第15話 不治の呪い病と極上のスキンケア
千年の封印から目覚めた真の魔王を「お会計の足し」として黒真珠に変換し、伽羅・ヴァン・ディザスターの王都ショッピングはさらにヒートアップしていた。
両手いっぱいの紙袋を抱えされたアーサーとエルリアは、肉体的には理外の変異によって全く疲労を感じていないものの、精神的にはすでに限界を超え、虚無の境地へと至っていた。
「まあ! あちらの路地裏には、ずいぶんと人が集まっていますわね。何かお祭りでもやっているのかしら?」
日傘をくるりと回し、伽羅は興味津々な様子で大通りから外れた裏路地へと足を踏み入れた。
「あ、お待ちください伽羅様! そちらの区画は——」
アーサーが止める間もなく、彼女はスラム街に隣接する隔離区画へと進んでいく。
そこは、王都の華やかな表通りとは全く異なる、重く淀んだ空気に包まれた場所だった。道端にはボロボロの衣服を纏った人々が力なく座り込み、ある者は激しく咳き込み、ある者は苦痛に呻き声を上げている。
彼らの皮膚は、まるで燃え尽きた炭のように白くひび割れ、少し動くたびにパラパラと灰のように崩れ落ちていた。
「……これは、灰化の呪病……っ!」
エルリアが息を呑み、紙袋を放り出して人々の元へ駆け寄った。
それは、近年王国の一部で突発的に発生している原因不明の奇病であった。感染力こそないものの、発症すれば全身が徐々に灰となって崩れ去り、最後には塵となって消滅する不治の病。神の加護を持たない一般市民にとって、それは絶対的な死の宣告に等しい。
「しっかりしてください! 奇跡の浄化!」
エルリアが両手をかざし、聖女としての最高位の治癒魔法を放つ。
淡い光が病人を包み込むが、崩れゆく皮膚の進行がほんのわずかに遅くなるだけで、完全に治癒する気配は全くない。
「くっ……私の全力の浄化でも、病魔を祓いきれないなんて……っ!」
エルリアは唇を噛み締め、無力感に涙を浮かべた。アーサーもまた、剣では病を斬り伏せることもできず、ただ沈痛な面持ちで立ち尽くすしかなかった。
王国の至宝たる聖女と、最強の英雄。彼らをもってしても救えない命がある。その残酷な現実に、二人が絶望の淵に沈みかけた、その時である。
「まあ。どうなさいましたの、皆様」
優雅な足取りで近づいてきた伽羅が、不思議そうに小首を傾げた。
「聖女様……。どうか、どうか私の子を……」
灰化が進み、もはや立ち上がることすらできない母親が、腕に抱いた子供をエルリアへと差し出しながら泣き崩れる。その子供の頬もまた、無惨にひび割れ、パラパラと灰がこぼれ落ちていた。
「ごめんなさい……私には、治してあげられない……っ」
エルリアが泣き崩れそうになった瞬間、伽羅はポンッと手を打った。
「エルリアちゃん、泣くことはありませんわ。この方たち、お肌が極度に乾燥して粉を吹いていらっしゃるだけですもの」
「……はい?」
エルリアは涙で濡れた顔を上げ、間抜けな声を漏らした。アーサーも我が耳を疑った。
伽羅の目には、恐るべき『不治の呪病』によって肉体が崩壊していく様が、「冬場の酷い乾燥肌」にしか見えていなかったのだ。
「ここまでお肌がカサカサになってしまっては、普通の化粧水や魔法では潤いを取り戻せませんわ。……ええ、ちょうど良いものを持っておりますのよ」
伽羅は空間収納の魔法袋から、可愛らしい小瓶を取り出した。
「先日、ピクニックの道中で採取した、特製の保湿成分100パーセントのクリームですわ。少しピリッとしますけれど、効果は絶大ですのよ」
伽羅がその小瓶の蓋を開けた瞬間。
ツン、と鼻を突くような強烈な刺激臭が裏路地に充満した。石畳にクリームの雫が一滴こぼれ落ちただけで、シューゥゥゥッという不気味な音と共に、硬い石の地面がドロドロに溶け、深い穴が開いた。
「……っ!?」
エルリアの高位の鑑定が、即座にそのクリームの『正体』を見破った。
(材質……溶解魔神の濃縮体液、腐食竜の胃液……!?)
