第45話 レイド・フェス、開幕!
その頃。
主たちが出払った世田谷のクランハウスは、圧倒的で無垢な平和に包まれていた。
嵐のような騒動が去り、高く澄み渡った秋晴れの陽光が、広大なリビングの大きな窓からたっぷりと降り注いでいる。
完璧な防音施工が施された邸宅内には、街の喧騒は一切届かない。
聞こえるのは、規則的でかすかな「すーっ、すーっ」という寝息だけだ。
特等席であるイタリア製の高級ソファの隅。
そこで、豆柴のファズが、小さな赤茶色の毛玉となって丸まっていた。
彼の下敷きになっているのは、ふかふかのクッションではなく、菊雄が数日前の合宿に出発する前に脱ぎ捨てていったヨレヨレのバンドTシャツだ。洗濯カゴからわざわざ引っ張り出してきたらしい。
ファズは、菊雄の匂いが染み付いたその布地に鼻先を深く埋め、すーすーと規則正しい寝息を立てていた。
時折、夢の中で何か美味しいものでも食べているのか、ピンク色の舌をペロッと出し、小さなあくびを漏らす。
空を掻くように動いた肉球が、ぱたりとTシャツの上に落ちた。
血と硝煙の匂いが立ち込める殺伐としたダンジョンとは無縁の、ただただ甘く柔らかい命の気配。
彼らの帰るべき温かな場所が、そこには確かに存在していた。
一方、新宿第3迷宮。
ファンたちが力ずくでこじ開けてくれた巨大なゲートを抜け、俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』の8名は、ついに第30階層の地を踏んでいた。
「……ここが、最下層」
村上環が大剣『紅姫』の柄を強く握り締め、油断なく周囲を見渡した。
その光景は、これまでのどの階層とも全く異なる異界だった。
地下空間であるはずなのに、頭上にはドーム状の「空」が広がっており、そこには禍々しい紫色の星雲のような魔力の渦がゆったりととぐろを巻いている。
地面は黒曜石のように硬く滑らかで、ブーツの底が触れるたびに、キィン、とガラスを叩いたような甲高い反響音が鳴った。
何より異様なのは、その「空気」だ。
息を吸い込むたびに、ゼリー状の冷たい液体を肺に流し込まれているような重苦しさがある。
「凄まじい魔力濃度ね。並の探索者なら、ここに数分立っているだけで『魔力酔い』を起こして毛穴から血を噴き出すレベルよ」
坂本千夏が、魔力測定器の数値を睨みながら険しい声を出した。
「真生、環境ノイズはどう? 罠の気配は?」
「……最悪です」
太田真生が、ノイズキャンセリング・ヘッドホンを両手で耳に強く押し当てながら顔をしかめた。
「空間全体が、微弱な不協和音を放っています。常に数千匹の虫が耳元で羽音を立てているみたい。……でも、店長のベースの範囲内なら、なんとかマスキングできています。即死級の罠は、今のところ周囲100メートルにはありません」
「了解。無理はするなよ」
俺はアンプラグドの状態でベースの弦を弾き、極低音のサイン波を絶え間なく鳴らし続けていた。この音が、真生の繊細な耳を守る防波堤となっている。
「よし。じゃあ早速だけど、景気のいいニュースを一つ教えるわ」
千夏がふっと表情を緩め、持っていたタブレットの画面を俺たちに向けた。
そこには、俺たちを映している公式チャンネルの配信ステータスが表示されていた。
同接数:1,023,450人。
「……は?」
「いち、じゅう、ひゃく、せん……って、ええええっ!?」
「ひゃく、まん……!?」
俺と環、そしてアーニャが思わず素っ頓狂な声を上げた。
ゼロの数を数え間違えたかと思ったが、何度見てもミリオンを突破している。
「ええ。夢じゃないわよ。先ほどのゲート前のファンたちの熱狂が、SNSで爆発的に拡散された結果ね。それに、レイド・フェスというギルド公式の看板も手伝って、日本中……いや、世界中の探索者ファンが、私たちの『ライブ』にチャンネルを合わせているわ」
千夏がプロデューサーとして、興奮を抑えきれないように唇を舐めた。
100万人。
東京ドームを何十個も満杯にできる、常軌を逸した人数の人間が、今この瞬間、俺たちの姿をリアルタイムで見つめているのだ。
コメント欄は、もはや目で追うことすら不可能な速度の滝となって流れている。
『ゲート突破キタアアア!』
『鳥肌止まんねえええええ!』
『ファンが道開けるとか激熱すぎだろ!』
『Noizeの連中どんな顔してっかなw』
