第46話 セットリスト1曲目:BPM190の開幕雷撃
それは、レイド・フェスに向けた奥多摩合宿へ出発する、数日前のことだった。
引っ越しのドタバタがようやく落ち着き、新しいクランハウスでの生活に慣れ始めたある秋晴れの朝。
俺は胸元に温かく柔らかい重みを感じながら、世田谷の高級住宅街をゆっくりと歩いていた。
「クンクンッ、フンスッ!」
俺の胸に掛けた犬用のスリングの中から、豆柴のファズが身を乗り出し、湿った鼻先をヒクヒクとさせている。
まだワクチンプログラムが完了していない生後2ヶ月半の仔犬は、自分の足で外の地面を歩くことができない。そのため、こうして抱っこ紐に入れた状態での「社会化見学」が現在の日課となっていた。
ファズにとっては、クランハウスの壁の向こうに広がるすべてが未知のエンターテインメントだ。
通り抜ける秋の冷たい風に目を細め、どこからか漂ってくる金木犀の香りに鼻を鳴らす。
不意にカサカサと落ち葉が舞い上がると、ファズは「ビクッ!」と身をすくめて俺の胸に顔を埋めた。だが、すぐに安全だと悟ると、今度は落ち葉に向かって「ワフッ!」と強気に吠えてみせる。その一生懸命な威嚇は、恐怖よりも好奇心が勝っている証拠だった。
「どうしたファズ。葉っぱ相手に番犬の真似事か?」
「クゥ〜ン」
俺が顎の下を撫でてやると、ファズはピンク色の舌を出して俺の指先をペロペロと舐めた。
「あらーっ、可愛いワンちゃんですねえ! 豆柴ですか?」
すれ違った上品なマダムが、目を細めて立ち止まった。
その声に反応して、登校中らしき女子高生の二人組も「うわ、めっちゃちっちゃい!」「やばい尊い!」と黄色い声を上げて近寄ってくる。
「ええ、まだ生後2ヶ月ちょっとでして」
「撫でてもいいですか?」
「優しくお願いします。まだ外に慣れてないんで」
女子高生たちが恐る恐る指先で頭を撫でると、ファズは嫌がるどころか、短い尻尾をスリングの中でパタパタと振り、胸を張って「撫でていいぞ」と言わんばかりのドヤ顔を披露した。
「キャー! 尻尾振ってるー!」
「人懐っこいのねえ。飼い主さんに似て、イケメンになるわよ」
マダムにまでおだてられ、ファズはすっかりご満悦だ。
周囲に人が集まり、ちょっとした撮影会のようになってしまったが、ファズはカメラを向けられても全く動じず、むしろカメラ目線を送るというファンサービスの良さを見せつけていた。Sランク美女たちに揉まれているせいか、肝の据わり方が尋常ではない。
「お前、本当に世界一可愛い番犬だな」
俺は苦笑しながら、その温かい小さな命の鼓動を胸に感じていた。
戦場から遠く離れた、徹底的に無防備で平和な時間。
この何気ない日常の重みと温もりが、今の俺にとって最大の精神的支柱となっているのだ。
――そして現在。
新宿第3迷宮・第30階層。
禍々しい紫色の魔力雲が渦巻く空の下、俺の視界には、あの平和な高級住宅街とは対極にある、血と暴力にまみれた絶望的な光景が広がっていた。
「グルルルルルルッ……!」
地鳴りのように押し寄せるのは、漆黒の毛並みから瘴気を放つ魔獣『シャドウ・ハウンド』の大群。
数十……いや、百体近い上位魔物の群れが、俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』の8名に向かって牙を剥いていた。
だが、俺の胸の中には、ファズの温かい鼓動の記憶が確かに残っている。
帰るべき場所がある。守るべき日常がある。
だからこそ、俺たちはこの非日常の極致で、誰よりも熱く、狂ったように笑って戦えるのだ。
「行くぞお前ら! 最高のセットリスト、一曲目だ!」
俺は足元のディストーション・ペダルを強く踏み込み、ミキサーのフェーダーを最大まで跳ね上げた。
ジャガジャーンッ、ズドズドズドズド……!!!
BPM200オーバー。
鼓膜を劈くようなシンセサイザーの凶悪なリードと、限界までドライブさせたベースの重低音が、第30階層のゼリーのように重苦しい大気を物理的に叩き割る。
それはデジタル・ハードコアとスラッシュ・メタルを掛け合わせたような、全く新しい暴虐のアンサンブル。8人の個性が激突し、一つの巨大な音の壁となって押し寄せる開幕の雷撃だ。
『――Get ready(準備はいい)!?』
西村実那子がマイクスタンドを握りしめ、魂の奥底から絞り出すようなソウルフルなシャウトを放った。
俺の固有スキル【音響共鳴】が、その歌声の魔力を増幅し、パーティ全員の神経系にバフの嵐となって叩き込まれる。
「まずはアタシたち遠距離組が、このステージを温めるわよ! アーニャちゃん、合わせなさい!」
「了解、千夏さん! おじいちゃんのビート、最高にアガる! 雑音は全部私がフリーズさせてあげる!」
坂本千夏とアナスタシア。
二人の遠距離アタッカーが、最前線へと躍り出た。
アーニャが虚空に展開したホログラフィックなDJコンソールに両手をかざす。
彼女の青灰色の瞳が、デジタルな光を帯びて冷たく輝いた。
固有スキル【サンプリング・キャスト】。
最前列のシャドウ・ハウンドたちが放った威嚇の咆哮を、彼女は空中の魔法陣で瞬時に録音した。
「チョップ&スクリュー! 低音マシマシで返すよ!」
録音された魔物の咆哮が、超高速のベースラインに合わせて切り刻まれ、不気味な電子音へとリミックスされる。
彼女が両手を振り下ろした瞬間。
ピキィィィィンッ!!
