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30歳、売れない元バンドマン。ダンジョン配信のBGM係になったら、Sランク美女たちの攻撃と「神曲」がシンクロして世界中でバズった件  作者: 伊達ジン
第1章:爆音のプレリュード

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第57話 新メンバー加入:重低音と乱れ打ち

 地下闘技場の薄暗く血生臭い控室から、彼女を世田谷のクランハウスに連れ帰ってから一夜が明けた。


 広大なリビングには、秋の柔らかい陽光がたっぷりと差し込んでいる。

 8億円の豪邸に設えられた最高級のイタリア製ソファの端っこに、少女――ドラミは、膝を抱えるようにしてちょこんと座っていた。


「……なんか、まだ警戒されてるわね」


 コーヒーマグを片手に、坂本千夏が苦笑交じりに呟く。

 ドラミはアーニャから借りた、オーバーサイズの黒いパーカーを着ていた。フードを深々と被り、ダボダボの袖から指先だけを出しているその姿は、捨て猫が安全な隠れ家から外を窺っているようにも見えた。

 警戒心が解けないのも無理はない。


「仕方ないわ。昨日まであんな埃っぽくて殺伐とした場所で、文字通り毎日殴り合ってたんだから。いきなりこんなくつろいだ空間に放り込まれて、ハイそうですかとすぐに馴染める方がおかしいわよ」


 西村実那子がソファの背もたれに寄りかかり、ドラミを見つめながら言った。その目には、過酷な環境を生き抜いてきた少女に対する静かな同情と、頼もしさが混じっている。

 実那子自身も昔は色々と苦労してきたクチだ。こういう不器用な子供を見る目は優しい。


「でも、いい筋肉してるわ。無駄な贅肉が一切なくて、体幹のブレがない。あの細い体のどこに、あんな打撃を生み出す力が隠れてるのかしら」


 村上環が、プロのアタッカーとしての純粋な興味でドラミの肩から足首にかけてのラインを観察していた。

 ドラミは視線を感じるたびにビクッと身をこわばらせ、フードの奥から警戒心を孕んだ目を覗かせる。小動物が天敵を見ているような目だ。


「まあまあ、環さん。あんまりジロジロ見ると威嚇されますよ。ほら、とりあえず契約書とか細かいことは後回しにするとして……うちのバンドへようこそ、ドラミちゃん」


 千夏が歩み寄り、目線を合わせるようにしゃがみ込んで手を差し出した。

 ドラミはその手をじっと見つめ、数秒の逡巡の後、袖口から出した傷だらけの小さな手で、千夏の指先をそっと握り返した。


「……よろしく」


 擦れた、小さな声。

 それが、彼女なりの精一杯の歩み寄りだった。


「クゥーン」


 その時、リビングの奥からトコトコと軽い足音が近づいてきた。

 生後三ヶ月を目前に控えた豆柴のファズだ。彼は見慣れない黒いパーカーの少女を見つけると、短い尻尾をピンと立て、興味津々といった様子でソファの足元までやってきた。


「……っ」


 ドラミが肩をビクッと跳ねさせた。

 地下闘技場や路地裏の生活で、野犬に追いかけられた経験でもあるのだろうか。彼女の体が再び強張り、無意識に拳が固く握られる。


 しかし、ファズはそんなドラミの警戒心などお構いなしだった。

 彼は「フンス、フンス」と湿った鼻先をドラミのスニーカーに押し当てて匂いを嗅ぎ、彼女が敵ではないと判断すると、今度は短い前足をスウェットの裾に引っ掛けて「カリカリ」と掻き始めた。


「ワフッ」


 遊んで、とでも言うように、つぶらな黒い瞳で見上げてくる。

 ドラミは完全に硬直していた。殴りかかってくる相手には瞬時にダッキングで対応できる彼女も、無垢な好意の塊のような小さな命に対しては、どう反応していいか分からないらしい。