エルリアの顔から、すべての血の気が引いた。それは保湿クリームなどではない。触れた瞬間に肉体を骨髄まで溶かし尽くし、魂すらも腐らせる、神話級の超猛毒の酸である。あんなものを一般市民の肌に塗れば、灰になる前に跡形もなくドロドロに溶けて消滅してしまう。
「や、やめてください伽羅様! それを塗っては——!」
アーサーが絶叫し、制止しようと手を伸ばす。しかし、伽羅の動きは理外の英雄たちすらも凌駕する速度だった。
「さあ、たっぷり塗って差し上げますわね! あーん、ではなくて、ぬりぬりですわ!」
伽羅は満面の笑みで、母親の腕の中で苦しむ子供の顔面に、その超猛毒のクリームをべっとりと塗りたくったのである。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
エルリアは絶望のあまり両手で顔を覆い、アーサーは己の無力さを呪いながら膝から崩れ落ちた。
終わった。王都の民を、自分たちの目の前で、理不尽な猛毒によって溶かされてしまった。
——ジュワァァァァァァァァァッ! 恐ろしい溶解音が響き渡る。
アーサーたちは、子供の凄惨な断末魔が響くのを覚悟し、目を固く閉じた。
しかし。
「……あれ? あったかい……。痛いのが、なくなった……?」
聞こえてきたのは、悲鳴ではなく、子供の不思議そうな、そして安堵に満ちた声だった。
「……えっ?」
アーサーとエルリアが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
子供の顔を覆っていた『灰化の呪病』のひび割れが、クリームによってシューシューと音を立てて溶かされていく。だが、溶けているのは『病魔』だけであり、その下からは、透き通るような健康的な肌が姿を現したのだ。
「な、なんだこれは……」
アーサーは呆然と呟いた。
神話級の強力すぎる『呪い』に対して、それを上回る神話級の『猛毒の酸』がぶつかり合った結果。マイナスとマイナスが完全に相殺し合い、純粋に病魔の部分だけを溶かし尽くすという、天文学的な確率の『奇跡の化学反応』が起きたのである。
「まあ! ほら、すっかりお肌がツルツルになりましたわ!」
伽羅は自分のエステ技術に満足げに頷くと、次々と他の病人たちにも猛毒のクリームを塗りたくっていく。
「ああっ……! 体が、体が治っていく!」
「灰化が止まった! 奇跡だ、奇跡の御手だ!」
次々と健康な肉体を取り戻していく人々は、涙を流しながら伽羅の前にひれ伏した。
「ありがとうございます、慈愛の女神様! 私たちの命の恩人です!」
隔離区画は、絶望の底から一転して、歓喜と感謝の涙に包まれた。
「ふふっ。女神だなんて大袈裟ですわ。保湿は毎日のケアが大切ですから、これからは乾燥にお気をつけてね」
人々から崇め奉られ、伽羅は上機嫌で微笑んでいる。その光景を遠巻きに見ていたアーサーとエルリアは、完全に言葉を失い、その場にへたり込んでいた。
(……俺たちが国を挙げて絶望していた不治の奇病が、あいつの『勘違いのスキンケア』で完治してしまった……)
(ええ、アーサー様……。あんな恐ろしい猛毒が、特効薬になるなんて……)
彼らは、不治の病から人々が救われたことに心底安堵していた。王都の英雄として、これほど喜ばしいことはないはずだった。しかし、その過程があまりにも理不尽で、あまりにもデタラメすぎたため、彼らの心を満たしていたのは「感動」ではなく、強烈な「脱力感」と「肩透かし」であった。
「……おい、ルーク」
アーサーは、後ろで荷物持ちをしていた副官に、虚ろな声で話しかけた。
「王宮に報告しておけ。灰化の呪病は……保湿不足が原因だった、とな」
「……はい、団長。直ちに、そのように報告いたします……」
泣きながら感謝する市民たちと、満面の笑みの厄災の令嬢。そして、完全に疲弊しきった英雄たち。悪意なき狂気は、時に奇跡をも引き起こす。王都の平和と人々の命は、英雄たちの削り取られる精神と引き換えに、今日もまたデタラメに護り抜かれるのであった。




