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夏空の下の転校生 後編

八月も半ば。

昼間の暑さが少しだけ和らぐ頃。

駅前は祭りへ向かう人たちで溢れていた。

浴衣姿の人。

家族連れ。

友達同士。

笑い声。

屋台の匂い。

夏の空気がそこにあった。

待ち合わせ場所は駅前の時計台の下。

約束の十分前。

俺はすでに到着していた。

少し早すぎたかもしれない。

スマホを見る。

時間はまだある。

それなのに落ち着かない。

初めてだった。

自分から女の子を誘うのも。

二人きりで祭りに行くのも。

先週の海を思い出す。

白いワンピース。

麦わら帽子。

夕日の中の横顔。

そして。

抱きしめた時の温もり。


頭を振る。

考えすぎだ。

そう思った時。

待ち合わせの一分前。

立花さんはまだ来ていなかった。

スマホを見る。

連絡はない。

待ち合わせ時間ちょうど。

スマホをポケットにしまおうとした瞬間だった。

くいっ。

シャツの裾が引っ張られる。

振り返る。

そこに立っていたのは、

立花さんだった。

淡い青色の浴衣。

朝顔柄。

帯は淡紫と緑。

夕日に照らされた髪留めが小さく光っている。

歩き慣れない下駄。

少し潤んだ瞳。

綺麗だった。

本当に、綺麗だった。

この世界で一番綺麗なものが何かなんて知らない。

でも今だけは、目の前にいると思った。

「何見とると?」

立花さんが首を傾げる。

そこでようやく我に返った。

慌てて目を逸らす。

「ご、ごめん。」

頭を掻く。

「すごく綺麗で。」

「見惚れてた。」

言った瞬間。

自分でも恥ずかしくなった。

立花さんを見る。

頬が少し赤い。

視線が泳いでいる。

「あ、ありがと。」

小さな声だった。

それだけで。

今日来てよかったと思った。


挿絵(By みてみん)


祭り会場は人で溢れていた。

屋台。

提灯。

子供たちの笑い声。

立花さんは何を見るにも新鮮そうだった。

「りんご飴。」

「食べる?」

「食べる。」

即答だった。

少し笑う。

金魚すくい。

かき氷。

一つ一つが楽しそうだった。


射的屋の前。

立花さんが急に立ち止まった。

「直くん。」

振り返る。

「ん?」

屋台の棚を見上げていた。

「あれ可愛か。」

「どれ?」

「あの青いイルカ。」

視線を追う。

棚の一番上。

青いガラスのイルカが夕日の光を受けて輝いていた。

確かに綺麗だった。

海の色に少し似ている。

「欲しい?」

そう聞くと、立花さんは少しだけ考えた。

「分からん。」

首を傾げる。

「でも。」

「なんか気になる。」

立花さんらしいと思った。

好きな理由を聞いても。

たぶん本人にも分からない。

俺は財布を取り出した。

「じゃあ取る。」

「取れると?」

「たぶん。」

「たぶん?」

「たぶん。」

立花さんが小さく笑った。

「頑張って。」

その一言で。

少しだけ負けられない気がした。

「まいど。」

店主からコルク銃を受け取る。

三発。

思ったより難しい。

一発、二発、イルカを掠める。

「直くん。」

「ん?」

「下手やね。」

「うるさい。」

三発目。

狙いを定める。

青いイルカ。

その少し右。

引き金を引いた。

カコン。

「あ。」

落ちたのは、青いイルカの隣。

おもちゃの指輪だった。

店主が笑う。

「兄ちゃん惜しかったな。」

俺も苦笑いした。

受け取った指輪を立花さんが覗き込む。

「綺麗。」

そう言って嬉しそうに笑う。

「イルカじゃなくなったな。」

少しだけ首を振った。

「ううん。」

「これでよか。」

夕日の光を受けて。

小さな石がきらりと光る。

立花さんはしばらく眺めたあと。

ふと思いついたように指輪を持ち上げた。

そして。

自分の左手へ迷いなくはめる。

俺は少しだけ目を見開いた。

薬指だった。

指を動かす。

角度を変える。

夕日の光を反射して。

小さく光る。

「うん。」

満足そうに頷く。

「しっくりくる。」

俺は思わず笑った。

「そうか。」

立花さんがこちらを見る。

「変やった?」

「いや。」

首を振る。

「似合ってる。」

それは本当だった。


その時。

人の流れが急に動いた。

押される。

離れる。

まずい。

そう思った瞬間。

手を伸ばした。

立花さんも同じだった。

ぱしっ。

手と手が重なる。

人混みの中。

離さないように握る。

「大丈夫?」

「うん。」

離れないように握った手。

薬指の指輪が目に入る。

ああもう心臓がうるさい。


挿絵(By みてみん)


そのまま歩く。

自然と距離が近くなる。

屋台の灯り。

夏の夜。

手の温もり。

不思議な沈黙。

立花さんがぽつりと言った。

「直くん。」

「ん?」

「お願いがあるん。」

少しだけ真剣な声。

「何?」

立花さんは少し考える。

それから。

小さく笑った。

「名前で呼んでほしい。」

立ち止まった。

鼓動が跳ねる。

「立花さん、じゃなくて。」

「晴って。」

「呼んでほしい。」

俺を見る。

少し不安そうに。

少し期待しているように。

覚悟を決める。

深呼吸。

そして。

「晴。」

呼んだ。

初めて、名前で。

晴の瞳が大きくなる。

それから。

ふわりと笑った。

握っていた手に力が入る。

少しだけ。

本当に少しだけ。

強く握り返してきた。


花火会場。

川沿いの土手。

夜空に大輪の花が咲く。

赤。

青。

紫。

金色。

光が空を埋め尽くす。

「今の花火は何色?」

いつもの質問に、俺は花火を見上げる。

「そうだな。」

紫の花火。

夜空に溶ける煙。

川面に映る光。

少し考える。

そして。

「紫の中にある。」

その瞬間。

晴も口を開く。

「紫の中にある。」

二人の声が重なる。

一拍。

さらに続く。

「ほのかな。」

「ほのかな。」

顔を見合わせる。

そして。

「浅葱色。」

「浅葱色。」

沈黙。

二人で笑った。

花火の光が夜空を染める。

「二学期もさ。」

俺は言う。

「もっと一緒にいよう。」

晴は驚いた顔をした。

それから。

静かに頷く。

「うん。」

「約束。」

花火が夜空に咲く。

その音にかき消されそうなほど小さな約束だった。

でも。

きっと忘れない。

そう思った。

帰り道。

手は繋がなかったけれど、

もう今までの距離には戻れなかった。


挿絵(By みてみん)


その夜。

私はノートを開く。

浴衣

夏祭り

指輪

花火

約束

直くん

そして。

今日初めて名前で呼ばれた。

嬉しかった。

どうしてだろう。

分からない。

でも、もっと一緒にいたいと思った。

ペンを走らせる手を止める。

胸の辺りに手を当てる。

海の日にも感じた熱。

何もないはずなのに少しだけ熱かった。

でも。

その熱があると、少しだけ安心した。

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