第16話 地下の無法地帯と健全なる環境改善
不治の奇病『灰化の呪病』を、神話級の猛毒による極上のスキンケアで完治させるという奇跡を起こした後も、伽羅・ヴァン・ディザスターの王都観光は終わらなかった。
もはや王都の平和は、彼女の「お散歩の機嫌」という、蜘蛛の糸よりも細い一本の線にぶら下がっている状態である。
アーサーとエルリアは、両手いっぱいの荷物を抱えたまま、感情を完全に消し去った虚無の瞳で彼女の後を歩いていた。
「皆様、王都の表通りは満喫いたしましたわ。そろそろ、少しディープな裏スポットも探検してみたくなりませんこと?」
「う、裏スポット、ですか……?」
アーサーがピクリと眉を動かす。
伽羅が日傘を傾けながら足を踏み入れたのは、王都の光が届かない、重厚な石造りの建物が密集する旧市街のどん詰まりだった。
そこは一般市民が絶対に近寄らない場所。王国の法が及ばず、貴族たちとの黒い繋がりゆえに近衛騎士団すらも迂闊に手出しできない王都最大の闇ギルド、『漆黒の牙』が牛耳る絶対的な無法地帯の入り口であった。
「伽羅様、ここは王都の案内図にも載っていない、粗野なならず者たちの巣窟です。伽羅様のような御方が足を踏み入れる場所では——」
アーサーが必死に制止の声を上げる。
今の理外の変異を遂げた彼らにとって、闇ギルドの武力など一切の脅威ではない。下劣な悪党どもが伽羅の機嫌を損ね、結果としてこの区画一帯が彼女の理不尽な魔法で地図から消し飛ばされる『二次被害』の危険性であった。
しかし。
「まあ! 案内図にも載せずにひっそりと営業しているなんて。きっと、選ばれた常連客しか入れない『会員制の隠れ家クラブ』ですのね!」
アーサーの必死の建前も虚しく、伽羅の目には、血生臭い裏路地の入り口が「知る人ぞ知る極上のVIPルーム」に変換されてしまっていた。
彼女はためらうことなく、分厚い鋼鉄で補強された闇ギルドの地下施設への隠し扉の前に立ち止まる。
「ごめんあそばせ。見学にお伺いしましたわよ」
伽羅が黒いレースの扇子でコツンと扉を叩いた。
ただそれだけで、数十人の大男が丸太で突いてもびくともしないはずの鋼鉄の扉が、まるでビスケットのように粉々に砕け散った。
「なっ……!?」
「なんだてめえら! どこから入ってき——ぎゃべっ!」
扉の奥で警備をしていた屈強な悪党たちが、吹き飛んだ扉の破片の風圧だけで壁にめり込み、白目を剥いて気絶する。
「まあ。お出迎えのスタッフさんが、壁に張り付いて前衛的なアートを表現してくださっているわ。とってもユニークなお店ですのね!」
「……ええ、そうですね……。とってもユニークな、闇組織です……」
アーサーはもはやツッコミを諦め、ただ乾いた声で同意するしかなかった。
長年、王国の政治的なしがらみによって手を出せずにいた絶対悪の巣窟。今のアーサーたちならば強行突破で全滅させることも造作はないが、彼らが動けば無用な騒ぎになる。だからこそ穏便に通り過ぎたかったのだが、そんな複雑な大人の事情など、この規格外の厄災の前には一枚のティッシュペーパーほどの意味も持たなかった。
地下への階段を下りた先には、広大な空間が広がっていた。
そこは、違法な魔獣闘技場と、借金で買い取られた奴隷たちが強制労働させられている劣悪な地下工房が一体となった、文字通りの地獄であった。
血と汗と錆の臭いが充満し、あちこちで怒号と悲鳴が飛び交っている。
「ふふっ、なんて活気のあるアミューズメント施設かしら!」
しかし、伽羅はパンッと嬉しそうに手を打ち合わせた。
「あちらではエキサイティングなスポーツ観戦(※魔獣によるデスゲーム)をして、あちらでは皆様が熱心に汗を流してワークアウト(※違法な強制労働)をしていらっしゃる! 王都の方々は、本当に健康志向が高いのね!」
「だ、誰か、助けてくれぇっ……! もう、体が動か……っ」
足元で、足枷を嵌められた痩せこけた労働者が倒れ込み、エルリアの純白の法衣の裾にすがりついた。
「っ……! ひどい、なんて酷い環境なの……!」
エルリアは悲痛な顔で男を抱き起こし、奇跡の浄化を施す。
その騒ぎに気づき、闘技場の奥から、この闇ギルドを束ねる顔役——全身に恐ろしい傷跡を持つ、山のように巨大な男が現れた。
「おいおい、どどこのお嬢ちゃんか知らねえが、俺の『漆黒の牙』のシマで勝手な真似をしてただで済むと思って——」
「オーナー様ですわね」
伽羅は扇子をパチンと閉じ、ギルド長の言葉を遮って厳しい顔つきになった。