上空の紫色の雲が凍りつき、極大の氷柱がミサイルのようにハウンドの群れへと降り注いだ。
アーニャの広範囲殲滅魔法【ブリザード・ドロップ】。
ズガァァァン! という轟音と共に、数十体のハウンドが一瞬にして絶対零度の氷像と化し、その場に縫い留められる。
「ナイスドロップ! なら、アタシがそれにパーカッションを足してあげるわ!」
千夏が二丁魔銃を構え、流れるようなステップを踏みながら引き金を引いた。
タンッ! タタンッ! タンッ!
超高速の裏拍に完璧に合わせた、リズミカルな銃声。
放たれた魔弾は、アーニャが作り出した氷柱の森を縫うように飛び交う。ただ撃っているのではない。千夏は氷柱の表面を反射板として利用し、魔弾を複雑に跳弾させていた。
パキィィィン! ガシャンッ!
跳弾した魔弾が、次々と氷像化したハウンドの頭部を的確に粉砕していく。
砕け散る氷の欠片が魔力光を反射し、薄暗い第30階層に、まるで巨大なミラーボールが回っているかのような錯覚を生み出した。
「千夏さん、アーニャ! 照明完璧だぜ! そのままのテンポで押し切れ!」
俺はベースの弦を激しく弾きながら、マイク越しに叫んだ。
千夏のドローンカメラが、この圧倒的な殲滅劇と美しい氷の反射を余すところなく捉え、世界中の画面の向こうへと配信している。
手元のタブレットに表示された同接数は、100万人を優に超え、なおも上昇を続けていた。コメント欄はもはや文字の形を保てず、ただの白い滝となって流れている。
「フフッ、素晴らしい舞台装置ね。なら、私たちも踊らせてもらうわ」
氷と光の嵐の中を、斉藤ナナが鉄扇を翻しながら優雅に進み出る。
彼女の【浄化の舞】が、ハウンドの放つ瘴気を中和し、安全な道を作り出していく。
「ハッハァ! 前座は十分だ! ここからがメインボーカルのお出ましだぜ!」
ザーナ・ベリシャが、タワーシールドを構えて地響きと共に突進する。
残っていたハウンドの群れが、彼女の巨大な盾に撥ね飛ばされ、宙を舞う。
完璧な露払い。
そして、その強固な道の中央を、赤い閃光が駆け抜けた。
「――一気に片付けるわよ!」
村上環。
我が『サウンド・オブ・ブレイブ』の不動の絶対的エース。
彼女は大剣『紅姫』を上段に構え、俺の鳴らす超高速ビートに完全に同期して、音速を超えた踏み込みを見せた。
「1、2、3、4! サビ行くぞ、環!」
俺のシャウトと同時。
環が大剣を振り下ろした。
真空の刃が、群れの中心を文字通り両断する。遅れて発生した衝撃波が、周囲のハウンドを巻き込んで巨大なクレーターを穿った。
ズバァァァァァンッ!!!
声を発する間もなく、第一陣のシャドウ・ハウンドの群れは、一匹残らず紫色の魔力霧へと還元され、ドームの空へと吸い込まれていった。
開始からわずか数分。
これ以上ないほど完璧な、圧倒的なスタートダッシュだった。
「……ふぅ。とりあえず、肩慣らしはこんなもんね」
環が大剣を肩に担ぎ、汗を拭いながら不敵に笑う。
俺はミキサーのフェーダーを少しだけ下げ、激しいビートから、インターバル用の落ち着いたローファイ・ヒップホップへと曲を切り替えた。
「お疲れさん。見事なコーラスワークだったぜ、遠距離組」
「当然よ。私たちのサポートがあってこその剣姫でしょ?」
千夏が魔銃をクルクルと回してホルスターに収める。
アーニャも「おじいちゃんのベース、ちょっとだけ見直した。氷が綺麗に割れたし」と、素直じゃない態度で親指を立てた。
「よし、短い給水タイムだ。すぐに次が来るぞ」
俺はバックパックから、あらかじめ用意しておいたスクイズボトルを取り出し、メンバーに放り投げた。
「中身は自家製のスポーツドリンクだ。疲労回復のためのクエン酸と、筋肉の分解を防ぐBCAAアミノ酸、それに少しの蜂蜜と天然塩をブレンドしてある。甘すぎないようにレモン果汁を多めに絞ってあるから、ガブ飲みしても胃にもたれないぞ」
真生がボトルを受け取り、一口飲んで「……酸っぱくて美味しい。細胞が潤います」と呟く。
環もゴクゴクと喉を鳴らして飲み干し、口元を手の甲で拭った。
「水分補給完了よ。近藤さん、次行くわよ」
「ああ。ターゲットの変異種ボスは、この階層のさらに奥、隠しエリアにいるはずだ」
俺は全員の顔を見渡した。
疲労の色はない。あるのは、100万人の観客を背負い、未知の領域へと踏み込む純粋な高揚感だけだ。
そして、俺たちの前には、因縁のメガクラン【Noize】が別のルートから同じ獲物を狙って迫っている。
「一番槍は絶対に渡さねえ。俺たちの爆音で、この階層ごと全部飲み込んでやる」
俺はベースの弦を強く弾き、再びフェーダーを押し上げた。
重低音が響く。
俺たちの伝説となるライブは、まだ最初の曲が終わったばかりだ。