『音柱、最高の音頼むぞ!』
『実那子さんの歌早く聴きてえ!』
『スパチャの嵐で画面が見えないwww』
「す、すごい……本当に100万人……」
環が少しだけ圧倒されたように、大剣の柄を握る手に力を込めた。
無理もない。これだけの視線と期待を一身に浴びるプレッシャーは、魔物の群れよりも重いかもしれない。
「で、千夏さん。敵さんの状況はどうなってるの?」
アーニャが自身のホログラムコンソールを展開し、空中に複数のウィンドウを表示させながら千夏に尋ねた。
「向こうも同接80万人を超えてるわ。どうやら私たちがファンに道を開けてもらった直後、あの熱狂したファンたちにゲート前を完全に封鎖されちゃって、慌てて別の予備ゲートから突入してきたみたいね。タイムロスはわずかだけど、正真正銘、一番乗りの称号は私たちがもらったわ!」
千夏が誇らしげにVサインを作る。
「だが、勝負はこれからだ。ターゲットの変異種ボスを先に討伐した方が、真の勝者になる」
ザーナ・ベリシャが、巨大なタワーシールドをドンッ! と黒曜石の地面に叩きつけ、気合いを入れた。
その力強い金属音が、空間に響き渡る。
「ザーナの言う通りだ。100万人が見ていようが関係ない。俺たちはいつも通り、最高のセッションをぶちかますだけだ」
俺が言うと、実那子がマイクスタンド『アレサ』を肩に担ぎ、不敵に、そして最高に色気のある笑みを浮かべた。
「……そうね。観客は100万人。ステージの広さも申し分ないわ。……行くわよ、菊雄。アタシたちのバンドの、メジャーデビュー戦よ」
「ああ。ここでスベったら、一生立ち直れないからな」
俺はサングラスの位置を直し、ミキサーのフェーダーに手をかけた。
その時だ。
「――来るわよッ!」
環が鋭い声を上げ、前方に踏み出した。
紫色の霧の奥。視界の果てから、地鳴りのような足音がこちらに向かって接近してくる。
現れたのは、巨大な影の群れだった。
四つん這いの魔獣『シャドウ・ハウンド』。
だが、中層で遭遇した通常種とは比べ物にならないほどの巨体と、全身から立ち昇るどす黒い瘴気。それが数十体、群れをなしてこちらを睨みつけている。
ただの前哨戦。だが、そのプレッシャーはこれまでの階層ボスに匹敵する重さを持っていた。
「グルルルルルルッ……!」
ハウンドたちが、一斉に牙を剥いて威嚇の唸り声を上げる。
「……最高のサウンドテストの相手じゃない。千夏、カメラ回ってんでしょ? 煽ってやりなさい!」
実那子の言葉に、千夏は「言われなくても!」とドローンを俺たちの正面へと旋回させた。
そして、カメラに向かってウインクを飛ばし、高らかに宣言する。
「画面の前の100万人の皆さーん! お待たせしました! これより『サウンド・オブ・ブレイブ』、深層最前線でのゲリラライブをスタートします! チャンネルはそのままで、ボリュームは最大でよろしく!」
配信のコメント欄が、再び爆発的な『うおおおおお!』という文字で埋め尽くされる。
俺はベースを低く構え、ペダルエフェクターのスイッチに足を乗せた。
「環、ザーナ、ナナ。前衛の壁と露払いは任せたぞ。アーニャは千夏と連携して広範囲を抑えろ。真生、罠の探知を絶やすな。実那子、お前のソウルで世界を震わせろ」
俺はメンバー全員の顔を見渡した。
恐怖に震える者は誰もいない。100万人の重圧を、純粋な闘志と興奮へと変換している。
彼女たちは皆、俺の音を待っている。
「……行くぞ!」
俺が右手を高く突き上げると、7人の美女たちが一斉に武器を構え、膨大な魔力を解放した。
赤、青、金。色とりどりのオーラが、第30階層の紫の闇を吹き飛ばす。
俺はペダルを踏み込み、ミキサーのフェーダーを最大まで叩き上げた。
『――Get ready(準備はいい)!?』
実那子の魂を震わせるソウルフルなシャウトが空間に響き渡り、それに呼応するようにアーニャの放つ凶悪な電子音が重なる。そこへ俺の極限まで歪みきったベースラインと、ナナの鉄扇が刻む打楽器のようなステップ音が絡み合う。
ドガァァァァァン……!!!
それはもはや、単調なバンドサウンドではない。
8つの個性がぶつかり合い、一つに融合して生み出された、最高に分厚いフルオーケストラだった。
レイド・フェス、開幕。
世界中が見守る中、俺たちの最強のセットリストの1曲目が、今、戦場へと放たれた。




