5. 虚無の身売りと変化の萌芽
太陽も寝入る頃、いつもなら活気づき始めるゼムの食堂は今、閑古鳥さえも来ることを避けて静まり返っている。
暗がりの中、1つだけ灯っているランプがテーブルを照らしていた。その頼りない灯りの中で、ゼムが突っ伏すように頭を抱えている。
ガルズはそんな彼を見つけて静かに近寄った。
「こんな所で何をしているんだ、ゼム」
「俺は……最低だ……最低の父親だ……父親失格だ……」
静まり返る食堂で、ゼムの泣き腫らした声が響く。
ガルズは上を見上げた後、やれやれと眉を八の字にする。
「最低じゃないさ。ニナを必死に守ろうとしていたじゃないか」
このガルズの励ましの言葉が、ゼムに顔を上げさせて、さらには彼の全身を震わした。
「心にもないことを言うなよ、ガルズ。俺があのとき何をしてやれた? ニナじゃなくて、自分や周りを見ていたんだ! ニナが一番怖かっただろうに、俺は……お前がニナのことを言うまで、雰囲気に呑まれて、そんな当たり前のことにさえ気付けなかったんだ! そんな俺が——」
ゼムの自責の念や自己嫌悪の言葉が並べきる前に、ガルズはテーブルを思いきり叩いた。
ガルズの表情から、テーブルが壊れんばかりのその音には怒りも侮蔑も込められておらず、ただただ制止するための大きな音だった。
「悪いが、弱音と長話は覚えていられない方でな。俺から言えるのは、ニナにはお前しかいないってことだ。自分を哀れむ暇があるなら、ニナとの明日を考えるんだな」
ガルズは淡々とした口調でゼムを諭す。
傍目からは自らを嘆く40代中年と、落ち着かせようとする10代後半青年のやり取りだが、記憶を有しながら輪廻転生を繰り返すこの世界では珍しくもなかった。
「…………」
「明日にはここを出る。世話になったな」
「…………」
沈黙を続けるゼムに対して、ガルズはただ告げたいことを告げて部屋に戻っていった。
「赤い光に、蘇らない記憶か。こんなことは初めてだな……興味深くはあるが……」
ガルズが薄ぼんやりとした部屋に戻って、状況を整理するように何度か口から零していると、不意に部屋の扉をノックする音が鳴る。
「ガルズ……今いい?」
訪ねてきたのは、ゼムではなくニナだ。彼女は戻ってから、食事も摂らずに自室に籠っていた。
ガルズは突然の来訪者に眉根1つ動かさず、静かにゆっくりと扉を開く。
「ニナか。ルームサービスを頼んだ覚えはないが?」
薄暗がりの中、廊下の照明が2人を照らす。
ガルズがニナの頬に残る涙の跡に気付かないふりをして、昨日と変わらない軽口を叩くと、ニナは強張っていた表情が少し緩んだ。
「ガルズ、回りくどいことをせずに言うわ。お願いがあるの」
「お願い?」
ガルズは嫌な予感と少しの期待をおくびにも出さず、ニナの言葉を聞き返した。
ニナはこくりと1度だけ頷く。
「中に入ってもいい?」
「……あぁ」
ガルズは扉を大きく開いてからニナを招き入れ、対面するようにベッドに腰を掛けた。
ニナはシワのないラフな部屋着で突っ立っている。
「ガルズ、私を旅に連れて行ってほしいの」
「俺の旅に? ゼムはどうする?」
ニナは一瞬身体が小さく跳ねる。
「もういい歳のパパに故郷を捨てさせるなんてできない。でも、私はここにいられないし、正直、いたくもない。だけど、私ひとりじゃ何もできない。ほかの場所に行っても、私ひとりじゃ今日みたいになるだけ」
決意と不安、そして、身に降りかかっている現実。
ニナが今の今まで涙を流しながら考えていたことは、ガルズにも容易に想像できた。
「俺と旅してどうするつもりだ?」
しかし、ガルズは一時の情で流されるほど甘くない。
彼の旅はただの観光ではなく、未知を探求する旅だ。それは危険や苦難も十二分に孕み、命を落とす可能性も高い。
「……女神さまに会ってみたい」
ガルズは口元に手を当てて、少しだけ口の端を上げる。
未知という点において、彼がここまで惹かれるものはしばらくなかった。
「また童話の話か。『遥か東、太陽が生まれる場所に、女神さまはおわします。』とでも? 夜の読み聞かせはもう卒業しているだろう?」
