第59話 共鳴するスラップと拳
薄暗い新宿第4迷宮の深層、『重装甲地帯』。
アイアン・ビートルの群れを粉砕し、俺たちが踏み込んだ最奥の大広間は、紫水晶のような鈍い光沢を放つ巨大な結晶群で覆われていた。
そこは、迷宮の魔力によって生成された未知の鉱石が、鍾乳洞のように乱立する異質な空間だった。空気は魔力の重みでザラつき、呼吸をするだけで肺が軋むような感覚を覚える。
その大広間の中央で、岩盤を削るような不快な摩擦音を立てながら、そいつは鎌首をもたげた。
『クリスタル・センチピード』。
全長は優に20メートルを超える、巨大な多足の魔物だ。その全身は、先ほどまで相手にしていたアイアン・ビートルすら比較にならないほど分厚く、高純度な鉱石の装甲で覆われている。幾重にも重なる外殻が、薄暗い空間の中でギラリと凶悪な光を反射していた。
「……デカいですね」
最後尾の安全圏から、太田真生が気怠そうに呟いた。だが、その口調とは裏腹に、手元のタブレットと音響解析機器はすでにフル稼働している。彼女のノイズキャンセリング・ヘッドホンは、空間のあらゆる反響音から敵の弱点を割り出そうとしていた。
「先手必勝。行くぞ!」
ザーナ・ベリシャが巨大なタワーシールド『アイギス・ウーファー』を構え、地響きと共に突進する。
標的の接近に気づいたセンチピードが、無数の脚をワサワサと動かし、巨大な鉱石の顎を振り下ろした。
ギィィィンッ!
鉱石の顎とザーナの盾が真っ向から激突し、凄まじい火花が散った。強烈な衝撃波が大広間を吹き抜け、鉱石の破片がパラパラと降り注ぐ。
「重いな……! だが、押し負けはしない!」
ザーナのブーツが黒曜石の床に深く食い込み、巨体の動きを完全に固定する。Sランクのタンクによる完璧なクラウドコントロールだ。敵のヘイトは完全に彼女に向いている。
「真生、解析は!」
俺が叫ぶと、ヘッドホンを押さえた真生が即座に数値を返してきた。
「……装甲の共振周波数、出ました。BPM142。キーはEマイナー。非常に硬質です。剣や魔法といった『面』や『線』の攻撃じゃ、高純度の鉱石装甲には弾かれます」
「了解。なら、『点』で叩き割る」
俺は足元のエフェクターを踏み込み、ベースの音色を極限まで硬く、パーカッシブなものに切り替えた。コンプレッサーを強めにかけ、アタック音を鋭く際立たせる。
親指を振り下ろす。サムピング。
太いE弦がフレットに激しく叩きつけられ、破裂音のような低音が空間を震わせる。
間髪入れずに、人差し指でD弦とG弦を強く引っ張り、弾く。プリング。
バチィィンッ!
鋭く暴力的なスラップの音が、洞窟の鉱石に反響した。
ただの演奏ではない。俺の固有スキル【音響共鳴】によって増幅された音の波形が、センチピードの鉱石装甲に目に見えない微細な振動(波)を生み出していく。
その音波が空間に広がった瞬間、俺の隣から小さな影が弾け飛んだ。
新加入のドラミだ。
彼女のステップは、俺が刻む16ビートのスラップの隙間を、一寸の狂いもなく埋めるように配置されている。
タッ、ツッ、タッ、ツッ。
滑るようなフットワークでセンチピードの側面に回り込むと、彼女は一切の予備動作なしに左の拳を打ち込んだ。
ドスッ!
「……シュッ」
短い呼気。
ただの力任せの打撃ではない。俺のベースの低音がセンチピードの装甲に作り出した振動の波が、最も高まったピークの瞬間に、ドラミのガントレットに包まれた拳という「点」の衝撃が正確に突き刺さる。
物理的な共振破壊。
これまで村上環の大剣すら弾き返していた分厚い鉱石装甲の表面に、ピシリ、と白い亀裂が走った。
「ギャァァァァッ!」
センチピードが苦痛に身をよじり、巨大な尾を振り回す。
だが、ドラミはすでにその場にいない。俺のベースの裏拍に合わせて素早くバックステップを踏み、次の攻撃ポイントへと移動している。
「止まるな、ドラミ。そのままテンポを上げて押し切るぞ」
「……うん」
俺はスラップのテンポを徐々に上げていく。BPM142から150、そして160へ。
ドラミの拳の回転速度も、それに呼応して跳ね上がった。
右、左、右。ショートフック、ボディ、アッパー。
バチッ、ガンッ、ドグッ、バキィッ!
