第54話 リズム隊の欠如、ベースラインの孤独
新宿第4迷宮の深層エリア。
ギルドから『重装甲地帯』と名付けられたその空間は、これまでのどのダンジョンとも異なる、息が詰まるような異質さに満ちていた。
空気が重い。魔力の異常干渉により、ただ呼吸をするだけでも肺に微細な砂を吸い込んでいるようなザラつきを感じる。
壁も床も、鈍い光沢を放つ黒褐色の鉱石で覆われていた。俺たちはギルドからの依頼を受け、まずはその脅威度を測り、装甲の性質を分析するための威力偵察に踏み込んでいた。
「――来るわ。前衛、構えて!」
坂本千夏が短く鋭い声を上げた。
薄暗い通路の奥から、地響きを立てて接近してくる複数の巨大なシルエット。
『アイアン・ビートル』。
装甲車ほどの大きさを持つ、全身が分厚い鉱石の装甲で覆われた甲虫型の魔物だ。暗闇の中でも、その岩石のような外殻がギラリと不気味に光っている。
それが三体、横隊を組んで通路を塞ぐように突進してくる。
「ハッ! 甲虫ごときが、私を押し通れると思うなよ!」
ザーナ・ベリシャが巨大なタワーシールドを構え、真正面から激突した。
ドガァァァンッ!
すさまじい金属音。ザーナのブーツが鉱石の床を削りながら数メートル後退するが、彼女の『反響防御』がビートルの突進エネルギーを強引に相殺する。
「環、今だ!」
「ふっ……!」
ザーナが作り出した一瞬の停止。その隙を突き、村上環が音を置き去りにする速度で踏み込んだ。
彼女の手に握られた大剣『紅姫』が、真紅の軌跡を描いてビートルの首の関節――最も装甲が薄いはずの部位へと吸い込まれる。
だが。
ガキィィィンッ!
激しい火花が散り、環の体が反動で大きく弾き返された。
「……硬い。刃が滑るわ」
環が着地し、舌打ちをしながら大剣を構え直す。彼女の全力の斬撃を受けてなお、ビートルの装甲には浅い白い傷跡しかついていなかった。
「千夏さん、アーニャ! 遠距離から関節を狙え!」
「やってるわよ! でも、魔弾が全部弾かれる!」
「私の氷結もダメ。表面で乱反射して、中まで凍らない」
千夏の放つ徹甲弾も、アーニャのサンプリングした冷気も、分厚い鉱石の装甲と異常な魔力干渉の前に無力化されていた。
俺はミキサーのフェーダーを握りしめ、歯噛みした。
俺の【音響共鳴】によるバフは効いている。環たちのステータスは間違いなく跳ね上がっている。
だが、刃が通らない。
事前の分析通り、この理不尽なまでの「硬さ」を砕くには、ただステータスを上げるだけでは足りないのだ。
装甲の奥にある内臓まで響くような、圧倒的な質量を持った『衝撃』。やはり、俺たちのパーティには強烈な打撃音が不可欠だ。
「……少しだけ、無理に音で叩く」
俺は弦を乱暴に弾きちぎり、打楽器のように強烈なアタック音を叩き出した。
バチィッ! ボンッ!
パーカッシブな破裂音が、鉱石の壁に反響して魔物たちを打つ。
俺は必死でリズムを刻んだ。BPMを引き上げ、手首が千切れそうなほどの速さで弦を叩き続ける。
「環、もう一度だ! 俺のアタックのタイミングに合わせて、同じ箇所を叩き斬れ!」
「了解!」
環が再び跳躍する。
俺の鳴らすアタック音に彼女の剣戟が重なる。
だが、何かが決定的に足りなかった。
ベースはあくまで音程とリズムの橋渡しだ。どれだけ乱暴に弾いて打撃音を作ろうと、それは弦の振動であって、純粋な打楽器が放つ「点」の破壊力には遠く及ばない。
「ギチチチチッ!」
ビートルが苛立ったように顎を鳴らし、前足を振り下ろした。
環がバックステップで躱すが、その余波だけで姿勢を崩しかける。
「……ここまでですね。店長、引きましょう」
最後尾で音響解析を行っていた太田真生が、タブレットから顔を上げて淡々とした声で言った。
「……データ、取れました。彼らの装甲の共振点には、やはり想定以上の『アタック』が必要です。私たちの現状の音の質量では、割るだけのエネルギーが足りません」
「……ああ。検証は十分だ。撤退するぞ!」
俺は即座に指示を出した。
ザーナが盾で牽制し、ナナが【音響結界】を展開して最後尾を守る。
俺たちは陣形を保ったまま、重装甲地帯の入り口から素早く撤退した。
いくら前衛が強力でも、リズムの土台が欠けていれば致命的な隙が生まれる。俺はその事実を、ヒリつくような実戦の空気の中で静かに噛み締めていた。
その日の午後。
世田谷のクランハウスに戻った俺たちは、疲労と苛立ちで重苦しい空気に包まれていた。
「……私の剣が、ただの虫けらに通じないなんて」
環がソファに座り、悔しそうに自分の両手を見つめている。
「落ち込むな、環。お前の剣のせいじゃない。あの理不尽な硬さは、そういうギミックだ」
俺はキッチンからコーヒーを運びながら声をかけた。
「千夏さん。昨日頼んでおいた、地下闘技場の件はどうなってる?」
「情報屋を当たってる最中よ。今日の夕方には、いくつかの候補が絞り込めるはず。……でも、本当にそんないかがわしい場所に、私たちの求めてる『音』があるの?」
「行くアテがない以上、探すしかないさ。型にハマらないイカれた打撃を出せる奴は、表のステージにはいない」
俺が言うと、千夏は「まあ、そうね」とため息をついてタブレットに視線を戻した。
