第60話 メジャーデビュー戦、完全勝利
新宿第4迷宮の深層へと向かう数時間前。
世田谷のクランハウスの広大なリビングでは、一つの重要なミッションが静かに、そして極めて慎重に進行していた。
ターゲットは、部屋の隅をソワソワと歩き回っている生後100日を過ぎた豆柴、ファズ。
最近、リビングでの行動範囲が広がったことで、トイレの場所を間違えて粗相をしてしまうことが増えていた。そのため俺は昨日、広めの囲い付きトイレトレーを新調し、以前の匂いをわずかにつけた新しいペットシーツを敷いておいたのだ。
「……」
「……」
俺と、新加入の日野原ドラミは、大型ソファの陰に身を隠し、息を潜めてその様子を観察していた。
ファズが床の匂いをフンフンと嗅ぎながら、新しいトレーの前にやってきた。
短い前足を縁に乗せ、恐る恐る中へ入る。
そして、シーツの上でくるくると三回ほど円を描くように回り、ついにポジションを定めた。
しゃがみ込む小さな背中。ピンと立った三角の耳。
数秒の静寂の後、任務は無事に完了した。
「よしっ」
俺が短く声を上げて立ち上がると、用を足し終えたファズは、犬の本能に従って後ろ足でシャッシャッとエア砂かけを行った。
そして、くるりとこちらを振り向くと、ピンと張った胸を反らせ、得意げに右の前足を高く上げて「ワフッ」と鳴いた。
まるで合格点をねだるように、短い尻尾をプロペラのように回してこちらを見上げてくる。
「えらいぞ、ファズ。完璧だ。一回で新しい場所を覚えるなんて天才じゃないか」
俺が無添加の犬用ボーロを差し出すと、ファズは弾かれたように飛びついてきて、俺の手のひらからそれを美味しそうに平らげた。
ドラミも隣にしゃがみ込み、ゴツゴツとした傷だらけの手で、ファズの頭を慣れた手つきで優しく撫でる。
地下闘技場の薄暗い控室で初めて会った時の、あの張り詰めたような殺気は、今の彼女からは微塵も感じられない。
「……すごい。また新しいこと覚えた。頭いいな、お前」
ドラミが少し誇らしげに呟くと、ファズは彼女の手のひらをペロペロと舐めて応えた。
お互いの距離がさらに縮まっていく様子に、俺は苦笑しながら、その温かい光景を見下ろした。
だが、のんびりしていられるのはここまでだ。
「よし、トイレ問題もクリアしたしな。準備はいいか、ドラミ。今日の獲物は手強いぞ」
「うん。……すごく腹減ってるから、早く倒して帰る」
ドラミが立ち上がり、自身の両腕に嵌められた特注の『音響衝撃増幅ガントレット』同士を打ち合わせた。
カンッ、と硬質で正確な音が響く。ギルドの専属工房が徹夜で組み上げた、彼女の純粋な打撃力を『音波の衝撃』として叩き込むための専用兵装だ。
新生『サウンド・オブ・ブレイブ』、9人体制での初の大仕事が、始まろうとしていた。
★★★★★★★★★★★
新宿第4迷宮『重装甲地帯』最深部。
ひんやりとした冷気と、異常な高濃度の魔力が渦巻く広大なドーム状の空間に、俺たちの足音が響く。
空気は魔力の重みでザラつき、呼吸をするだけで肺が軋むような感覚を覚える。壁も床も、鈍い光沢を放つ黒褐色の鉱石で覆われており、音の反響すらも重く濁る、息の詰まるような空間だった。
『さあ、世界中の皆さま! お待たせしました!』
坂本千夏のよく通る声が、空間に響き渡った。彼女の周囲を飛ぶ数台の自律型ドローンが、様々なアングルから俺たちの姿を捉え、リアルタイムで映像を世界中へ配信している。
『これより、新生サウンド・オブ・ブレイブによる、新宿第4迷宮『重装甲地帯』最深部のボス討伐ライブを開始します! 現在の同接数は……なんと250万人! 過去最高記録よ!』
千夏の言葉に、メンバーの顔に緊張の色が走る。
だが、それに萎縮するようなヤワな連中は、ここにはいない。
ズシン、と足元から重い地響きが鳴った。
