第13話 戦慄のピクニックと凍てつく海王
王都最強の英雄アーサーの元に、一通の可愛らしい封筒が届いたのは、ケルベロスをワンパンで粉砕した翌日のことであった。ほんのりと薔薇の香りが漂うその手紙には、流麗な筆記体でこう記されていた。
『親愛なるアーサー様、エルリアちゃん、そして常連客の皆様へ。いつもお茶会に来ていただいてばかりで申し訳ありませんので、明日は私から皆様を「海での楽しいピクニック」にご招待いたしますわ。新鮮な食材を一緒に獲りに行きましょうね!』
差出人は、もちろん伽羅・ヴァン・ディザスター。その手紙を読んだ瞬間、王城の円卓の間に集まっていた重鎮たちの顔から、一斉に血の気が引いた。
「な、なんということだ……! あの厄災の化身が、自ら白百合邸の外へ出るというのか!」
「海といえば、王都から東へ下った先にある『魔の海域』しかあるまい。あそこは特級危険地帯だぞ!」
第一王子が頭を抱えて叫ぶ。厄災が外を歩き回るということは、つまり、彼女の気分次第で、通った村や町、あるいは地形そのものが地図から消滅する危険性を孕んでいるということ。
「……落ち着いてください、皆様」
アーサーは、自らの震える手を強く握り締めながら、円卓を見渡した。
「彼女の目的は『ピクニック』であり『食材調達』です。我々が完璧なエスコートをし、道中で彼女の機嫌を損ねるような害虫をすべて事前に排除すれば、被害は出ません。……俺たちが、王都の、いや、王国の盾になります」
「アーサー様……」
隣に座る聖女・エルリアもまた、悲壮な決意を込めて頷いた。
こうして、世界で最も危険で、最も胃の痛くなる『接待ピクニック・ミッション』が幕を開けたのであった。
翌日。快晴の空の下。伽羅は純白のパラソルを差し、フリルがふんだんにあしらわれた可愛らしいサマードレス姿で、波打ち際に立っていた。
「まあ! なんて素晴らしい景色かしら! 海風がとっても気持ちいいですわね、アーサー様!」
「え、ええ……。本当に、絶好のピクニック日和です、伽羅様……」
アーサーは引き攣った笑顔を顔に貼り付け、重厚な鎧の代わりに『執事服』を模した機能的な戦闘服を身に纏い、彼女の斜め後ろに控えていた。
エルリアや数十名の精鋭たちも、メイド服や使用人の衣装を着せられ、巨大なレジャーシートやパラソル、そして「胃薬と解毒薬の詰まったバスケット」を必死に運んでいる。
道中、伽羅の視界に入りそうになった哀れな魔物たちは、すでに常軌を逸した戦闘力を得ているアーサーたちによって、文字通り「瞬きする間に」消し炭にされ隠蔽されてきた。すべては、厄災の機嫌を損ねず、このピクニックを無事に終わらせるためである。
「さあ皆様、シートを広げて休んでいらして。私、さっそく今日のメインディッシュの食材を釣ってまいりますわ!」
伽羅は嬉しそうに波打ち際まで歩み寄ると、上位悪魔のメイドから受け取った「釣り竿」——神話級の魔獣の背骨としなやかな魔竜の筋で作られた、どう見ても釣り糸には見えない極太のワイヤー——を構えた。
「……釣る、とおっしゃいましたが。狙いは何なのですか?」
エルリアが恐る恐る尋ねる。
「ええ。皆様の体がとても丈夫になってきたので、今日は特別に『海竜王の活け造り・絶対零度仕立て』に挑戦しようと思いまして」
伽羅はニコニコと笑いながら、神話の時代から魔の海域を支配する最強の海竜の名前を、さも「近所の小川でザリガニを釣る」かのようなテンションで口にした。
「り、リヴァイア……ッ!?」
アーサーたちが驚愕で息を呑んだ、その直後である。
ズゴォォォォォォォンッ!! 海面が突如として爆発したかのように膨れ上がり、天を衝くほどの巨大な水柱が立ち上った。
太陽の光を遮るほどの圧倒的な巨体。青黒い鱗に覆われ、山脈のような背びれを持つ伝説の海竜、海竜王が、自らの縄張りに侵入したちっぽけな人間たちを嘲笑うかのように、海中からその恐ろしい姿を現したのだ。
「ギィィィルルルルルァァァァッ!」
リヴァイアサンが咆哮を上げると同時に、海そのものが怒り狂い、王都の城壁すらも容易く飲み込むような高さ数十メートルの『超巨大津波』が発生した。
「ひっ……! つ、津波だぁぁっ!?」
精鋭たちが悲鳴を上げる。しかし、アーサーとエルリアは微動だにしなかった。
(……なんだ、この程度の水しぶき。|天駆ける暴風竜の絶頂ミートパイ《ペガサス・ジャンプ・ミートパイ》で成層圏の気圧と極低温を味わった俺たちに比べれば、ただの生温かいシャワーじゃないか)
すでに常識のタガが完全に外れきっている彼らの脳内では、神話の海竜が引き起こした大津波すらも、もはや驚異の対象から外れていたのである。だが、彼ら以上の『規格外の理不尽』である厄災の化身は、全く別のベクトルで反応した。
「まあ!」
伽羅は、頭上から迫り来る数十メートルの大津波と、その奥で咆哮するリヴァイアサンを見上げ、目をキラキラと輝かせた。
