第56話 特盛カツ丼と、ビートのセッション
試合を終えた地下闘技場の控室。カビと鉄錆、そして汗の匂いが重く滞留する薄暗い通路の奥で、俺と真生は扉が開くのを待っていた。
ギィッ、と油の切れた蝶番が鳴り、少女が姿を現す。
彼女――ドラミは、半開きの扉から顔を覗かせると、警戒心も露わに俺たちを睨みつけた。
ボロボロのスウェットに、血と汚れの滲んだバンデージ。その体躯は年齢よりもずっと小柄で細いが、研ぎ澄まされた刃物のような危うい殺気をまだ纏っていた。
「……何」
低く、擦れた声。俺はサングラスを少しだけずらし、彼女の目を見た。
「いいアタックだった。うちのパーティに来い。美味い飯を食わせてやる」
ドラミは表情一つ変えなかった。ただ、じっと俺の目を覗き込み、やがてぽつりと言った。
「……金は、いくらくれるの。私、腹が減ってるんだ。ずっと」
俺の言葉の「飯」という単語に、彼女の視線が微かに揺らいだのを見逃さなかった。
飢え。それはどんな理屈よりも雄弁に、彼女のこれまでを物語っていた。
「金より確実なもんがある。死ぬまで極上の飯を食わせてやる。代金は、お前のその拳だ」
俺は背を向け、通路を歩き出した。少し遅れて、ペタ、ペタと裸足にサンダルを引っ掛けたような軽い足音がついてくるのが聞こえた。
★★★★★★★★★★★
世田谷のクランハウスに到着するなり、ドラミはその豪邸の玄関ホールで一瞬だけ足を止めたが、すぐに「どこが食堂?」と俺の背中を小突いた。見上げたハングリー精神だ。
俺はアイランドキッチンに立ち、冷蔵庫から分厚い豚ロース肉のブロックを取り出した。
「今日は酷使してるだろうからな。理屈抜きのエネルギー補給だ」
豚肉を贅沢に厚さ3センチに切り分ける。包丁の峰でトントンと叩いて筋を切り、肉叩きで繊維をしっかり潰して柔らかくする。軽く塩コショウを振り、小麦粉、卵、そして粗挽きの生パン粉をしっかりとまぶしていく。
巨大なフライパンにラードをたっぷりと溶かし、中温でじっくりと揚げる。パチパチという軽快な音が、静かなキッチンに響き始めた。
「……いい匂い」
カウンターの向こうで、ドラミがバンデージを巻いたままの両手で頬杖をつき、食い入るように鍋を見つめている。彼女の腹から、ギュルル……と派手な音が鳴った。
ラードの甘く香ばしい匂いが、彼女の理性を削り取っていくのが分かる。
肉がきつね色に揚がったら、しっかりと油を切る。サクッ、という音と共に包丁で一口大に切り分ける。断面はほんのり桜色で、透明な肉汁が滲み出していた。
次に、浅い専用の鍋に、利尻昆布と鰹節で引いた濃いめの出汁、醤油、みりん、砂糖を合わせる。そこに薄切りの玉ねぎを入れ、しんなりするまで火を通す。
沸騰したツユの中に、先ほどのトンカツを滑り込ませる。ジュワァァァッ! という音と共に、カツの衣が甘辛いツユを貪欲に吸い込んでいく。
「ここからが勝負だ。卵は二回に分けて入れる」
軽く溶いた卵の3分の2を回し入れ、蓋をして30秒。白身が固まったところで、残りの3分の1を加え、火を止めて10秒だけ蒸らす。これで、白身はしっかりと火が通り、黄身はトロトロの半熟に仕上がる。
深い丼に、炊きたての新潟産コシヒカリを山盛りに盛る。その上に、鍋からカツ煮を滑らせて乗せ、最後に三つ葉を散らす。
「特盛カツ丼だ。食え」
俺が丼をドンッと置くと、ドラミは小声で「いただきます」と呟き、割り箸を割った。
そして、カツとご飯を一緒に口に放り込む。
サクッ。トロッ。ジュワァァァ。
動きが、不自然なほどピタリと止まった。
ドラミは瞬きすら忘れ、手元の丼と俺の顔を交互に見比べた。
「なんだこれ……。衣のサクサクと、出汁が染み込んで甘いところが混ざってて……お肉、歯がいらないくらい柔らかい。卵が絡んで、ご飯が……ご飯が……っ!」
言葉を継ぐのをやめ、彼女は涙目になりながら一心不乱に丼をかき込み始めた。喉を鳴らし、息継ぎすら惜しむような凄まじい食べっぷりだ。
「慌てるな。途中で口の中が脂っこくなってきたら、これで流し込め」
俺が横に置いたのは、氷をたっぷり入れた巨大なグラス。中身は『黒烏龍茶と強炭酸のブレンド』に、レモンをひと絞りしたものだ。
ドラミはグラスを掴み、ゴクゴクと喉を鳴らした。
「……ぷはっ! 炭酸がすっごく強くて……胃袋の底からまた食欲が湧いてくる。なにこれ、止まらないっ!」
飢えを満たすことだけに集中し、彼女はあっという間に特盛のカツ丼を平らげた。
★★★★★★★★★★★
「ごちそうさまでした。……で、次はどうするの」
食後、すっかり膨れたお腹をさすりながら、ドラミは俺を見た。その目には、先ほどまでの警戒心は消え、代わりに強い好奇心が宿っていた。
「オーディションだ。お前のアタックが、本当に俺たちの曲に合うか試させろ」
俺は彼女を地下の防音室へと案内した。
すでに真生が部屋の隅のPCで波形測定のセッティングを終えている。俺は部屋の中央に、あらかじめ前衛組の特訓用に購入しておいた硬質な魔物用の特殊サンドバッグを天井のフックから吊るした。
愛用のヴィンテージ・ベースを肩にかけ、アンプの電源を入れる。
「ルールはない。俺がベースを弾く。お前はそれに合わせて、そのバッグを殴れ。それだけだ」
「……分かった」
ドラミがサンドバッグの前に立ち、軽くステップを踏む。
俺は一呼吸置き、太いE弦を親指で叩きつけた。
バチィィンッ!
