10 ご褒美
次の日になった。
天気は、曇り。風もほど良く通り、この数日間の中では、さほど暑くはない部類だ。
探偵事務所の中では、トスナル、クンネ、京子の二人と一匹が、まったり穏やかな午後を過ごしていた。トスナルとクンネは、もうすっかり、パステル調の事務所にも慣れた様子だ。
「いやぁ、参ったね。まさか、間宮さんがあんなにも魔法使いファンだったとは――」
クンネはテーブルの上で、呆れたようにクスクス笑った。
午前中に藤山と間宮が事務所を訪れ、依頼料を払っていった。そのとき、間宮は魔法使い好きであることを告白し、トスナルたちを驚かせたのだ。
「何せ、ボンクラのトスナル先生にサインを何回もねだったんだよ。あの、いつもニヤついていた目は、魔法使いをこよなく愛する目だったんだな」
「こらこら。ボンクラって云うな、クンネ君」
トスナルは窓際に立ち、満更でもなさそうに、外の景色を眺めている。
「それにしても、良かったわね。行方不明の三人が無事に戻ったんですもの。今日のテレビは、朝からそのことで大騒ぎよ」
水色の豪華なソファーに腰かけながら、はしゃぎ気味に京子は云った。
「ところで一つ、解らないことがあるの」
「何です? お京さん」
得意気な顔をして、振り向いたトスナル。
「黒田さんは何回もあの床を踏んだのに、どうしてクモに変身しなかったのかしら」
「クラーナが、黒田さんには魔法が効かないようにするためのプロテクト魔法を施していたからです。きっと、同じ魔法を間宮さんにも掛けていたと思いますよ」
トスナルが、あっけなく答えた。
「……なるほどね。もう一つ聞いていい?」
「何です?」
京子は、急にまじめな顔をする。
「トスナルのお兄さんは、暗魔団とどんな関係があるの?」
表情が、どよんと急に暗くなる、トスナル。慌てて、クンネが口を開く。
「そ、それは……」
じたばた動揺するクンネを、トスナルはじっとにらんだ。
「口が軽いな、クンネ。……わかった。いいよ、ボクが話す。少し歳の離れたボクの兄は、優秀な魔法使い警察官だったんだ。ところが、ある事件で、兄は暗魔団に殺害されてしまった――」
ぎゅっと唇を噛み締める、トスナル。
「暗魔団の存在を知ったボクは、暗魔団に何とか仕返しをしたいと思った。そして、あるきっかけからボクはマドガンという老いぼれの魔導師に弟子入りしたんだ。十七歳のときだった」
「老いぼれは、ひどいと思うけどな……」
クンネが、口をとがらせて呟く。
「長く辛い修行の末、ボクは魔法使いになった。そして暗魔団を探す旅に出たのだけれど、結局その所在は分からずじまいだった。情けない話だよね、ボクの魔法力はその程度のものさ……」
トスナルは、遠い目をして外の景色を見つめた。
「それでボクは、とりあえず探偵としてこの街に住みながら、暗魔団を探し続けていたのだけれど、まさか向こうから先にやって来るとはね――」
事務所に、重い空気が漂う。
「ご、ごめんなさい。私、聞いてはいけない事を聞いてしまった?」
珍しく「しおらしい」京子に、返ってドギマギしてしまった、トスナル。
「いえ、いいんです。ど、どうってことはないんです」
トスナルが、おどけて云った。
すると京子は、何もなかったかの如くぱっと明るい顔に戻り、思い出したように大声を張り上げた。
「あっ、そうそう。クンネちゃんにご褒美持ってきたわ。カニ缶よ」
「ほ、ほんと? やったあ、カニ缶だ」
クンネは、京子の差し出した大きな紙袋の中に、思わず顔を突っ込んだ。
「ちょっとお、クンネにご褒美なの? 解決したのは、このボクですよ」
京子の自分への扱いに不満そうな、トスナル。
とそのとき、クンネのけたたましい絶叫が、事務所の空気を切り裂いた。
ぎゃ、ぎゃあ!
同時に、わなわなと震えながらクンネは後退り、京子に向かって抗議の声をあげた。
「って、これ何? お京さん、ゴールド缶じゃないよ! 普通のカニ缶だよ!」
「あら、クンネちゃん、当たり前じゃないの。事件を解決したとはいえ、トスナル先生は、この美人新人秘書に恥を掻かせたのよ。ゴールドじゃなくても、カニ缶を貰えるだけ、感謝してほしいってもんだわ」
クンネが怪しく光る黄色の瞳を、トスナルに向ける。
「――どうしてくれるんだよ。お前のせいで、ゴールド缶が『オジャン』になっちゃったじゃねーか」
紫色のまがまがしいオーラを纏ったクンネが、トスナルに向かって走って行き、ぴょいとその肩に跳び付いた。
「な、何すんだよ。金色のゴミ箱に叩きこむぞ! それに、さっきからゴールド、ゴールドって、一体何のことさ」
クンネの繰り出す顔への鋭い爪攻撃を、トスナルが間一髪、かわしていく。トスナルはクンネを肩から引っ剥がしにかかるが、なかなか剥がれない。
その様子を笑いながら見ている、京子。
「ところで、今回の市役所からの探偵料なんだけど、ナッキーちゃんの治療費として私が貰っとくわね」
京子の満面の笑みとは裏腹に、残酷な言葉が魔法使いと黒猫を突き刺した。
「へ?」
「ええー? そりゃないですよ」
一瞬動きの止まったトスナルの隙を突き、クンネは爪を彼の頬に食い込ませることに成功。
うぎゃっ
すかさず、クンネが爪を下方向に滑らせる。途端に、トスナルの顔面には赤い血で引かれた「川」の字が出来上がった。
「い、いってぇー。もう、今日という今日は、容赦しない!」
「な、なにおう! こっちこそ今日は徹底的に叩きのめしてくれる!」
町外れの探偵事務所は、猫の喚き声と大人の男の叫び声で、大騒ぎとなった。
一人、京子は水色のソファーにもたれ掛かり、紅茶を啜って涼しい顔をしている。
「暗魔団かあ……面白そうね。こうなったら、最後まで付き合ってやろうじゃないの」
京子は、一人と一匹に聞こえないくらいの小声で、そう呟いた。
終わり