「なんて元気なお魚さんかしら! あんなにアクロバティックにジャンプして、ダイナミックな水遊びまで見せてくださるなんて! 活きが良くて最高ですわ!」
彼女の目には、大津波も咆哮も、すべてが「獲れたての魚の元気なピチピチとした跳躍」にしか見えていなかった。
「でも、そんなに暴れては、せっかくの美味しい脂が落ちてしまいますわ。活け造りには鮮度が命。……大人しく、氷の上に乗ってくださいませ」
伽羅は、手にしていた黒いレースの扇子を、迫り来る大津波に向けて優雅に一振りした。
ピキッ。極めて小さな、硝子が鳴るような音が一つ。
次の瞬間、世界が静止した。比喩ではない。数十メートルの高さまで迫っていた大津波が、海竜王リヴァイアサンの巨体が、そして水平線の彼方まで続く広大な魔の海域そのものが。一瞬にして、文字通り『絶対零度』で完全に凍りついたのである。
「なっ……」
「海が……海が、全部……氷河に……っ!」
アーサーたちは、目の前に広がる信じられない光景に顎を外さんばかりに驚愕した。神話の海竜は、空中で咆哮を上げるポーズのまま、巨大な氷の彫刻と化している。波の飛沫すらも空中で凍りつき、キラキラと太陽の光を反射して輝いていた。
広域殲滅魔法の極致、海神の凍てつく墓標。生態系すらも一瞬で破壊し尽くす、神の御業に等しい大魔法を、彼女は「鮮度を保つための氷締め」という料理の工程として、無詠唱でやってのけたのだ。
「ふふっ、大成功ですわ! これで鮮度はバッチリ。さあ皆様、新鮮なうちに活け造りをいただきましょう!」
伽羅は上機嫌で凍りついた海の上を歩き出し、氷漬けのリヴァイアサンの元へと向かう。
「あ、アーサー団長……俺たち、今、歴史の教科書が書き換わる瞬間を見ましたよね……?」
「ああ……。魔の海域が、ただのスケートリンクになっちまった……」
アーサーは虚ろな目で頷きながら、ふと、ある事実に気がついた。
(待てよ。……あいつ、この絶対零度で凍りついた神話級のドラゴンの肉を、今から俺たちに『食え』って言うのか?)
その予想は、数分後、最悪の形で的中することになる。
氷の上で豪奢なシートを広げ、伽羅は上位悪魔すら切り裂けないリヴァイアサンの鱗と肉を、自らの手で薄く切り分けた。その透き通るような肉を、銀の皿に盛り付けた。
「さあ、お待たせいたしましたわ! 『海竜王の活け造り・絶対零度仕立て』ですの! 少し冷たいですが、お口の中でとろけますわよ。あーん」
伽羅は満面の笑みで、絶対零度の冷気を放ち続けるその肉切れを、フォークでアーサーの口元へと運んできた。
逃げ場はない。ここで拒絶すれば、彼女の機嫌を損ねて王都がこの海と同じように氷河に沈む。
「い、いただきます……っ」
アーサーは涙目で口を開き、その肉切れをパクリと飲み込んだ。
——ピキィィィィィィンッ!
「ッッッッッ!?」
口から胃袋に落ちた瞬間、アーサーの体内の水分、血液、内臓のすべてが、内側から凄まじい勢いで凍結を始めた。
「あ、あ、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
アーサーの全身から真っ白な冷気が噴き出し、彼の髪も眉毛も一瞬で真っ白に凍りつく。
「まあ! アーサー様、あまりの美味しさに冷や汗が凍ってしまいましたの!? エルリアちゃんも、皆様も、早く召し上がって!」
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ!」
その後、氷の上のピクニック会場では、数十名の精鋭たちが次々と「内臓から凍りつく」という絶対零度の激痛にのたうち回り、美しい光の粒子となって神殿へと強制送還されていった。
数分後。王都の大聖堂、『復活の間』。
「さ、寒いぃぃっ! 腹の中が氷河期だぁぁぁっ!」
「水……いや、お湯をくれぇぇっ!」
大理石の床の上で、完全武装の精鋭たちがガタガタと震えながら絶叫している。しかし、アーサーとエルリアは、全身に霜を降らせながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「……ルーク。俺、なんだかもう、吹雪の中にいても全く寒さを感じないんだが」
「アーサー団長……。私も、今なら絶対零度の魔法を素肌で受けても、風邪一つ引かない気がします……」
狂気のピクニックを経て、理外の変異を遂げた英雄たちの肉体と魂には、新たに『氷属性の完全無効化』と『絶対零度に対する極限耐性』という、神話の神々すらも持たないような理不尽な恩恵が深く刻み込まれていた。
「……俺たちは、また王都を護り抜いたんだ。世界の海は一つ死んだが、王都は無事だ」
「ええ……。私たちは、これからも……」
強くなりすぎたが故の虚無感と、世界の生態系すらもピクニック感覚で破壊する厄災への底知れぬ恐怖。
英雄たちの常軌を逸した進化と絶望は、とどまることを知らずに加速していくのであった。




