8. 空虚な器と決意の産声
夜の森という闇が深い場所にあって、優しく照らす月光が3人の輪郭を互いの表情さえ視認できるほど無慈悲に浮き彫りにしていた。
「そう敵意を向けてくれるなよ。優しくしてやれないだろ?」
ニタニタと笑いながらゆっくりと近付くエペルに対して、震えを無理やり止めたニナが、先手必勝とばかりに伸長した棒を持って全力で駆けて立ち向かう。
「てやあああああっ!」
恐怖を振り払う声とともに、力を込めて大上段から振り下ろされるニナの渾身の一撃は、エペルに籠手でいとも容易く受け止められてしまう。
ほくそ笑むエペルを見て、ギリリとニナの歯ぎしりが鳴る。
「くははっ、逃げないのか?」
余裕綽々のエペルが受け止めた腕と逆の手でニナの棒を掴もうと振りかぶるが、その手が掴んだのは棒のいなくなった虚空だった。
身のこなしや瞬発力なら、繁忙時の食堂をひっきりなしに動き回るニナに分がある。
「あんたが追いかけてこないならすぐに帰るわよ!」
「森の獣か、俺の腕か、捕まりたいのはどっちだ?」
エペルは執拗にニナや彼女の武器を掴み取ろうと両手を大きく開いていた。
「このっ!」
ニナは手加減せずに打撃を与えるが、まだ武器の扱いに不慣れな彼女の攻撃では有効打にならない。
「ほらほら、どうした? 俺を倒すんだろ?」
エペルがニナの動きを点ではなく線で捉えて捕まえようとして、そのたびにニナは咄嗟の判断で躱していく。だが、前後左右に動きを大きくせざるを得ない彼女の体力は、確実に彼よりも減りが早くなっていた。
ガルズは少し離れた場所で静かに見つめている。
「はあ……はっ……はあ……はあああああっ!」
ここでニナがより重い一撃を与えるべく、自分の身体ごとエペルの鳩尾を目掛けて突進した。
彼女のポニーテールがすっと尾を引くように風になびき、突き出された棒がエペルの鳩尾に深々と食い込んでいく。
「ぐっ……ぐあああああっ!」
「やあああああっ!」
メリメリメリとめり込む棒とエペルの痛がる表情を見て、ニナがさらに深く突こうと近付いた。
「……ってか? 効かないなあ?」
「なっ!? あっ!」
エペルの表情が一瞬にして勝ち誇った顔に変わり、彼はニナのポニーテールの根元をむんずと掴んだ。
有効打にならなかった驚き、捕まえられた恐怖と髪を引っ張られた痛みなどが、綯い交ぜになってニナに襲い掛かる。
「捕まえたっと。こんな掴み易いものを用意してくれているなんてな。だが、俺の好みは両サイドだ。口でさせるときに両手で掴めていい」
「は、離せっ!」
「それにしても……お前は優しいなあ」
「えっ……急に何? あがっ!?」
エペルからの予想外の言葉に、ニナはふっと力を抜いてしまった。
その隙を見逃さなかった彼は彼女の腹を思いきり殴る。彼女の身体が宙に浮きあがり、彼の拳がぐりぐりと彼女の腹部を容赦なく押し潰した。
「こんな目に遭っても俺を殺そうとしないからな。まあ、ただのガキに人を殺す度胸なんてあるわけないか……って、やべぇ! 孕ませるのに腹殴っちまったよ」
「はあっ……げっ……うえっ……」
腹部に受けた衝撃で吐瀉しかけたニナだが、何も食べなかったことが幸いして涎をだらだらと垂らす程度で済んだ。
ぴちゃぴちゃぴちゃと、エペルの靴に彼女の涎が垂れていく。
「大丈夫か? 身重にできなかったら、簡単に逃げられないように手足を繋いで監禁しないといけないし面倒だよな」
ニナはキッとエペルを睨む。
彼の言葉は彼女への心配を装いすらせず、彼は監禁した後の彼女を考えているのか、ただただ下卑た笑みで彼女を値踏みしている。
「このおおおおおっ!」
ニナは力を振り絞って、握りしめていた棒をエペルの顔面にぶち当てる。顎に当てられていれば、脳震盪を起こさせて逆転していたかもしれない。
しかし、彼は咄嗟に額で棒を受けていた。
「いってえ……なあっ!」
「ぶっ! ぎゃっ! いぎっ!」
エペルは怒りに身を任せて、ニナの顔面を数回殴打する。
拳が叩き込まれるたびに、彼女の視界に火花が散って、意識が削り取られていく。
彼女はいつの間にか、手に持っていた棒も離していた。
「めんどくせえ! 無駄な抵抗をするなよっ!」
「うっ……ぐっ……」
ニナの顔は口が切れ、鼻からも血を流し、頬がぷっくりと腫れあがっていた。
それでも彼女の双眸が彼を憎しみで射殺さんばかりに見据えて、屈服していない彼女の瞳を見て、彼は苛立ちを露わにする。
「このおっ! 空っぽの分際で!」
「きゃあっ! いやっ! いやあああああっ!」
ついにエペルがニナの身体や両手を押さえ込むように組み敷いて、彼女のチュニックをびりびりに破く。
彼女の白く柔らかな肌が露わになるが、オーバーオールのおかげで肩や鎖骨が姿を現す程度に留まっていた。
「興奮するいい声だ……ちっ……破けねえな……ったくよ!」
