズのケーキ、とてもエキサイティングで楽しかったですわ』
彼女のペンが滑らかに進む。
『皆様から素晴らしいおもてなしを受けたのですから、今度は私がお返しをする番ですの。ええ、私、最高に柔らかくて弾力のあるお茶菓子を新しく開発いたしましたのよ』
傍らで控えるセバスティアが、静かにお茶を淹れ直す。
「お嬢様は、本当にあの方々を大切になさっておいでですね」
「ええ、もちろんよ、セバスティア。私、彼らのことが大好きですの。どんなに激しいアクロバットを見せても、必ず私の元へ通ってくださる。あんなに頑丈で素晴らしいお客様、この世界中を探しても他にいませんわ」
伽羅は頬を染めて、嬉しそうに微笑んだ。
『明後日の午後、再び白百合邸の庭園でお茶会を開きますわ。ぜひ、また皆様で遊びにいらしてくださいませ。心より、お待ちしておりますわね』
手紙に美しい封蝋を施し、伽羅はそれをセバスティアに手渡した。
「これを、王城のアーサー様たちの元へ届けてちょうだい」
「畏まりました。必ずや、確実にお届けいたします」
夜。再び天蓋付きのベッドに横たわった伽羅は、満ち足りたため息を漏らした。
「今日も、とても平和で充実した一日でしたわ……。明後日のお茶会が、今から楽しみで眠れませんわね」
彼女は目を閉じ、静かに眠りにつく。その穏やかな寝顔は、世界を滅ぼす厄災の化身とは到底思えないほど、無垢で愛らしい少女のそれであった。
しかし、彼女が「平和な一日」を終えて眠りについたその頃。一足先に手紙を受け取った王城の円卓の間では、マシュマロという言葉に恐怖した英雄たちの悲鳴と胃痛が絶頂に達し、新たな絶望の夜が幕を開けていたことなど、彼女は知る由もなかった。
狂気の厄災の優雅な日常は、こうして世界を巻き込みながら、明日へと続いていくのであった。




