第58話 結晶地帯へのリベンジ
世田谷の高級住宅街に建つクランハウス、その広大なリビング。
朝の柔らかな陽光がたっぷりと差し込むペルシャ絨毯の上に、様々な小物が等間隔で並べられていた。
環の愛剣『紅姫』のメンテナンス用オイル、千夏の二丁魔銃から排出された空の薬莢、真生が愛用している年代物の真空管、アーニャのステッカーが貼られたUSBメモリ、ナナが舞いに使う鉄扇の房、実那子の予備のマイクスポンジ。そして、俺が長年使い込んでいるベースのべっ甲柄のピック。
「さあファズ、選びなさい! この薬莢に触れれば、将来は世界を股にかける名プロデューサーになれるわよ!」
「違うわ、武の道よ。このオイルの匂いを覚えさせるべきね。名剣士の相棒になるには、鉄と油の香りに慣れてもらわないと」
「二人とも古いよ。今はデジタルの時代じゃん。ファズ、こっちのUSBにしなよ! 一緒にサイバー戦やろうよ」
生後100日を迎えた豆柴のファズを囲み、SランクとAランクの探索者たちが、真剣極まりない顔で手招きをしている。
本来、一歳の誕生日に子供の将来を占う「選び取り」とは程遠い、偏りすぎた物騒なラインナップだ。各々の専門分野への執着がにじみ出ている品々だが、彼女たちはこの小さな新しい家族が「将来何の才能を示すか」に大真面目だった。
「クゥーン?」
絨毯の端に置かれたファズは、不思議そうに首を傾げながら、短い足でトコトコと歩き出した。
並べられた品物の前を通り過ぎる。真生の真空管の匂いをフンフンと嗅ぎ、千夏の薬莢をピンク色の肉球でチョイと転がし、実那子のマイクスポンジを軽く噛んでみてはペッと吐き出した。そして、結局絨毯の上の小物にはどれにも強い興味を示さず、すべてをスルーしてリビングの隅へと向かった。
そこには、アーニャから借りたオーバーサイズの黒いパーカーを着たドラミが、ソファの端で膝を抱えて体育座りをしていた。昨日、地下闘技場の薄暗く血生臭い控室からここへ連れてこられたばかりの彼女は、まだこの極端に明るく賑やかな空気に馴染めず、少し離れた安全圏から様子を窺っていたのだ。フードを深々と被り、ダボダボの袖から指先だけを出しているその姿は、周囲を警戒する捨て猫のようだった。
ファズはドラミの足元まで来ると、彼女のパーカーから垂れ下がっていたフードの紐を見つけ、嬉しそうに「ガブッ」と噛み付いた。
短い尻尾をちぎれんばかりに振り、フンスフンスと鼻息を荒くして紐を引っ張り始める。
「……あ」
ドラミの無表情だった顔に、微かな動揺が走った。
地下闘技場での張り詰めた殺気は微塵もなく、ただの困惑した少女の顔だ。彼女はどうしていいか分からず、助けを求めるように俺の方をチラリと見た。
「引っ張り合いっこがしたいらしい。軽く遊んでやってくれ」
俺が言うと、ドラミは恐る恐る指先を伸ばし、ファズの頭を撫でた。
ファズは「ワフッ」と嬉しそうに鳴き、さらに紐を強く引っ張る。ドラミは自分の体が前のめりに引っ張られるのに任せながら、もう片方の手で不器用に紐を引き返した。その口元が、本当にわずかだが、不自然なほどぎこちなく緩んだように見えた。
「……まさかの、新メンバーへの弟子入り?」
「肉弾戦の才能があるってことかしら。意外と筋肉質になるかもね、ファズ」
千夏と実那子が顔を見合わせて笑う。
まだ完全に打ち解けたわけではない。だが、この小さな毛玉の無邪気な存在が、薄暗い暴力の中で生きてきた少女の心を、少しだけこちら側の世界へと繋ぎ止めてくれたようだった。
★★★★★★★★★★★
数時間後。俺たちは再び、新宿第4迷宮の深層『重装甲地帯』に足を踏み入れていた。
先日の威力偵察では、俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』が為す術もなく撤退を余儀なくされた因縁のエリアだ。
魔力の異常干渉により空気が重い。肺に微細な砂を吸い込むようなザラついた感触がある。壁も床も、鈍い光沢を放つ黒褐色の鉱石でびっしりと覆われており、音の反響すらも重く濁る、息の詰まるような空間だった。
「……前方に異常な反響音。複数来ます」
ノイズキャンセリング・ヘッドホンを装着した真生が、音叉型の短剣を構え、低く通る声で報告した。
薄暗い通路の奥から、地響きを立てて接近してくる巨大なシルエット。
装甲車ほどの大きさを持つ、分厚い鉱石の外殻に覆われた甲虫型の魔物『アイアン・ビートル』。前回、ザーナの大盾による全力の突進すらも弾き返し、環の渾身の斬撃をも浅く受け止めた、理不尽なまでの防御力を誇る難敵だ。あの時は、俺のベースだけでは決定的な打撃力が足りず、無念の撤退を強いられた。
「ドラミ。装備の具合はどうだ」
俺の問いかけに、パーティの最前列に立つ小柄な少女が、両手で軽く拳を打ち合わせた。
ガキンッ、と硬質な音が響く。
彼女の両腕には、千夏がギルドの専属工房に徹夜で組み上げさせた特注の『音響衝撃増幅ガントレット』が装着されていた。
彼女の圧倒的なハンドスピードと打撃の感覚を殺さないよう、極限まで軽量化された特殊合金。ナックル部分には、打撃の瞬間に衝撃波を指向性のある「点」として対象の内部へ叩き込む機構が組み込まれている。
「……重くない。しっくりくる」
「そうか。なら、好きに暴れてこい。お前の歩幅でいい」
「……うん」
ドラミは短く応えると、顎を引き、軽くステップを踏み始めた。
タッ、タッ、と靴底が鉱石の床を擦る音が、正確で淀みのないリズムを刻み始める。
俺はミキサーのイコライザーを調整し、ベースを構えた。ドラミの打撃音が最も心地よく乗る帯域を空け、その下を支えるように低音をセットする。
先日ここで戦った時、俺は足りないアタック音を補うために、無理やりスラップを多用し、テンポを急かしてしまった。メロディとリズムを繋ぎ、楽曲の土台を支えるというベース本来の役割を放棄し、一人でリズム隊を担おうとして自滅したのだ。
だが、今日は違う。ドラミという強烈な「点」の打撃がある。俺は心置きなく、深い低音の海を作ることに専念できる。
「――行くわよ」
環の鋭い声と共に、アイアン・ビートルの群れが巨大な顎を振り乱しながら突進してくる。
ドラミが動いた。
彼女の小柄な体が、巨大な甲虫の懐へと弾かれたように潜り込む。
俺は太いE弦を、指の腹で深く、重く弾き下ろした。
ズゥゥゥン。
床を這うような、骨の髄まで響くような低音。俺が敷いたその重低音の土台の上に、ドラミの拳が乗った。
ドパンッ!!