最深部の暗がりから姿を現したのは、巨大な砦のような威容を誇る魔獣。
『グランド・バズラ』。
四足歩行の獣型ゴーレムだが、その全身は黒褐色の特殊な鉱石で分厚く覆われており、ところどころに魔法を乱反射させる結晶体が棘のように突き出している。これまでの階層の中ボスとは比較にならない、圧倒的な質量と威圧感だった。
「……解析完了しました」
後方でノイズキャンセリング・ヘッドホンを押さえていた太田真生が、手元のタブレットから目を離さずに淡々と告げる。
「外殻の共振点はBPM192。極めて強固な多重装甲です。通常の魔法も斬撃も、表面で乱反射されるか弾かれます。……突破するには、外側から特定の波長で、連続した強烈な打撃を『点』で叩き込み続けるしかありません」
「つまり、お前の出番ってことだ、ドラミ」
俺が愛用のヴィンテージ・ベースのネックを握り直して声をかけると、最前列に陣取っていた小柄な少女が、コキキキと首を鳴らした。
「……うん。店長のビート、しっかりくれ」
「ああ。お前のその拳で、あいつの硬い装甲に風穴を開けてやれ」
「グルルルルォォォォォッ!!」
グランド・バズラが咆哮し、丸太のように太い前足を高く振り上げた。
そのまま、床の鉱石を砕く勢いで叩きつける。
物理的な衝撃波が、地を這う波動となって波打つように俺たちへ迫る。
「前衛、受け流せ!」
俺の指示と同時、ザーナ・ベリシャが巨大なタワーシールドを斜めに構えて地面に突き立て、斉藤ナナがその背後で鉄扇を広げて優雅に舞う。
「その瘴気、まとめて浄化してやるぞ!」
ナナの凛とした声と共に浄化の結界が展開され、衝撃波が盾に直撃する瞬間、俺はベースの低音弦を強く弾き、逆位相の音波を発生させた。
ドムッ、という鈍い音と共に、三人の連携が凶悪な衝撃を完全に殺し切る。
「千夏さん、アーニャ、関節を狙え!」
「了解! Drop it!!」
「派手に行くわよ!」
アナスタシアが空中に展開したホログラムコンソールから極低温の冷気魔法が放たれ、千夏の二丁魔銃から魔力で強化された徹甲弾が連射される。
分厚い装甲そのものは貫けないが、関節部の駆動系を凍らせ、僅かな遅延を生じさせるには十分だ。
「今だ、ドラミ!」
俺はミキサーのフェーダーを一気に押し上げ、スラップ奏法で重厚かつ高速なイントロを叩き出した。
バチィィッ! と太い弦が弾ける音が空間を支配する。BPM192の極悪なファンク・ビート。
ドラミが床を蹴った。
小柄な体が弾丸のように飛び出し、巨獣の懐へと真っ直ぐに潜り込む。
ボスが迎撃のために振り下ろす巨大な牙を、彼女はボクサーのような滑らかなウィービングで紙一重で躱し、そのまま踏み込んで右のガントレットを叩き込んだ。
ドォォン!
まるで巨大なバスドラムを打ち鳴らしたような、腹の底に響く重い打撃音。
続いて左、右、左。
ドドォン! ドンッ! ダァン!!
ドラミの拳は、単なる暴力ではない。彼女は俺の鳴らすBPM192のベースラインに完璧に同期し、ワンツー、フック、アッパーをリズミカルに叩き込んでいく。
俺のベースの裏を完全に喰い破り、かつ先導していくその打撃音は、失われていたリズム隊の最後のピースを完璧に埋め尽くしていた。
「……なんてグルーヴなの……っ!」
配信用のカメラを操作しながら、千夏が息を呑む音が聞こえた。
「二人のリズム隊が、完全に噛み合ってる……!」
俺のうねるようなベースのグルーヴと、ドラミの冷徹なまでに正確な打撃ビート。
この二つが土台として完全に機能することで、他のメンバーのパフォーマンスは劇的に引き上げられていく。
「――響け!!」
西村実那子がマイクスタンドを握りしめ、魂の底から絞り出すようなソウルフルなシャウトを放つ。
固有スキル【ソウル・シャウト】の音圧がドラミの拳に纏わりつき、打撃の威力をさらに倍増させる。
バキ、バキィッ!
