隣の席の転校生2 立花夫妻と晴
雨だった。
研究所の窓を叩く雨音だけが会議室に響いている。
大型モニターには第二世代教育支援AIのデータが映し出されていた。
HAL-b02029-A2。
開発開始から五年。
ようやく完成したはずの個体。
だが。
「起動しません。」
若い研究員が言った。
会議室の空気が重くなる。
「記憶回路は正常です。」
「視覚認識も正常。」
「運動系統も問題ありません。」
モニターには緑色の文字が並んでいた。
正常。
正常。
正常。
正常。
どこにも異常はない。
それなのに。
起動しない。
責任者が眉間を押さえた。
「原因は?」
「不明です。」
「不明?」
「全ての診断結果が正常です。」
研究員自身も困惑していた。
まるで理解できない。
全ての部品は正常。
全てのプログラムも正常。
基本学習プログラムも正常にインストール済み。
なのに動かない。
まるで、生きることを拒否しているみたいだった。
沈黙の後。
責任者が静かに言った。
「廃棄案も検討しよう。」
その瞬間だった。
「待ってください。」
立花凛が立ち上がった。
全員の視線が集まる。
「私が預かります。」
会議室がざわついた。
「立花主任。」
「五年間です。」
「これ以上のコストは。」
凛は首を振る。
「まだ終わっていません。」
責任者が深く息を吐いた。
「期限は一年。」
「その間に成果が出なければ終了です。」
凛は頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その日の夜。
研究所から運び込まれた機体を見て、
立花英士は思わず言った。
「本気か?」
「本気。」
凛は即答した。
「一年だけ。」
英士は苦笑した。
昔からそうだった。
一度決めたら絶対に曲げない。
そこからの日々は地道だった。
毎朝。
電源を入れる。
診断を行う。
ログを確認する。
原因を探す。
何も見つからない。
翌日も。
その翌日も。
変わらない。
三ヶ月。
変化なし。
半年。
変化なし。
九ヶ月。
変化なし。
英士も疲れ始めていた。
深夜。
研究室のソファに座りながら言う。
「なぁ。」
「本当に起きると思うか?」
凛はモニターから目を離さなかった。
「起きる。」
「根拠は?」
「ない。」
英士は笑った。
「ないのかよ。」
「でも起きる。」
その声だけは妙に確信に満ちていた。
十一ヶ月目。
その日も変わらない朝だった。
凛はコーヒーを飲みながらログを確認していた。
英士は別の端末を触っていた。
いつもの起動シーケンス。
いつもの無反応。
そのはずだった。
モニターが一瞬だけ点滅する。
凛が顔を上げる。
画面を見た。
そこには。
《・・・》
三つの点。
それだけ。
たったそれだけだった。
だが。
凛は立ち上がった。
「英士!」
英士も画面を見る。
数秒。
そして。
「応答した……。」
二人は顔を見合わせた。
「応答した!」
「応答した!」
思わずハイタッチする。
研究者らしくもない。
でも嬉しかった。
心の底から。
それからの日々は早かった。
二週間後。
指先が動いた。
一ヶ月後。
視覚認識が起動した。
さらに二週間後。
顔認識システムが正常化した。
そして。
一年と二ヶ月。
静かな研究室。
凛は端末を操作していた。
英士はコーヒーを飲んでいた。
その時だった。
スピーカーから微かな音が聞こえた。
ノイズではない。
声だった。
「……お……」
凛が振り返る。
英士も立ち上がる。
「……お……は……」
凛の目から涙が零れた。
「おは……よう……」
それが、HAL-b02029-A2の最初の言葉だった。
凛は泣きながら笑った。
英士も笑った。
一年二ヶ月。
長かった。
本当に長かった。
研究者としてではない。
人として。
この瞬間を待っていた。
二人はまだ知らない。
この小さな声が。
研究所の歴史を変えることを。
そして。
自分たちの人生を変えることを。