ドラミの左ジャブが、アイアン・ビートルの鉱石装甲に突き刺さった。
乾いた破裂音が、ハイピッチなパーカッションのように鋭く空間を弾く。ガントレットの増幅機構が、彼女の純粋な打撃力を暴力的な音圧へと変換していた。
間髪入れずに、右のストレートが関節の隙間を抉る。
ドゴォォォンッ!!
続くストレートが、重厚なキックの圧力となって腹の底を激しく揺らす。
タッ、タンッ、ドスッ。
俺のベースの裏拍に、彼女の打撃音が完璧なタイミングで噛み合っていく。
俺はサングラスの奥で、思わず口角を上げた。
ベースという楽器は、単体ではどこまでも孤独だ。だが、心臓の鼓動に等しい絶対的な打撃と合わさった瞬間、それは空間を支配する「魔法」に変わる。俺が引けば彼女が前に出、彼女が溜めを作れば俺が音を埋める。言葉での打ち合わせなど一切ない、魂のセッションだった。
「テンポキープ。BPM130」
ドラミが無表情のまま呟き、拳の連打を加速させる。
アイアン・ビートルが反撃に転じ、丸太のような前脚を振り下ろす。だが、ドラミはその攻撃の軌道を完全に読み切り、微小なスウェイとダッキングで回避しながら、同じ箇所に正確に拳を叩き込み続ける。
ハイピッチな破裂音の連打。腹に響く重低音の刻み。
ただの殴り合いではない。これは、極限まで研ぎ澄まされた生身の演奏だ。
「……装甲の共振周波数、一致しました。対象の鉱石組織、内部から崩壊します」
後方で解析端末を見ていた真生が、静かに報告する。
その言葉通りだった。先日、あれほど刃が立たなかったアイアン・ビートルの分厚い鉱石装甲に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り始めたのだ。
ドラミの放つ「点」の打撃音が、装甲の表面を削るのではなく、鉱石の分子構造の隙間に浸透し、内側から致命的な破壊を引き起こしている。
「環!」
「――もらったわ!」
俺の合図と共に、待機していた村上環が、紅姫の刀身を真紅に輝かせ、音を置き去りにする速度で飛び出した。
ドラミの打撃によって装甲が砕け、むき出しになったビートルの脆い関節部。そこへ、極限まで研ぎ澄まされた剣の軌跡が一切の抵抗なく吸い込まれていく。
ギャキィィィンッ!
美しい金属音と共に、巨大な甲虫の体が斜めに両断され、黒い体液を撒き散らしながら崩れ落ちた。
「ハッ! これなら私の盾で押し潰せるぜ!」
ザーナがタワーシールドを構え、亀裂の入った別のビートルへとモッシュを仕掛ける。分厚い装甲が、盾の強烈な平面の衝撃でガラスのように粉々に砕け散った。
アーニャの氷結魔法が砕けた装甲の隙間から内部を的確に凍らせ、ナナの鉄扇が優雅に舞いながらも致命の刃となってトドメを刺していく。
そして、実那子のソウルフルなシャウトが、魔力を帯びてメンバーの身体能力を底上げし、俺たちの完成されたリズム隊のビートに乗って、薄暗いダンジョンの空気をライブハウスの熱狂へと変えていく。
俺はベースの弦を弾き続けながら、重装甲地帯の奥からさらに湧き出してくる魔物の群れを見据えた。壁のように立ち塞がっていた先日の絶望感は、もはや欠片もない。
ドラミは次から次へと現れる鉱石の魔物に対し、息を乱すことなく無心でステップを踏み、拳を叩き込み続けている。その瞳には、地下闘技場で見せたような飢えや虚無感はなく、未知の音楽のうねりに没入する純粋な熱が宿っていた。
「店長。BPM160。テンポ、上げて」
ドラミが初めて、はっきりとした要求を口にした。
「応!」
俺は短く吠え、太い弦に容赦のないスラップを叩き込む。ベースの咆哮と拳の破裂音が絡み合い、俺たちは分厚い鉱石の波へと真っ直ぐに突き進んでいった。