俺は空になったマグカップを片付けるため、シンクへと向かった。
「店長」
不意に、シャツの袖を引かれた。
振り返ると、大きめのパーカーを着込んだ真生が、無表情のまま俺を見上げていた。
首にはいつも通り、ノイズキャンセリング・ヘッドホンがかかっている。
「……少し、出かけませんか」
「ん? 珍しいな、お前が自分から外に出たいなんて」
「調べたい機材のパーツがあるんです。一人だと、街のノイズがうるさいので」
「なるほどな。歩く耳栓代わりってわけか。いいぞ、付き合うよ」
俺がエプロンを外して上着を羽織ると、ソファから千夏がニヤニヤと笑いかけてきた。
「あら。真生と二人でデート? 珍しい組み合わせね。若い子に手を出したら、後で環に斬られるわよ?」
「ただの買い物だ。変な気を回すな」
俺は千夏の軽口を適当にあしらい、真生と共にクランハウスを出た。
向かったのは、秋葉原の裏通りにある、知る人ぞ知る古いオーディオパーツの専門店だった。
平日の午後とはいえ、大通りはそれなりに人が多く、雑多な音が溢れている。
だが、俺の隣を歩く真生は、ヘッドホンを首にかけたまま、珍しく顔をしかめることなく歩いていた。
「……今日は調子がいいみたいだな」
俺が声をかけると、真生は歩幅を変えずに答えた。
「店長が、私の歩幅と呼吸に合わせて、一定のリズムで歩いてくれているからです。店長の足音がメトロノーム代わりになって、周囲のノイズを綺麗にマスキングしてくれてますから」
「職業病みたいなもんだ。誰かのリズムに合わせるのは慣れてる」
俺は苦笑した。
真生の耳は残酷なまでに正確だ。だからこそ、少しでもリズムが狂えば、たちまち世界が不協和音の地獄に変わってしまう。
専門店で真生が目的のパーツを購入した後、俺たちは近くの落ち着いた純喫茶に入った。
客は少なく、静かなジャズが流れる店内。
真生はレモンスカッシュを、俺はブラックコーヒーを注文した。
「しかし、あの重装甲地帯は厄介ですね」
ストローを弄りながら、真生がぽつりと言った。
「私の耳で弱点の周波数を割り出しても、それを叩き割る『アタック』が足りない。環さんの剣は鋭すぎますし、ザーナさんの盾は面で制圧する音です。アーニャの魔法は空間全体を冷やすノイズ。……私たちには、『点』で空間を打ち抜く強烈な打撃楽器がいません」
「ああ。ベースだけじゃ、リズム隊としては片手落ちだ」
俺がコーヒーカップを置くと、真生は真っ直ぐに俺の目を見た。
「今日のダンジョンでの店長の音……すごく、無理をしていました」
「……分かるか」
「分かります。足りないアタックを補うために、無理にスラップを増やして、テンポを強引に引き上げていた。あれは店長の本来のグルーヴじゃありません。……聴いていて、少し痛々しかったです」
真生の言葉は、鋭く、そして正確だった。
ベースは本来、低音で楽曲の土台を支え、メロディとリズムを繋ぐ楽器だ。
俺一人が前に出て、無理にドラムの代わりを果たそうとすれば、本来の「包み込むようなグルーヴ」が失われてしまう。
今日の俺の音は、焦りと力みに満ちた、独りよがりなノイズだった。
「……お前の耳は誤魔化せないな」
俺は自嘲気味に笑った。
「バンド時代からずっとそうだ。俺は誰かの音がないと、一人じゃ何もできない。ドラムのキックがあって初めて、俺のベースは生きるんだ。……だからこそ、早く見つけないとな。俺のベースラインの『孤独』を埋めてくれる、イカれたドラマーを」
俺が言うと、真生はレモンスカッシュのグラスを両手で包み込むように持ち、ふっと目を細めた。
「店長は孤独じゃありませんよ。……私たちが、店長の音を必要としてるんですから。無理に全部背負おうとしないでください」
その言葉は、いつもの塩対応の彼女からは想像もつかないほど、優しく、そして温かい響きを持っていた。
「……そうだな。悪い、少し焦ってたみたいだ」
俺が素直に謝ると、真生は「分かればいいんです」と少しだけ得意げに唇を尖らせ、レモンスカッシュを飲み干した。
その時、俺のスマホが短く震えた。
千夏からのメッセージだ。
『ビンゴよ。近藤さんの言ってた非合法な地下闘技場、場所が割れたわ。ついでに、そこで最近連戦連勝してるっていう、面白い喧嘩屋の噂もね』
画面には、薄暗い地下室で、両手にゴツいガントレットをはめた小柄な人影が、巨大な魔物を殴り飛ばしている不鮮明な写真が添付されていた。躍動感のあるそのシルエットからは、荒削りだが暴力的なリズムが伝わってくるようだった。
「……見つかったみたいだぞ、真生」
俺がスマホの画面を見せると、真生は小さくため息をついた。
「また、柄の悪そうな場所ですね。……血と汗の匂いがするノイズだらけの空間なんて、絶対に行きたくありません」
「そう言うな。お前の耳で、そいつの打撃音がウチのバンドに合うかどうか、見極めてもらいたいんだ」
「……定時外の手当、お肉料理で弾んでくださいよ」
真生は渋々といった様子で立ち上がり、パーカーのフードを深く被り直した。
俺たちはコーヒーの代金をテーブルに置き、地下闘技場へと向かうため、夕暮れの秋葉原の街へと歩き出した。




