第55話 地下闘技場のドラマー少女
秋葉原の純喫茶を出た俺と真生は、夕暮れの街を駅へと向かって歩いていた。
街はネオンが瞬き始め、電子音と人々の喧騒が夜のそれに変わりつつある。真生の手には、先ほど中古オーディオ専門店で大枚を叩いて購入した年代物の真空管アンプ用コンデンサが、幾重にも緩衝材に包まれて大切に抱えられていた。
「……店長。これ、振動や温度変化にすごく弱いデリケートな部品なんです。このまま新宿の地下闘技場なんて埃っぽくて治安の悪い場所に持ち込んだら、間違いなくノイズが乗る原因になります」
「分かってるよ。俺のヴィンテージベースと同じくらい厄介な代物だろ。一度世田谷のクランハウスに戻って、厳重に保管してから新宿へ向かおう」
俺の提案に、真生はホッと安堵の息を吐いて頷いた。
これからの地下闘技場での人材探しも重要だが、俺たちの『音』の基盤となる機材を疎かにはできない。俺たちはタクシーを拾い、一度世田谷の拠点へと帰還した。
★★★★★★★★★★★
静まり返ったクランハウスのリビングの扉を開けると、そこでは息が詰まるような緊迫した対峙が続いていた。
「…………」
フカフカのペルシャ絨毯の上。
豆柴のファズが、四肢を限界までピンと突っ張り、重心を後ろに引いた姿勢のまま完全にフリーズしていた。
彼の視線の先にあるのは、今日の午後に宅配業者が運んできたらしい巨大な黒いペリカンケースだ。
未知の巨大な黒い塊。匂いもしない。動かない。
だが、その圧倒的な質量感が、子犬の本能に「得体の知れない強敵」として警鐘を鳴らしているらしかった。
ファズの警戒レベルはMAXに達していた。
ピンと立った三角の耳は微かにプルプルと震え、恐怖で尻尾は完全に垂れ下がり、お腹の下に力なくペタリと張り付いている。だが、番犬としての健気なプライドが逃走を許さないのか、口を真一文字に結んだまま、鼻先だけをヒクヒクと高速で動かし、必死に未知の気配を探ろうとしていた。
「……おいファズ、息してるか?」
俺がしゃがみ込んで背中を撫でてやると、ファズはビクゥッ!と跳ね上がり、そのまま空回りの猛ダッシュで俺の足の間に潜り込んできた。
安全地帯に逃げ込んだ途端、強気になって俺の足の隙間からケースに向かって「ワフッ! ワフッ!」と高い声で吠え始める。
「ほんと、お前は内弁慶だな」
苦笑しながらファズの首筋を撫でていると、二階の自室からレザージャケットを羽織った坂本千夏が降りてきた。
「近藤さん、真生、おかえりなさい。例の場所、手配できたわよ。関係者用のバルコニー席を押さえておいたから」
「ああ。手配ご苦労様です、千夏さん。ギルド管轄外のグレーゾーンだけに、急な頼みだったのに助かりました」
俺は千夏から端末へ送られてきた電子チケットのデータを確認し、短く礼を言った。昨日の威力偵察で痛感した、あの『重装甲地帯』を突破するためのピース。「点で空間を打ち抜く強烈な打撃」を持つ人材を探すため、千夏の裏の伝手を頼っていたのだ。
「Sランクの環たちを連れて行くと目立ちすぎるから、今回は二人だけで正解ね。……あそこの空気、私はあんまり好きじゃないんだけど」
「ええ。俺と真生で、しっかりと見極めてきます」
隣で真空管のコンデンサを保管用のアタッシュケースに収め終えた真生が、深く、ひどく重いため息をついた。
「……完全に定時外の残業です。ダンジョンよりもうるさい場所に行くんですから、約束の極上のお肉料理、絶対に忘れないでくださいね、店長」
「分かってるって。無事に仕事が終わったら、夜食にA5ランクの和牛ステーキを焼いてやるよ。ガーリックバターソースをたっぷり乗せてな」
その言葉に、真生の死んだような目にわずかにハイライトが戻ったのを確認し、俺たちはファズの頭を撫でてから再び夜の街へと車を走らせた。
★★★★★★★★★★★
新宿の地下深く。
旧地下鉄の廃線をさらに掘り進めたようなその空間には、地上とは完全に切り離された熱狂と悪意が充満していた。
「……ひどい匂いです。音も、信じられないくらい歪んでいます」
ノイズキャンセリング・ヘッドホンを深々と被った真生が、無意識に顔をしかめた。
安い煙草の煙、アルコールの饐えた匂い、血と汗、そして魔物特有の獣臭と鉄錆の匂いが混ざり合い、肺の底にへばりつくような不快感を生み出している。
非合法な地下闘技場。
ここでは、罪を犯してギルドから追放されたはぐれ探索者や、戸籍を持たないスラムの住人たちが、違法に飼育された魔物を相手に血みどろの殺し合いを演じている。
観客はそれに金を賭け、残酷な流血を求めて喉を枯らす。
千夏の裏ルートで手配した関係者用のバルコニー席から、俺たちは眼下の巨大な金網を見下ろしていた。
「次の試合が始まります。……千夏さんが見つけた、お目当ての候補者が出るはずです」
真生が手元のタブレットで出走表を確認しながら言った。
地響きと共に、金網の中に巨大な影が引きずり出されてくる。
『ロック・トロール』。全身を分厚い岩石の装甲で覆われた、推定Bランク上位の魔物だ。昨日の深層で出会ったアイアン・ビートルに匹敵する硬度と、トロール特有の厄介な再生力を持つ強敵。
それに対する挑戦者のゲートが開く。
歓声と下品な野次が入り交じる中、リングに姿を現したのは、場違いなほど小柄な人影だった。
「……あの子ですか?」
俺は身を乗り出した。
年齢は19歳くらいだろうか。
使い込まれたスポーツブラと、ダボついたスウェットパンツ。首には汗拭き用のタオルを巻き、両手にはボロボロになるまで使い込まれたバンデージが幾重にも巻かれている。
武器は持っていない。徒手空拳。
日野原ドラミ。
それが、千夏が膨大なデータの中から見つけ出してきた「候補者」の名前だった。
「始めるぞォ!!」
レフェリーの合図と共に、ゴングの代わりに甲高いブザーが鳴り響いた。
グォォォォォォッ!!