「……噛まないよ。撫でてみな」


 オープンキッチンでコーヒーの準備をしながら、俺は声をかけた。

 ドラミは俺の方をちらりと見て、それから再びファズへと視線を落とした。震える手が、ゆっくりと伸ばされる。

 おっかなびっくり、指先がファズの赤茶色の頭に触れた。


 その瞬間、ファズは「待ってました!」とばかりにゴロンと仰向けに転がり、無防備なポンポコリンの腹を晒した。短い四肢をジタバタと動かし、もっと撫でろと要求している。


「……あ」


 ドラミの目が、わずかに見開かれた。

 恐る恐る腹を撫でてやると、ファズは気持ちよさそうに目を細め、ピンク色の舌を出してハアハアと息をつく。

 彼女の指先から力が抜け、撫でる手つきが少しずつ優しく、リズミカルになっていく。張り詰めていた彼女の輪郭が、ほんの少しだけ柔らかく解けたように見えた。


「……犬の扱いは、私より上手いみたいです」


 壁際でヘッドホンを首にかけていた太田真生が、ぼそっと呟いた。真生はいまだにファズに飛びかかられると悲鳴を上げて逃げるレベルなので、彼女より上手いのは間違いない。


「さてと。新メンバーの加入祝いだ。今日の昼飯は、俺の奢りで美味いラーメンでも食いに行くか。環さんも千夏さんも、たまにはジャンクな外食がしたいだろ?」


 俺が提案すると、千夏が「お、近藤さんが奢りなんて珍しいじゃない。雪でも降るんじゃないの?」と軽口を叩いた。


「賛成! 駅前の豚骨醤油の店に行きたい!」とアーニャもタブレットから顔を上げる。


 よし、決まりだな。そう思ってエプロンを外そうとした時だった。


「――おおっ!? 今のパス、見ただろ!?」

「ええ、サイドバックのオーバーラップから裏のスペースへの抜け出しが完璧だわ!」


 リビングの壁を占領している85インチの巨大モニターの前から、ザーナとアーニャの騒がしい声が響いた。

 見れば、スポーツ専門チャンネルで、欧州サッカー・チャンピオンズリーグの決勝の再放送が流れている。


「ちょっとザーナ、アーニャちゃん。ラーメン行くわよ」


 千夏が声をかけるが、二人はソファから身を乗り出したまま画面に釘付けだった。


「悪いが後にしてくれ! 今いいところなんだ。この試合、リアルタイムで見逃したから結果を知らないんだよ!」


 ザーナがクッションを抱きしめながら叫ぶ。


「私も! スタッツのデータだけ見て結果は知ってるけど、映像はまだ見てなかったし。このフォーメーションの崩し方、マジで神がかってる!」


 アーニャはタブレットに戦術メモを取りながらモニターに齧り付いている。


「……あんたたちねぇ。せっかく近藤さんが奢るって言ってるのに」


 千夏が呆れたようにため息をついた。

 ナナはといえば、昼間からすでに冷蔵庫から出してきた缶ビールをプシュッと開け、ソファの端で心地よさそうに喉を鳴らしていた。


「私はここで飲んでるから、適当に何か買ってきてくれ。ラーメンは伸びるから嫌だ」

「あんたはあんたで、もう飲んでるのね……」


 実那子も「こりゃテコでも動かないわね。一度集中モードに入った連中は厄介よ」と苦笑いした。


「……ここで、いい」


 ファズの腹を撫でていたドラミが、ぽつりと言った。


「外、人多いし。うるさいから」


「……だそうだ。しゃあない、出前でも取るか」


 俺が言うと、真生が首を振った。


「この人数で出前頼んだら、一時間はかかります。店長、お腹空きました」


「分かった分かった。じゃあ、俺が駅前の惣菜屋に行って、名物の特製『唐揚げ丼』でも買ってくる。あそこのなら文句ないだろ」

「異議なし! 髭、早く行ってこい! ああっと、今のファウルだろ!」


 画面に向かって怒号を飛ばすザーナの声を背に受けながら、俺は財布を掴んでクランハウスを出た。


★★★★★★★★★★★


 三十分後。

 リビングの巨大なダイニングテーブルには、茶色い暴力のような匂いが充満していた。


「買ってきたぞ。駅前にある惣菜屋の特製『唐揚げ丼』だ」


 俺が買ってきたのは、いわゆる幕の内弁当のような上品なものではない。

 深めのプラスチック容器には白飯がぎっしりと詰め込まれ、その上に敷かれた千切りキャベツを完全に覆い隠すように、大人の拳の半分ほどもある巨大な鶏の唐揚げが三つ、強引に押し込まれている。