スラップ奏法による、攻撃的でファンキーなベースライン。BPM130。重低音が床を震わせる。
その音の波に乗るように、ドラミが動いた。
彼女のステップが床を擦る微かな摩擦音が、細かなリズムを刻む。その刻みの中に、重い左の拳が突き刺さる。
空気を圧縮して弾け飛ぶような破壊音。それが、俺のベースの裏拍に完璧なタイミングで噛み合った。
間髪入れずに放たれる右のストレートが、高く鋭い衝撃音となって空間を切り裂く。
(……こいつ、マジか)
俺は内心で舌を巻いた。彼女は楽譜も読めなければ、楽器の経験もないはずだ。だが、闘いの中で培われたステップの感覚と、打撃が対象にめり込んで弾き返されるまでの「間」の取り方が、結果的に最高峰のパーカッションとして成立している。
「テンポ上げるぞ。BPM160だ」
俺はベースラインをさらに細かく、激しく刻み始めた。
「……余裕」
ドラミのステップが加速する。拳の連打が途切れることなくサンドバッグを打ち据え、部屋全体を揺らす。
ベースと打撃。たった二つの音。だが、そこには確かな「グルーヴ」が生まれていた。俺が引けば彼女が前に出て、彼女が溜めを作れば俺が音を埋める。
拳による打撃音が俺の低音を喰い破り、逆に俺のスラップが彼女のステップを先導する。言葉のやり取りは一切ない。だが、互いの出したい音、進みたい方向が、手に取るように分かる。
ジャンッ! と、俺が最後のコードを鳴らすと同時に、ドラミの渾身のアッパーがサンドバッグを大きく跳ね上げた。
防音室に、静寂が戻る。
「……ふぅ」
俺が額の汗を拭うと、肩で息をするドラミが、満足げな顔でこちらを見た。
「悪くない。……あんたのベース、私の拳より重いね」
「お前のビートも最高だったぜ。合格だ」
★★★★★★★★★★★
ドラミをゲストルームに案内し、シャワーを浴びてリビングに戻ると、すでに夜も更けていた。
「……いい音鳴らしてたじゃない。真生が繋いだモニターで見てたわよ。どうやら、ウチのバンドのリズム隊がようやく完成したみたいね」
ソファでグラスを傾けていた西村実那子が、俺を見るなり不敵な笑みを浮かべた。彼女もまた、ソウルシンガーとしての血が騒いだのだろう。
「ああ。とんでもない掘り出し物だったよ。これで前衛組の暴走も、ある程度はコントロールできるはずだ」
俺が冷蔵庫から缶ビールを取り出して応えると、実那子は立ち上がり、俺の胸元を指先でツンと突いた。
「前衛組と合わせるのも大事だけど、その前に、ボーカルのアタシと『息を合わせる』のが先でしょ?」
「息?」
「そう。強力なビートが入ってベースのノリが変わったんだから、アタシの歌い方もそれに合わせてチューニングしなきゃいけない。……というわけで、菊雄。今からちょっと付き合いなさい」
実那子は傍らのレザージャケットを羽織った。
「付き合うって、もう深夜だぞ。どこに行く気だ」
「決まってるでしょ。アタシたちが一番リラックスして、音の会話ができる場所。……馴染みのジャズバーよ」
「これから始まるワールドツアー。そこで世界中のオーディエンスを黙らせる前に、アンタとサシで飲んでおきたいのよ。大人の女がエスコートしろって言ってんだから、黙ってついてきなさいな」
「……はいはい。逆らえませんね、ウチのメインボーカル様には」
実那子は俺の腕を強引に引き寄せ、さっさと玄関へと歩き出す。
俺は苦笑しながら、財布と鍵だけをポケットに突っ込み、彼女の背中を追って深夜の世田谷の街へと足を踏み出した。