「このような素晴らしいアミューズメント施設を経営されていることは評価いたしますわ。ですが、この劣悪な空気と、カビだらけの壁。そして何より、会員の皆様がこんなにボロボロになるまで追い込むようなスパルタな環境は、経営者としての『マナー』がなっていませんわよ」
「あぁん? 何を寝ぼけたことを言ってやがる。ここは俺の城だ。てめえのような世間知らずの小娘は、魔獣の餌に——」
「太陽の光も入らないこんな地下室で運動しては、心まで暗くなってしまいますわ。……ええ、少しばかり環境改善が必要ですわね」
伽羅が扇子を天に向けて優雅に一振りした。
次の瞬間、アーサーたちの頭上を覆っていた分厚い地下の岩盤と、その上に建っていた旧市街の廃ビル群が、文字通り「消滅」した。
「……は?」
ギルド長が間抜けな声を漏らす。
爆発すら起きなかった。ただ、伽羅の魔力が空間そのものを削り取り、地下数十メートルにあったはずの闇ギルドの天井を、一瞬にして『吹き抜けの青空』へと変えてしまったのだ。
燦々《さんさん》と降り注ぐ真昼の太陽の光が、何年も闇に閉ざされていた地下施設を眩しく照らし出す。
「さあ、これで風通しも良くなりましたし、お日様の光もたっぷり浴びられますわ!」
「なっ、ば、馬鹿な……っ! 俺の、俺の地下要塞が、一瞬でただのクレーターに……っ!」
ギルド長は腰を抜かし、ガタガタと震えながら後ずさった。
彼が飼い慣らしていた凶暴なキメラや魔獣たちも、伽羅から放たれる理外の魔力圧に本能的な恐怖を感じ、キャンキャンと子犬のように鳴きながらお腹を見せて服従のポーズをとっている。
「あら、ふれあい動物園のワンちゃんたちも喜んでいますわ。……でも、床もまだ少し汚いですわね。清掃も徹底いたしましょう」
伽羅が指を鳴らすと、今度は地下施設を満たしていた血と泥の汚れが、不可視の衝撃波によって一瞬でチリ一つ残さず浄化された。
同時に、その衝撃波の余波をモロに食らった闇ギルドの悪党たちは、一人残らず白目を剥いて口から泡を吹き、綺麗に気絶してしまったのである。
「ふふっ。清掃業者の方々(※気絶した悪党)も、お仕事が終わって気持ちよくお昼寝の時間のようですわね」
青空の下、ピカピカになった巨大なすり鉢状の広場。そこはもう、血塗られた闇ギルドではなく、ただの「日当たりの良い広大な市民公園」へと完璧なリノベーションを遂げていた。
「あ、ああ……助かった、助かったんだ……!」
「借金の証文も、足枷も、全部消え去っている……!」
強制労働から解放された元奴隷たちが、降り注ぐ太陽の光を浴びながら、互いに抱き合って歓喜の涙を流している。
「ありがとうございます! お嬢様、そして英雄アーサー様、聖女様! あなた方は神の使いだ!」
彼らは伽羅たちに向かって、地面に額を擦り付けて感謝の言葉を繰り返した。
「まあ。皆様、そんなに新しい公園が気に入ってくださったのね。良かったですわ!」
伽羅は日傘をクルクルと回し、心底嬉しそうに微笑んでいる。その平和で感動的な光景を前に、アーサーとエルリアは、やはり虚無の瞳で立ち尽くしていた。
(……俺たちが政治のしがらみで何年も手を出せなかった王都最大の闇ギルドが、あいつの『ちょっとしたリフォーム気分』で、ものの数分で健全な市民公園に変わってしまった……)
(ええ、アーサー様……。しかも、悪党たちは物理的な衝撃で記憶が飛んでしまったのか、なんだかとても清々しい顔で気絶していますわね……)
またしても、王国の深刻な問題が、ただの勘違いによって完璧に解決されてしまった。
彼らは英雄として、不当に搾取されていた人々が救われたことを喜ぶべきなのだ。しかし、その過程があまりにも出鱈目で、彼ら自身の力など微塵も介在していなかったため、湧き上がってくるのは強烈な「脱力感」だけであった。
「……ルーク」
アーサーは、大量の紙袋を抱えたまま放心している副官に、乾いた声で命じた。
「王宮に報告しておけ。長年の懸案だった闇ギルド『漆黒の牙』は……日照不足による環境悪化を理由に、自主的に広場へ改装された、とな」
「……はい、団長。直ちに、そのように……」
悪意なき狂気の厄災は、ついに王都の裏社会すらも「マナー違反」として健全化してしまった。
彼らが次に護るべきものは、魔獣か、病か、それともこの狂気に満ちた平和な日常そのものなのか。理外の変異を遂げた英雄たちの葛藤と胃痛は、青空の下でも止まることなく続いていくのであった。