 さらにその上から、ニンニクの効いた甘辛い醤油ダレと、細い網目状にマヨネーズがたっぷりと掛けられていた。

 蓋を開けた瞬間、ジャンクで背徳的な香りが広がり、サッカーに夢中になっていたメンバーたちもたまらずテーブルへと引き寄せられた。


「うわ、なにこれ。カロリーの塊じゃない……」


 千夏が慄きつつも、喉を鳴らす。


「さあ、冷めないうちに食ってくれ。ただし、これだけだと口の中が油で重くなるからな。今日のペアリングはこれだ」


 俺はあらかじめ用意しておいた、背の高いグラスを人数分テーブルに置いた。

 グラスには氷がたっぷりと入り、濃く煮出した黒烏龍茶が注がれている。そして、その上には真っ二つに切ったフレッシュなライムが添えられていた。


「ライム・ウーロンだ。ただの烏龍茶じゃない。飲む直前に、このライムを力強く絞り入れてくれ」


 言われるがままに、環がライムを絞る。爽やかな柑橘の香りが弾けた。


「黒烏龍茶の強い渋みが脂を受け止めて、ライムの酸味と香りが口の中をすっきりさせる。ジャンクな飯には最高の相棒だぞ」

「いただきます!」


 真っ先に箸を伸ばしたのは、ドラミだった。

 彼女は丼を片手で持ち上げると、一番大きな唐揚げの端にガブリと噛みついた。


 ザクッ、ジュワァァァ。


 薄くハードな衣が砕け、中から熱々の肉汁が溢れ出す。そこに、甘辛いタレとマヨネーズの濃厚なコクが絡みつく。

 ドラミは熱さに一瞬だけ「はふっ」と息を漏らしたが、そのまま咀嚼を止めなかった。

 一口、また一口。

 最初は噛みしめるように食べていた彼女のペースが、次第に上がっていく。箸の動きが規則的になり、ご飯と唐揚げ、そしてタレの染みたキャベツを交互に、ひたすら無心に口へと運び続ける。

 視線は丼の中に固定され、周囲の雑音は一切聞こえていないかのようだった。


「おいおい、喉詰まらせるなよ。ほら、飲め」


 俺がグラスを近づけると、ドラミは丼から口を離さずにストローを咥え、ライム・ウーロンを勢いよく吸い込んだ。


「……ふはっ」


 小さく息を吐き出す。

 彼女は口元を手の甲で無造作に拭うと、再び丼へと向かい、今度はより一層大きな口を開けて二つ目の唐揚げにかぶりついた。

 口の周りにマヨネーズをつけたまま、彼女の頬が微かに緩む。


「ゆっくり食え。おかわりならまだあるからな」


 俺が言うと、ドラミはこくりと頷き、一心不乱に箸を進めた。


「ちょっと、ドラミちゃんばっかりズルい! 私も食べるわよ!」


 千夏が慌てて箸を割る。


「んんっ! 衣がサクサクで中のお肉がすっごく柔らかい! タレの甘じょっぱさとマヨネーズの反則的な組み合わせ……これは抗えないわね」

「このライム・ウーロンも合うわ。脂っこいものを食べてる罪悪感を、この渋みと酸味が綺麗に消し去ってくれる。危険な組み合わせよ」


 環も唐揚げ丼とグラスを交互に口に運びながら、すっかりジャンクフードの引力に屈している。


「おおおおおっ! ゴール!! 今のは完璧な崩しだ!」

「ふふん、データ通りだね。あの時間帯、右サイドの裏のスペースは必ず空くんだよ」


 テレビの前では、唐揚げを片手にザーナとアーニャがサッカーの熱狂に酔いしれている。

 ナナは「この唐揚げの濃い味、やっぱりビールが一番だ」と呟きながら、ちゃっかり冷蔵庫から二本目の缶ビールを取り出していた。


 騒がしくて、まとまりがなくて、それぞれが好き勝手な方向を向いているリビング。

 ドラミの足元では、ファズが丸くなって安心しきったように眠っていた。時折、ドラミの足にスニーカー越しに擦り寄っている。ドラミもそれを邪魔者扱いせず、食事の合間に時折、つま先を優しく動かしてファズの背中を撫でていた。


 俺は自分の分の唐揚げをつまみながら、ライム・ウーロンのグラスを傾けた。

 賑やかな声と、テレビから流れる歓声、そしてファズの穏やかな寝息。

 俺は傍らに置いてあったベースのネックに手を伸ばし、一番太い弦を親指の腹でそっと弾いた。

 ボォォォン……。

 低く温かい生音が、秋の陽光が差し込むリビングに静かに溶けていった。

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