57話 教官エンリルの葛藤
それから少しして、ガチャッと教室の扉が開いた。
「席に着きなさい」
教官であるエンリルが入ってくるや、それまで騒がしかった教室内がぴたりと静まりかえる。
もうすでに立派な訓練をされたかのような生徒達の行動には感心してしまう。
だがそれも、エンリルの毅然とした空気感がそうさせるのかもしれない。
前衛コースの教官であるアルバートもまた、その場の空気を引き締める力を持っていたが、エンリルはまた種類は違っている。
アルバートが巨大な山を前に立ち向かう命をやりとりするような緊迫感を与えるとしたら、エンリルは清流の中に入り身を清めるような静寂と清らかな凜とした緊張感を与えてくる。
とはいえ、そんなエンリルの空気にも呑まれないのがレティシアとデュークである。
教官と言うだけあり、彼女は強い。
それは他の教官も生徒の誰もが認めているからこそ、誰も反抗などしないのだ。
だが、レティシアから見れば、エンリルに限らず他の教官達を見ていると、ずいぶんとぬるま湯につかっているようだと思ってしまう。
教官としての威厳はあるものの、根幹にある重厚さや必死さが足りない気がする。
けれどそれは決して馬鹿にしている訳ではない。
むしろレティシアは嬉しいのだ。
いつ命を取られるか分からない、そして自分達が倒れたら世界の命運は尽きてしまうというプレッシャーの中戦ってきた。
次代の魔導師を育成する教官達にその圧迫感を感じないということは、世界が平和であることの証なのだから。
どちらかというと気になるのは……。
レティシアは隣に座るデュークをチラリと見た。
レティシアからしたら、よっぽどデュークの方が危機感を覚える。
いつでも武器を抜けるようにしているのは、やはりデュークの生い立ちがそうさせるのかもしれない。
教官達よりずっとデュークの方が死線をかいくぐってきた緊張感を今も持ち続けている。
その緊張がいつか爆発してしまわないかだけが心配である。
まあ、自分がしっかり見張っていたらいいかと、レティシアは自分の指にはめたデュークと魔力で繋げている指輪をゆるりと撫でた。
それに、問題はデュークだけにとどまらない。
「これを、レティシアさん答えてください」
急に名指しされたレティシアは立ち上がる。
このセラシオン魔導師学校では、貴族も平民も関係なく遇するという信念の元、名字では呼ばない。
王族だろうと、この学校ではその権威もなんの意味をなさないのだ。
それほど強気でいられるのは、やはり邪竜を倒した魔導師で守護者の一人であるクロノが校長を務めいるからというのは大きい。
そもそも名字を持たない種族や国の平民も通っているので合わせているというのもあるのだろう。
レティシアはエンリルに向かって歩くと、黒板になにやら神聖文字が書かれていた。
どうやら昔の物語の一文が書かれているようだ。
前世で常に神聖文字を使っていたレティシアにとっては、読み解く労力すら必要のない一文。
しかし、今の世では神聖文字はかなり難しい文字と化している。
邪竜の戦いが終わり、いくつもの国が滅ぼされて、力を合わせて復興せねばならないとなって共通の文字を使うようになったからだ。
最初はレティシアの予想だけだったそれは、ラグナルによって確信を得られた。
そもそも最高神の加護を持つレティシアに言語の壁は存在せず、神聖文字でなくとも読み書きできるので勉強の必要はない。
レティシアは指先に魔力を集めると、黒板を指でなぞる。
魔法具の一種である特殊な黒板は、魔力に反応してなぞった部分が光るのだ。
レティシアは物語の一文を共通語に訳して書いていった。
「……正解です」
いろいろと反則なので、どや顔をするのも恥ずかしいレティシアは平然としているが、レティシアを指名したエンリルは近くにいたレティシアにしか分からないほど一瞬だけ不満そうに眉根を寄せた。
席に戻ったレティシアはエンリルの授業を聞いていたのだが、その後もなにかとレティシアを指名するのである。
そしてレティシアが正解すると、必ず不満げにするのだ。
表情の変化は本当に瞬きほどのわずかな間なので、間近で目にするレティシアしか気がついていないかもしれない。
いや、がっつりエンリルを睨んでいるデュークとエアリスは気がついているだろう。
それに、表情の変化に気がつかずとも、エンリルがレティシアを目の敵にしているのはなんとなく教室内の生徒は察していた。
最初理由が分からなかったが、なんてことはない、他の生徒と同じである。
レティシアの実技での力不足が原因だった。
そしてとうとう我慢の限界来たのか、授業終わりにレティシアを呼び止めた。
「レティシアさん、ちょっと残ってください」
「デュークも一緒でいいですか? 放っておくとなにやらかすか分からないので」
「……まあ、いいでしょう」
エンリルはわずかな躊躇いを見せたが、これはエンリルのためでもある。
レティシアはなんとなくエンリルが言い出すことを察していたので、デュークをそばに置いたのだ。
「レティ」
「ジゼット達は先に行ってて」
「……はい」
ジゼットは逡巡した後、エオンを連れて教室を出た。
そうしてレティシア達以外いなくなった教室で、エンリルは厳しい表情で告げた。
「レティシアさん、これはあくまで多くの魔導師を育て見てきた、セラシオン魔導師学校を知る者としての助言です。これ以上は諦めて早く退学しなさい。それがあなたのためです」
「何故?」
レティシアは驚かなかった。
エンリルの方が冷静なレティシアの対応に目を見張った。
けれどすぐに自分の役割を思い出したのか、質問に答える。
「あなたでは力不足だからです。あなたもこれまでの間で気がついているかと思いますが、魔導師は実力がものを言います。あなたは確かに座学については一年生の中で一番成績がいい。それは私も認めております。しかし、やはり実技に置いて合格ラインにも満たなかったあなたはこの場にいるべきではない」
「デュークはどうするんですか? デュークは私がいなければコントロールできませんよ?」
「恥を知りなさい。あなたも自分の実力ではなく、彼の力を利用してまで魔導師でありたいのですか? そのような矜持のない者は、なおさらここには相応しくありません」
ぴしゃりと叱責するエンリルは、自分の判断に間違いはないと疑っていない。
だが、実際はエンリルの判断の方が正しいのかもしれない。
実力主義をうたっている中で、試験で結果を残せなかったレティシアが補欠とは言え合格になっているのだから、落ちてしまった受験者はもちろんのこと、試験を勝ち抜いた強いプライドを持ってこの学校に通っている生徒からすれば、レティシアはデュークが闇持ちだったからおまけで合格したようにしか見えない。
実際、実力を発揮できなかったので、仕方ないと放置していたのだが、まさか教官に面と向かってやめろとまで言われると思わなかった。
やはりデュークを同席させていてよかった。
レティシアのあずかり知らぬところで教官を闇討ちされてはかなわないと思ってそうしたのだが、判断は正しかったようだ。
デュークは今にも飛びかかりそうなところを、レティシアが手を繋ぐことで抑え込んでいる。
エンリルはまさか自分の命が狙われているとは思っていないだろう。
さて、どうしたものか……。
「少し考えさせてください」
「分かりました。こちらも急に話をしてしまったので時間は必要でしょう。ただし、あなたが実力を示さない限り、他の生徒もあなたを受け入れることはないでしょう。どんどん悪化する前に、去ることを薦めます」
エンリルは言いたいことだけを告げると教室から出ていった。