頑丈なオーバーオールは、エペルの膂力であってもビクともしない。
その代わりとばかりに、彼は苛立ち紛れにもう1発ニナの顔面に拳を振り下ろした。
「……パ……パ」
ニナは意識を失う寸前に陥り、目の焦点が合わず、言葉が途切れ途切れになる。
「気を失ったか? まあいい、やりやすくなるからな。っと、その前に俺も脱がないとな」
ニナが気を失ったと思い込んだエペルは、近くにいるガルズもお構いなしに自分の下半身を出すために立ち上がる。
「ガ……」
ニナは意識が朦朧とする中で、不意にガルズに助けを求めようとした。
しかし、彼女がすんでのところで、彼の名前を呼ぶことを止める。
「…………」
ガルズの真剣な眼差し。
彼の目はまだ諦めていなかった。
ニナがあることにハッと気付く。
唯一の光明にして、逆転の打開策。
ただし、それは深い業を背負う道のりでもあった。
「さて、服を全部脱がすか、それともキスか? もういっそ一発目は喉にコレを突っ込むのもありか」
「…………」
ニナは迷っていた。
彼女の身体が震え、腕やポーチも微かに揺れる。
「相変わらず、驕ったプライドと下衆な執着心の塊だな。ニナに昔、何か言われたかされたのか?」
「おっと、まだいたのか、旅人」
「お前がニナを殺さないとも限らないからな」
「そんなことするわけないだろ? 俺に一切見向きもしなかったニナはもう、これで俺のモノだ。旅人、お前は自分の女を奪われる無様な気持ちを噛みしめろ」
エペルが勝ち誇ったように、ガルズへとそう宣言する。
ガルズは首を横に振った。
「……抱ける『女』は要らない。俺は背中を預かる覚悟を持った『相棒』が欲しい」
相棒という言葉を耳にした瞬間、ニナは迷いを振り払い、彼女の視界から薄靄が晴れる。
「そうか! じゃあ、ほかを当たるんだな!」
エペルが自身の一物をニナの口に含ませるために、彼女の身体を起こそうと近付いた瞬間。
「【ライト】!」
気絶をしていたフリで目を瞑っていたニナの放つ【ライト】が、月光の数倍の明るさで光り、闇に慣れたエペルの視界を強烈な白い光で覆って焼き尽す。
「いぎゃっ! まぶ、しいっ! くそっ! 目が、目が開かねえ!」
このときのエペルは目に両手をやって、転ばないようにと膝を屈めて地面に踏み込んでいた。
「あああああっ!」
力の限り叫ぶニナはポーチから予備の棒を取り出し、すぐさま穂先をガチャリと現し、槍状態でエペルの無防備な腹に思いきり突き刺した。
鉄の穂先が肉を裂く感触は、槍の柄を通じて彼女の掌に生々しく伝わる。
何もないはずなのに胃の中身が逆流する違和感に襲われながら、彼女は顔を歪めた。
「ぐふっ!? ぐがっ!? 短い……槍? まだ武器を隠し持——」
視界に輪郭が戻りつつあるエペルが槍を抜こうとするが、そうはさせないとニナが思いきり槍の石突を蹴り上げる。
血飛沫が噴きあがり、彼女の身体も赤く染めていく中で、彼女は押し上げるように足へと力を込めて、彼を地面に転ばせた。
「ああああああああああっ!」
さらに、ニナは涙も拭かずにすぐさま起き上がると、もう一つの予備の槍を急いで用意して、仰向けに倒れているエペルの心臓を目掛けて全体重を乗せて突き立てる。
いつまでも続く喉を裂かんばかりの絶叫は、彼女の槍が肉に突き刺さる音をかき消した。
「ぎゃあああああっ! 分か、った! もう、お前のこと、あき、らめる……から……助……け……ごふっ……死にた……く……な……」
「ああああああああああああああああああああっ!」
豚や牛を捌くときとは異なる肉の感触に手を震わせながら、自分の行っている行為への恐怖やエペルへの手心を塗りつぶすかのように、ニナはただひたすらに叫び続けていた。
エペルが彼女の身体を掴んで引き離そうとする頃にはもう、痛みに耐えて踏ん張るだけの力が残されていなかった。
「……あぁ……い……」
エペルの断末魔が徐々に小さくなっていく。
絶命した彼の上で、ニナはぐったりとした様子でへたり込む。
「はあ……ひっぐ……はあっ……えっぐ……うっ……うえっ……うえええええっ……私は……ただ普通を望んでいただけなのに……」
血と涙に塗れ、破けた服から肌を晒すニナに近寄り、ガルズは自分のジャケットで彼女を包み込んだ。
それは『女』に対する庇護ではなく、『相棒』に送る最初の敬意だった。
「……ニナ、お前は自分を守った。『純潔』も『命』も『意志』も『尊厳』も、そして、自分の『未来』もだ」
ガルズの優しく強い言葉に、安堵も憤怒も悲哀も、あらゆる感情を混ぜ合わせることになったニナはそのすべてを彼にではなく女神にぶつける。
「絶対……絶対に女神さまを見つけてやるんだから……絶対に……」
ニナの決意は確固たるものとなる。
ガルズは静かに頷いた。
「歓迎するよ、相棒」
ガルズはニナを安堵させるためか、疲れでふらつく彼女を優しく抱き留めた。