ガルズが再び彼女におどけて見せると、ニナはガルズの隣へと腰かける。
至近距離で視線が交わり、潤んだ瞳の奥に互いの顔が鏡のように映り込んでいた。
2人の吐息も混ざっていく。
「いないなら、いないでもいい。でも、いないってことを自分の目で確かめたい」
強い決意の下、ニナの瞳が涙の奥で火種を燃やし続けている。
「いい心がけだが、俺にはニナを連れて行くメリットがない」
ガルズの言葉は、まるで氷のように冷たくニナを突き放す。
「メリット……私、何でもするわ! 炊事だって、雑用だって、何だって!」
「それなら俺でもできる。旅は身軽な方がいい」
ニナの縋るような叫びがガルズの心に響かないのか、彼は無表情のままだ。
得意な家事では彼が靡かない。
彼女は何かを決意したように、頬を赤らめながら自身の肩に震える手を掛けていた。
「な、何でもするって言ったでしょ! 何でも……そう、ガルズだって男でしょ……本当に何もない私だけど、綺麗にしてきたこの身体ならまだ価値があると思うから——」
ニナは涙を浮かべているも躊躇いを振り切るように、纏っている衣服を脱ぎ始める。
彼女の白い肌が露わになり、華奢な肩や浮き出た鎖骨が見え、服をつまんだ指先が胸元まで差し掛かろうとしたとき、ガルズの大きな手が彼女の動きを封じた。
「……やめろ」
「っ……」
部屋の空気が凍りつく。
ガルズの視線には情欲が欠片もなく、ただ射抜くような冷徹さだけがあった。
その反面、彼女の冷たくなっている手に、彼の手の温もりがじんわりと伝わっている。
「身体だけだと、自分をその程度と思うなら、エペルの女にでもなればいい」
ガルズはそっと手を離し、続けざまにニナを突き放していく。
ニナは肩をさらけ出したまま自分自身を抱きしめて、顔をくしゃくしゃにしながらベッドに涙をポロポロと零し始める。
「嫌よ! 私のことをモノのように見ている男になんて! あのとき……何が何だか分からなくて、怖くて、寂しくて、悔しくて、悲しくて、どうすればいいか分からなかったあのとき、私のことを怖がらずに、私のことを考えてくれたガルズだから信頼できるの! だから、ガルズになら……」
「甘えるな。俺が欲しいのは、抱ける『女』じゃない」
ガルズは感情を乗せない平坦な調子でそう言い放った。
「じゃあ……何なら欲しいって言うの!?」
ニナは涙も洟も出たままのぐしゃぐしゃの顔を上げた。
ガルズの言葉に、拒絶の先の許容を見出そうとしている。
「……俺の旅に必要なのは、過酷な状況でも背中を預けられる『相棒』だ。安寧に身を寄せるために、身体を安売りしたり、泣き落とししたりするような女は旅の邪魔だ」
しばしの沈黙。
ニナが時間をかけて彼の言葉を噛み砕いていく間、ガルズは彼女をじっと見つめ続けた。
やがて、ニナは噛み砕いたものを飲み込んだ。
「相棒なら……私、なるわ! ガルズの相棒に! 旅の邪魔になんて絶対にならない!」
それは自暴自棄な諦めではなく、彼女本来のハツラツとした強さを宿す本当の覚悟だった。
ガルズは冷めた笑みを浮かべる。
「簡単に言ってくれるが、生半可なことじゃ相棒にできない」
「え? じゃあ、どうすれば」
「そうだな……」
ガルズはここで考えあぐねた。
ニナの決意は確かだ。だが、旅を伴にする実力や覚悟があるかを判断しかねている。
そう、彼は天を仰いで、何かしらの確認する手段を模索し始めていたのだ。
再び沈黙に包まれかけたそのとき、ドタドタドタと階下から駆け上がってくる足音が聞こえてくる。
ニナはハッとしてベッドから立ち上がり、服装の乱れを恥ずかしそうに直す。
「た、大変だ!」
ゼムがノックさえも忘れて、ガルズとニナのいる部屋へ乱暴に入ってくる。
「ゼム? どうした?」
「パパ、どうしたの?」
血相を変えたゼムを見て、2人ともただ事ではないと察して訊ねる。
「なんでニナがここに……いや、それよりも! ガルズ、無理を承知で頼む! 森に薬草を取って来てくれないか! レッジが高熱を出して、このままじゃ、ニナが!」
「ニナ?」
「私?」
突然のゼムの懇願に、ガルズとニナは困惑した顔をしてお互いに見合わせた。