連続する振動と共鳴に耐えきれず、ボスの強固な黒褐色装甲に無数の白い亀裂が走り始めた。
「装甲の共振、限界点に達します! 剥がれます!」
真生の正確なナビゲートが響く。
「ドラミ、道を開けろ!」
俺が叫ぶと、ドラミは小さく頷き、全身のバネを使って大きく跳躍した。
空中からの、渾身の右ストレート。
シンバルクラッシュのように甲高く、そして重い一撃が、ボスの胸部装甲に真っ直ぐに突き刺さる。
ガシャァァァァンッ!!
厚さ数十センチはあろうかという鉱石の殻が、内側からの共鳴衝撃に耐えかね、まるで爆破された堤防のように一気に決壊した。すさまじい轟音と共に爆散し、無数の黒い破片となって吹き飛ぶ。
魔法を乱反射するクリスタルも、内部からの物理的な振動破壊には全くの無力だ。
ボスの胸の奥で、心臓部である巨大な魔石のコアが赤黒く脈打っているのが見えた。
「環、決めろ!」
俺は最も高いフレットを弾き、最後のアタック音を響かせた。
「――【紅蓮十文字・絶華】ッッ!!」
待機していた村上環が、炎を纏った大剣を上段に構え、俺のビートの頂点に完全に合わせて踏み込んだ。
燃え盛る真紅の十字の剣閃が、無防備になったボスのコアを正確に両断する。
グランド・バズラは断末魔の咆哮を上げる間もなく、その巨体を硬直させた。
直後、黒褐色の装甲と肉体が崩壊を始め、無数の光の粒子となって大気の中へキラキラと溶けていく。
雪のように降り注ぐ光の粒子の中で、環が静かに大剣を振り抜き、残心をとった。
完全な、そして圧倒的な勝利だった。
静まり返った広間に、千夏のドローンの微かな駆動音だけが響く。
手元のタブレットのコメント欄は、もはや読むことすら不可能な速度で滝のように流れていた。
『――以上。これが私たち、新生サウンド・オブ・ブレイブの音よ』
千夏がカメラに向かって不敵にウインクをし、配信の終了ボタンを押した。
その瞬間、メンバーたちの肩からスッと力が抜ける。
ドラミがゆっくりとこちらへ歩いてきた。
彼女は自分のガントレットに視線を落とし、それから俺の方を見上げた。
「……店長の音、すごく殴りやすかった。迷わなくて済んだ」
「お前のビートが正確だからだ。最高のドラムだったぞ、ドラミ」
俺の言葉に、ドラミは少しだけ照れたように視線を逸らし、パーカーのフードを深く被り直した。
「さーて、大仕事も終わったし、さっさと帰るわよ! 早くお風呂に入りたい!」
環が大剣を背中に納めながら、大きく伸びをした。
「ああ。帰るぞ」
俺はベースをケースにしまい、ミキサーの電源を落とした。
「今日の晩飯は、約束通り特大のカツ丼だ。腹空かせておけよ」
「……帰る。急いでカツ丼食う」
ドラミの瞳が分かりやすく輝き、ナナやザーナも「酒のつまみも頼むぞ!」と笑い声を上げる。
「待ちなさいドラミ、走ったら胃に悪いでしょ!」
「いいじゃん、走った方がカツ丼が100倍美味くなるよ!」
騒がしく歩き出した仲間たちの背中を追いかけながら、俺は充実した足取りで、愛するファズの待つ我が家へと、帰りの一歩を踏み出した。
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