ベースと拳。二つの打楽器による、凶悪なまでのセッション。
ドラミのバンデージから血が滲むが、彼女の表情は一切変わらない。ただひたすらに、俺の音に合わせて装甲の同じポイントを叩き割り続ける。地下闘技場で培われた、容赦のない純粋な暴力。
やがて、装甲の亀裂が蜘蛛の巣のように全身に広がり、耐えきれなくなった分厚い鉱石が、ガラス細工のように粉々に砕け散った。
むき出しになった、無防備で柔らかい内部組織。
「道は作った! 環!」
俺が叫ぶより早く、大剣『紅姫』の重厚な刀身が、真紅の残光を引いて地を蹴っていた。
「遅い!」
待機していた村上環が、踏み込みの衝撃で黒曜石の床を砕きながら跳躍する。
ドラミによってこじ開けられた弱点に向かって、研ぎ澄まされた刃が一切の抵抗を受けずに振り下ろされた。
ズバァァァンッ!
遅れて、どす黒い体液が噴水のように舞い上がる。
断末魔の悲鳴すら上げる暇もなく、中ボスは二つに分かたれ、地響きと共に崩れ落ちて黒い灰へと変わっていった。
大広間に沈黙が降りる。
残響が完全に消え去ったのを確認し、俺はゆっくりとベースを下ろした。
ドラミが荒い息を吐きながら拳を下ろし、バンデージに滲んだ血を無造作に拭う。
俺が視線を向けると、彼女は少しだけ口角を上げ、ぽつりと言った。
「……店長の音、殴りやすい」
それが、口下手で不器用な彼女なりの最大の賛辞であることは、痛いほど伝わってきた。俺は無言のまま、親指を立てて応えた。
★★★★★★★★★★★
重装甲地帯の中ボスであるセンチピードを撃破し、エリア全体の完全攻略に向けた確かな手応えを掴んでから数日後。
世田谷のクランハウスは、穏やかな休日の朝を迎えていた。
「クゥーン、ワフッ」
キッチンで、茹でた鶏胸肉を細かく裂いている俺の足元で、豆柴のファズが短い尻尾を振りながら催促している。
「焦るな。まだ熱いから冷ましてるんだ。犬は猫舌なんだからな」
俺がファズの頭を撫でていると、階段を下りてくる足音がした。
「おはよう、近藤さん」
「おはようございます、環さん……おや」
振り返った俺は、少しだけ目を丸くした。
そこに立っていた村上環は、いつもの機能性重視の戦闘服や、家でのラフな部屋着ではなかった。
黒のしなやかなライダースジャケットに、細身のヴィンテージデニム。足元は歩きやすさを重視したチェルシーブーツを合わせている。普段の隙だらけな様子や、以前の銀座でのフェミニンなワンピース姿とは打って変わった、少しマニッシュで洗練されたスタイルだ。
明らかに「外行き」の、それもかなり気合の入った装いだった。
「……珍しい格好ですね。どこか出かけるんですか」
俺が尋ねると、環は少しバツが悪そうに視線を逸らし、耳たぶを触った。
「今日はオフよ。……近藤さん、この後予定ある?」
「いや、ファズの散歩が終わったら、メンバーたちの昼飯と夕飯の仕込みをしようかと思っていたぐらいで」
「そう。じゃあ、付き合って」
「どこへ?」
「合羽橋。……包丁を見に行きたいの」
包丁。
予想外の単語に、俺は思わず動きを止めた。
「環さんが料理を?」
「……たまには、ね。いつも貴方に作らせてばかりだし。それに、千夏や実那子さんが『少しは家庭的なスキルも磨け』ってうるさいのよ。……私も、たまには貴方に美味しいものを食べさせたいし」
環は後半を少しごまかすように早口で言い、頬を膨らませてそっぽを向いた。
最強のSランク剣士が料理を始める。その事実だけで、キッチンが物理的に破壊される映像が頭をよぎったが、俺はとりあえずその不安を飲み込むことにした。
「分かりました。俺の知識で良ければ付き合いますよ」
休日の合羽橋道具街は、プロの料理人から観光客まで、多くの人で賑わっていた。
ダンジョン武器屋とは全く違う、生活と食に根ざした静かな熱気。俺たちは並んで通りを歩き、プロ御用達の老舗和包丁専門店へと足を踏み入れた。
整然と並べられた無数の刃が、ショーケースの中で鈍い光を放っている。環の表情が、ダンジョンで強力な武器を見極める時のように真剣なものに変わった。
「……どれがいいのか、全然分からないわね。どれもよく切れそうだけど」
環が美しいダマスカス鋼の紋様が浮かぶ出刃包丁を見下ろしながら呟く。
「環さんは手が小さいですし、ステータスによる腕力は異常ですが、繊細な作業をするなら大きすぎるものは避けた方がいいでしょう。それに、鋼は手入れを怠るとすぐ錆びる」
俺は店主に許可をもらい、数本の包丁を出してもらった。
「三徳包丁よりも、少し小回りの利くペティナイフと、標準的なステンレス製の牛刀のセットがいい。試しに握ってみてください」