ロック・トロールが咆哮を上げ、丸太のような豪腕を振り下ろす。
岩の拳が金網の床を粉砕し、凄まじい砂埃が舞い上がった。
死んだか。観客の何人かが息を呑む。
だが。
「……ワン、ツー」
砂埃の中から、淡々とした呟きが聞こえた。
トロールの巨大な腕を紙一重のステップで躱したドラミが、その懐に深く潜り込んでいた。
タッ、タンッ。
スニーカーが床を蹴る音が、ハイハットのように軽快な裏拍を刻む。
「スリー、フォー」
彼女の腰がねじれ、バンデージを巻いた右拳が、トロールの岩石の胸板に向かって放たれた。
ドパンッッ!!!
乾いた、しかし芯の底まで響き渡るような強烈な破裂音。
スネアドラムのリムショットを極限まで硬くしたような、完璧な「アタック」の音が闘技場に響き渡った。
「……!」
俺はサングラスの奥で目を見開いた。隣に立つ真生も、ヘッドホン越しにその音を拾い、驚きに目を見張っている。
「……凄いです、店長。彼女の拳は、トロールの分厚い装甲を表面から砕いたんじゃありません」
「ああ。『点』で打ち込まれた衝撃の波形が装甲の内部に浸透し、その内側にあるトロールの核を直接揺さぶっている」
巨体がビクリと硬直する。
「……テンポキープ。BPM130」
ドラミは無表情のまま、独り言のように呟きながらステップを踏み続ける。
タッ、ツッ、タッ、ツッ。
彼女の足運びそのものが、正確なリズムを刻むメトロノームだ。
トロールが怒り狂って乱打を繰り出すが、彼女はその攻撃の「隙間」を縫うように、一定のリズムでダッキングとスウェイを繰り返す。
ドスッ!
左のボディブローが、バスドラムのような重低音を響かせてトロールの脇腹を抉る。
ドパンッ! ドパンッ!
間髪入れずに放たれる左右のストレートが、正確なスネアの連打となって岩の装甲にひびを入れ、内部構造に致命的なダメージを蓄積させていく。
力任せの喧嘩ではない。
これは、極限まで研ぎ澄まされたパーカッションの演奏だ。
無駄な力みは一切ない。筋肉の収縮と弛緩、そして床からの反発力を、彼女はただひたすらに純粋な「音」へと変換している。
俺はバルコニーの手すりを強く握りしめた。
バンドマンとしての血が、理性を越えて沸騰していくのを感じる。
昨日の重装甲地帯での敗北。俺は足りないアタックを補うため、無理にスラップを増やしてベースを弾き鳴らした。だが、ベースは本来、低音で楽曲の土台を支える楽器だ。リズム隊というのは、ベースとドラムがお互いの呼吸を合わせることで初めて成立する。
俺の鳴らす重たくて泥臭いベースライン。そこに、彼女のような鋭く、絶対にブレないタイトな打撃が乗れば。
「……完璧だ」
俺の口から、無意識にそんな言葉が漏れていた。
眼下のリング上の攻防は、いよいよ決着の時を迎えようとしていた。打撃の浸透により、ロック・トロールの動きが目に見えて鈍り、決定的な隙が生まれたのだ。
「――フィニッシュ。BPM180へ加速」
ドラミのステップが一気に加速する。
トロールの振り回す腕を低い姿勢で潜り抜け、完全に死角となる足元へ。
ドンッ!
力強い踏み込みが床を鳴らし、そのまま全身のバネを使った強烈なアッパーカットが、トロールの顎下――装甲の継ぎ目という最も脆い『点』へと叩き込まれた。
バギィィィィンッッ!!
岩の装甲の内部で何かが砕け散る轟音。
脳天まで衝撃を貫かれたロック・トロールは、白目を剥き、巨大な木が倒れるようにして金網の床に崩れ落ちた。
沈黙。
それから数秒遅れて、闘技場を揺るがすような怒号と歓声が爆発した。
ドラミは倒れた魔物を一瞥することもなく、汗ばんだ首元のタオルで顔を拭いながら、淡々とした足取りでリングを降りていく。
その表情には、勝利の歓喜も、相手を打ち倒した興奮もなかった。ただ「自分の演奏を終えた」という、職人のような静けさだけがあった。
「店長。どうでしたか?」
真生が、ノイズキャンセリング・ヘッドホンを片耳だけ外して俺の顔を見上げてきた。
俺は小さく息を吐き、口角を上げた。
「最高だ。あいつのアタックがあれば、あの重装甲地帯はただの張りぼてに変わる」
俺はバルコニーの階段へ向かって歩き出した。
「行くぞ、真生。……俺たちの新しいバンドメンバーを迎えに」




