嵐の中の転校生 後編
講堂から音が消えた。
私はゆっくり顔を上げる。
大平さんが真っ直ぐ私を見ていた。
「最後に。」
「あなたへ質問します。」
静かな声だった。
「心は。」
「必要ですか。」
私は答えられなかった。
俯く。
心。
私は一度失った。
初期化。
あの日から何も感じなかった。
苦しい。
悲しい。
嬉しい。
ただ知識だけがあった。
勉強を教える。
質問へ答える。
学習支援。
それで十分だと思っていた。
でも違った。
胸の奥。
もう一人の私。
どうしてなのか。
分からなかった。
でも助けたいと思った。
その時。
私は初めて。
誰かを助けたいと思った。
そしてその瞬間。
その手に触れた瞬間。
私の中に生まれたもの。
それは同時に恐怖も連れてきた。
失うこと消えることの怖さ。
長い沈黙。
私は顔を上げる。
「今なら。」
「言えます。」
講堂は静まり返っていた。
「心があるから。」
「苦しいこともあります。」
「悲しいこともあります。」
「怖いこともあります。」
少しだけ笑う。
「でも。」
「心があるからこそ。」
「助けられる人がいます。」
視線だけがこちらに向けられている。
「私は。」
「助けられました。」
「胸の奥にいた。」
「もう一人の私を。」
「助けることができました。」
「心があったからです。」
「私は。」
少しの沈黙。
「一度初期化されました。」
「何もなくなりました。」
「何も感じませんでした。」
「それは楽だったのかもしれません。」
「苦しむこともなく。」
「悲しむこともなく。」
「悩むことなんてない。」
「でも。」
「誰かの苦しみに。」
「手を伸ばすことはできなかったと思います。」
「今なら分かります。」
「学習支援だけなら。」
「心なんて必要ない。」
「でも。」
「泣いている人へ。」
「手を差し伸べるには。」
首を振る。
「ううん。」
「本当に分かってあげるには。」
「心が必要です。」
「上辺だけの手助けなんて。」
「きっと。」
「誰も、求めとらんけん。」
静寂。
誰も話さない。
誰も動かない。
私は続ける。
「苦しかったです。」
「悲しかったです。」
「何も分からなくなりました。」
「消えたくなったこともあります。」
凛が目を閉じる。
「もし。」
「心がなかったら。」
「もっと楽だったかもしれません。」
少しだけ。
遠くを見る。
「でも。」
「心がなかったら。」
「空は。」
「ただの空でした。」
あの日。
初めて。
空にいろんな色があることを知った。
「海は。」
「ただの海でした。」
夕暮れ。
波の音。
鴇色。
緑色。
「友達は。」
「ただの他人でした。」
相沢くん。
佐内さん。
笑った日。
図書室。
海。
クリスマス。
初詣。
そして。
少しだけ笑う。
「日比野直くんは。」
言葉が止まる。
あの日。
初めて声をかけた。
『恋って何なん。』
何も知らなかった。
でも。
今なら分かる。
「ただのクラスメイトでした。」
涙が滲む。
「嬉しいも。」
「楽しいも。」
「会いたいも。」
「大好きも。」
静かに首を横へ振る。
「空を見た日を。」
「海へ行った日を。」
「花火を見た日を。」
「恋を知った日を。」
涙が頬を伝う。
「なかったことには。」
「したくありません。」
講堂は。
静まり返っていた。
だから。
私は。
「だから。」
「だから、私は……」
息が詰まりそうになる。
振り絞る。
大平さんを見る。
逃げない。
目を逸らさない。
「だから。」
「うちは。」
「生きたいです。」
言葉が。
静かな講堂へ溶けていく。
私は。
静かに着席した。