環が恐る恐る、牛刀の木柄を握る。
「……軽い。私の『紅姫』とは全然違うわね」
「当然です。魔物の装甲を両断するわけじゃない。食材の繊維を崩さずに切るための道具ですから」
俺は背後から手を伸ばし、彼女の手を包み込むようにして握り方を軽く修正した。
「力はいらない。重心を感じて、刃の重みだけで切るんです。剣のように力任せに振り下ろすと、食材の細胞が潰れて味が落ちる。滑らせるように、刃を引く」
至近距離。俺の腕が彼女の肩に触れる。
ふと見ると、環の耳の裏が少しだけ赤くなっていた。
「……分かってるわよ。子ども扱いしないで」
彼女は小さく反発しながらも、俺の手を振り払おうとはしなかった。
買い物を終え、浅草周辺の街を歩いている頃には、すでに夕暮れの気配が漂っていた。
「お腹すきましたね。何か食べて帰りますか?」
「……そうね。でも、今日は私が払うわ」
環が包丁の入った箱を大事そうに抱えながら言った。
「Sランクに奢られるのは少し気が引けるんですがね」
「いいから。いつも美味しいご飯を作ってくれるお礼と……今日、付き合ってくれたお礼」
二人が入ったのは、裏路地にひっそりと佇む隠れ家的なフレンチビストロだった。
落ち着いた暖色の照明の店内。俺たちは窓際のテーブル席に向かい合い、メニューを開いた。
「メインは『鴨のコンフィ』にしましょう。それに合わせるなら……このブルゴーニュのピノ・ノワールがいいですね」
俺がソムリエに注文を済ませると、程なくしてルビー色のワインと、香ばしい匂いを放つ料理が運ばれてきた。
じっくりと低温のラードで何時間も煮込まれ、提供の直前にオーブンで表面をパリパリに焼き上げられた骨付きの鴨肉。ナイフを入れると、ホロホロと骨から身が外れ、閉じ込められていた濃厚な肉汁が皿の上に溢れ出す。付け合わせのローストポテトが、その脂を吸って黄金色に輝いている。
「いただきます」
環が鴨肉を口に運び、目を丸くした。
「……んんっ! 皮はすごくサクサクなのに、お肉が口の中で溶けるみたい! 鴨の旨味がギュッと詰まってるわ」
「そこで、このピノ・ノワールだ」
俺はグラスを傾けて見せた。環もそれに倣ってワインを口に含む。
「……あ」
環が、ほうっと感嘆の息を漏らした。
「豊かな酸味と、チェリーのような赤い果実の香りが、鴨の重たい脂を上品にいなしてくれるのね。口の中がリセットされて、また次の一口が欲しくなる」
俺が解説を加える前に、環自身がその完璧なマリアージュを言葉にした。俺は思わず目を見張り、深く頷いた。
「その通りですよ。お肉の野性味と、ワインのエレガントさが、口の中で完璧に混ざり合うんです」
俺の肯定に、環は嬉しそうに目を細め、グラスを見つめた。
「近藤さんの料理もそうだけど、こういう『組み合わせ』って、すごく音楽に似てるのね」
グラスを合わせ、ぽつりぽつりと他愛のない話をする。
話題は自然と、新加入のドラミのことになった。
「あの子、すっかりパーティに馴染んだわね」
「ああ。最初は威嚇してばかりの野良猫みたいだったが、今じゃナナさんやアーニャと一緒に最新のゲーム機で遊んでるからな」
「近藤さんの音が、あの子の居場所を作ったのよ」
環が、少しだけ減ったワイングラスを見つめながら言う。
「私の時も、そうだったように」
「……俺はただ、後ろでベースを弾いてるだけですよ。戦ってるのはアンタたちだ」
「それがすごいって言ってるの。……ねえ、近藤さん」
環が、少しだけ潤んだ猫目で俺を真っ直ぐに見た。
「近藤さんの音があると……不思議ね。体が勝手に動くっていうか、大剣が、風みたいに軽くなるの。吸い込まれるみたいに、一番斬りたい場所に刃が届くのよ」
「……良い傾向じゃないですか。俺たちの調律が合ってきた証拠だ」
「だから……」
環は言葉を探すように、少しだけ俯いた。
「これからも、私の隣で音を鳴らしてね」
俺は静かにグラスに残ったピノ・ノワールを飲み干し、ふっと表情を和らげた。
「……契約通り、給料分は働きますよ。アンタが俺の音を必要とする限りは」
俺の答えに、環は嬉しそうに、そして少しだけ安堵したように微笑んだ。
帰りのタクシーの中。
首都高を走る車窓には、東京の夜景が光の川のように流れていく。
環はいつの間にか、俺の肩に頭を預けて静かな寝息を立てていた。
微かな甘いシャンプーの香りと、彼女の確かな体温が伝わってくる。
彼女がその剣で、もっと遠く、誰も見たことのない景色を見るために。 俺は流れるネオンの光を静かに見つめながら、頭の中で、ドラミと環の音をどう重ねるか、ぼんやりと次のビートを組み立て始めていた。




