48「わらひ、うらいはす」
ピアノの旋律が摩天楼に響きわたる。
モーツァルト ピアノ・ソナタ第11番イ長調――朗らかで親しみやすく、それでいて技巧も光るその曲は大輪の花のようなマルガリータ嬢にぴったりな曲だ。
フロアの注目はマルガリータ嬢に集まり、私は途端に壁の花になる。
「……すごい、な」
だけど、もう無理やり割り込む元気はなかった。
ベインブリッジ少将が自慢げな顔でこちらを眺めている様に腹が立つけれど、それでも明確に分かってしまったことがある。
(勝てない)
マルガリータ嬢は若く、美しく、心清らかで正義感に厚い。
それだけではない。
彼女は何かをわきまえていて、シュヴァリエに愛情を持ちながらも決して必要以上に踏み込むことはしない。
過去の傷を無理やりこじ開けて突破しようとする私とは、何もかもが違うのだ。
「…………マルガリータ嬢、よろしいですか?」
「ミシェル様! はい、是非に!」
ピアノの演奏が終わると、シュヴァリエがマルガリータと二人で展望台に行ってしまう。
今すぐ追いかけて、ふたりの間に割り込みたかったが、もうそんな元気はない。
『一周目の私は、どうしてたんでしょうか』
『ここで身を引いていたな。シュヴァリエがお前を好きなのは明白なのに距離を置いたせいで、仲が拗れた』
みっともなく父に泣きつくが、父は冷たい。
遠い目でシュヴァリエとマルガリータ嬢の背を追いかけたまま、私のほうを向いてはくれない。
『シュヴァリエは私のこと、好き、なんですかね……』
『今のお前に必要なのは、そんな情報じゃないと思うがな』
『それは――』
「織歌」
私と父の日本語の会話は、ダミアンの声によって遮られる。
ダミアンはウェイターを呼び寄せてシャンパンを手にすると、そっと私に握らせた。
「飲みな」
「いや、私は酒は……というか、酒が出るのか、ここは?」
「禁酒法なんて誰も守ってねえよ。酒が出ないサロンなんてない。とにかく、酒でも飲んで気合い入れな。今日のお前は魅力的じゃない」
「ううっ」
「勝、お前も」
「”せんきゅー”」
ダミアンは父にもグラスを渡す。マフィアのボスにウェイターの真似事をさせたのが申し訳ない。
ダミアンの言う通り、今日は何もかも駄目な日だ。
グラスに映る自分も、心なしかしょぼくれている。
「お前は俺をハクレンとC.A.D.から奪い取ったのに、マルガリータには形無しだな」
「あの時は……必死だった。あなたを失いたくなくて」
「今は必死じゃねえんだ?」
「必死だよ! だけどシュヴァリエには居場所がある……私が、そこまで侵していいのかどうか……」
「確かにあいつはいいとこの坊ちゃんだよ。軍との軋轢で立場を失わなきゃ、摩天楼の上で地上を見下して酒飲んでるようなポジションだ」
ダミアンは「Cheers」と言って父とグラスを交わす。父は言葉の意味は分かっていないようだが、乾杯の意味だと理解したようで「乾杯」と日本語で返していた。
言葉も通じない、人種も違う、過ごしてきた過去すら違う二人が杯を交わす姿を見て、思わず笑みがこぼれる。
ダミアンはそれを見ると「やっと笑った」と言って撫でてくれた。
「でも、お前という婚約者がいて、勝という親友までついてくる。俺はこれ以上魅力的な居場所はないと思うけどな」
「きっと彼も、あなたという親友がいることを喜んでくれると思うよ」
「俺とシュヴァリエが親友、ねえ……」
「私にはそう見える」
そうだ。私自身はマルガリータ嬢に劣っているかもしれないが、私には大切な婚約者がいる。
愛しい彼らとの絆が、私の最大の武器なんだ。
「飲みます!」
「静かに飲めよ」
私は気合いを入れて酒を飲み干す。あたまがまっしろになって、ふわふわとしたここち……
ふらふらになりながらピアノの近くによると、新たな演奏者に耳打ちをする。
突然の酔っぱらいの登場にピアニストは驚いていたが、後ろにダミアンが控えているとわかるとあっさりと承諾してくれた。
「”織歌?”」
父の不安そうな声が耳に届く。
一周目の私がしなかったことを、今やろうとしている。少し不安があるが、酒の勢いがそれをかき消してくれる。
「わらひ、うらいはす(私、歌います)!!」
◇ ◇ ◇
「ここからミシェル様のおうちは見えるかしら?」
「少し遠いです」
織歌が酔っぱらって暴れている頃、シュヴァリエとマルガリータは展望台から地上を見ていた。
地上からは見上げていた建物が、今は石ころのように小さい。
世界とはなんとちっぽけなのだろうか。摩天楼からの眺めは、人を惑わせた。
「お話とは……お別れのお話です、よね」
「……はい。私はもう貴女に相応しくない。どうか私を待たずに、新しい人生を歩んでください」
「それは、貴方がマフィアになってしまったから、ですか?」
「その通りです」
マルガリータは聡明だった。意中の人からの「二人きりになりたい」という申し出が別れ話だと瞬時に理解できるほどに。
「ミシェル様……貴方がどうしてわたくしから距離を置いたのか……わたくしには貴方のお心がわかりません。わたくしは至らぬ小娘ですから、不愉快にさせてしまったこともあるかもしれません」
「そんなことはありません。あなたは完璧だ」
「でも、一度だって触れてくれたことはないではないですか」
「魅力的過ぎたのです、貴方は。だから穢れてしまった私とは、もう縁を切ったほうがいい」
それでも涙は見せず、気丈に笑顔を見せる。眦に少しだけ涙がにじんでいた。
聡明な彼女は、シュヴァリエが切り出した別れの理由がそれだけではないことがわかってしまう。
「織歌様のこと、お好きなんですね」
「……はい」
「素敵な方です。わたくしも一目で目を奪われてしまいました。あの方に負けるなら、文句はございません」
「でも……」とマルガリータは続ける。
そっとシュヴァリエの大きな体に寄り添うと、震える声で小さく懇願した。
「最後に、キスだけしてくださいませんか?」
★★★
読んでくださりありがとうございます!
アルファポリスさんでは「海神別奏」最新話を先行公開しております!
https://www.alphapolis.co.jp/novel/43656324/266018700




