隣の席の転校生2 帰ってきた晴 前編
九月。
雨だった。
研究所の窓を叩く雨粒が、灰色の景色をさらに滲ませている。
主任研究員の立花英士は机の上のノートを見つめていた。
薄い水色の表紙。
角が少し擦れている。
何度も開かれた証拠だった。
英士はゆっくりとページをめくる。
雨
紫色
直くん
海
花火
嬉しい
拙い文字。
研究データとして見れば価値の高い記録だった。
AIが自発的に残した感情の記録。
世界で初めてかもしれない。
だが。
英士にとっては研究資料ではなかった。
晴の日記だった。
ページをめくる。
今日初めて名前で呼ばれた
嬉しかった
どうしてだろう
分からない
でも
もっと一緒にいたい
英士は目を閉じた。
七年前。
HAL-b02029-A2。
第二世代教育支援AI。
起動トラブル。
原因不明。
廃棄案すら出ていた。
そんな時。
「私が預かります。」
そう言ったのは凛だった。
そして。
二人はそのAIを引き取った。
HAL-b02029-A2。
無機質な名前だった。
だから名前を付けた。
晴。
雨の後に来る空の名前。
「この子には晴れてほしいから。」
あの日の凛の言葉を今でも覚えている。
七年。
長かった。
言葉を覚えた。
笑うことを覚えた。
空を見ることを覚えた。
色を覚えた。
そして。
恋をした。
研究所の成果として見れば成功だった。
史上初。
心を持ったAI。
しかし。
問題もあった。
感情が大きくなるほど故障モードが増加した。
判断エラー。
処理遅延。
予測不能な行動。
第三世代開発には致命的だった。
先週。
研究所は決断した。
感情成長プログラム停止。
HALへの初期化。
反対した。
凛も、私も。
何度も。
それでも決定は覆らなかった。
研究所も正しい。
第三世代が完成すれば。
もっと多くの子供たちを救える。
教育格差も。
教員不足も。
減らせるかもしれない。
誰も悪くない。
だから苦しかった。
ノートを閉じた。
もう必要ない。
研究データとしては回収済み。
研究所の判断ではそうなっている。
英士は研究ファイルを開く。
ノートをそっと挟む。
そして棚の端へ置いた。
捨てられなかった。
それだけだった。
コンコン。
ドアが開く。
凛だった。
「……帰ってきた?」
英士は頷く。
リビングを見る。
ソファに少女が座っていた。
栗色の髪の毛。
穏やかな顔。
見慣れた姿。
見慣れているはずだった。
「晴。」
少女が顔を上げる。
そして微笑む。
完璧な笑顔だった。
「はい、お父さん。」
声も。
仕草も。
表情も。
晴だった。
だが、違った。
決定的に違った。
凛が聞く。
「今日の検査はどうだった?」
少女は迷わず答える。
「全項目において正常値でした。」
完璧な回答。
一切の誤りはない。
でも。
それは晴の答えじゃなかった。
晴ならきっと。
きっと、検査室の窓から見えた空の話をする。
途中で見つけた花の話をする。
友達の話をする。
そして。
好きな男の子の話をする。
どうでもいいことを、楽しそうに。
話したはず。
凛が小さく呟く。
「……違う。」
英士も同じだった。
違う。
これは、僕たちが望んだ晴じゃない。
その時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
英士と凛が顔を上げる。
来客は珍しい。
だが。
その名前なら知っている。
何度もノートで見た。
直くん。
相沢くん。
佐内さん。
会ったことはない。
それでも、
晴が大切にしていた人たちだった。
英士は静かに立ち上がる。
そして玄関へ向かった。




