第44話 【Noize】の卑劣な罠
新宿第3迷宮、第29階層のセーフティゾーン。
決戦の朝を迎え、俺たちのベースキャンプにはピンと張り詰めた、しかしどこか清々しい空気が漂っていた。
「……んんっ、よく寝たわ」
簡易テントから、村上環が大きく背伸びをしながら出てきた。
昨夜の極上寿司とペアリング酒のおかげか、彼女の顔色はすこぶる良い。Sランク特有の圧倒的なオーラが、全身から立ち昇っているように見えた。
他のメンバーたちも次々と起きてきて、装備の最終チェックを始めている。
「おはようございます、ボス。よく眠れたようですね」
俺が声をかけると、環は「ええ、バッチリよ」と自信満々に頷いた。
俺はすでにカセットコンロを展開し、朝食の準備に取り掛かっていた。
「決戦の朝は、重すぎず、でも腹持ちの良いメニューだ。『クロック・マダム』を作る」
厚切りにしたブリオッシュ生地の食パンに、たっぷりのディジョンマスタードを塗り、ロースハムとグリュイエールチーズを挟む。
その上に、一昨日のラザニアで使った自家製のベシャメルソースをたっぷりと塗り広げ、さらにチーズを乗せてフライパンでこんがりと焼き上げる。
そして仕上げに、黄身が半熟の目玉焼きをドンと乗せた。
「ナイフを入れると、とろとろの卵黄がソースとチーズに絡み合って、最高の黄金ソースになる。コーヒーと一緒に流し込んでくれ」
濃厚なバターとチーズが焦げる甘い匂いが、朝の冷たい空気を満たしていく。
出来立てのクロック・マダムを頬張りながら、坂本千夏がタブレットを操作し、みんなの前に画面を向けた。
「ほら、みんな。決戦前の癒やしタイムよ」
画面に映し出されたのは、世田谷のクランハウスに設置したペットモニターの映像だった。
広大なリビングのふかふかなクッションの上で、お留守番中の豆柴『ファズ』が、まだ寝ぼけた様子で大あくびをしている。
ファズは短い後ろ足で耳の裏を掻こうとしてバランスを崩し、クッションからコテンと転げ落ちた。そして「何事もなかった」というような顔で、自分の尻尾を追いかけてクルクルと回り始めた。
「ちょっと、朝から可愛すぎてスクショ撮る手が止まらないんだけど!」
アナスタシアが自分のスマホを構え、画面越しのファズを連写し始める。
これから死地へ向かうはずのSランク美女たちの顔が、次々とデレデレに溶けていく。
どんな極限状態でも、この小さな命が安全な家で待ってくれているという事実だけで、俺たちの精神は驚くほどに安定するのだ。
「さて、腹も膨れたし、癒やしもチャージした。そろそろ行くわよ」
食後のコーヒーを飲み終え、千夏が立ち上がった。
彼女の周囲に、数台の撮影用ドローンがふわりと浮かび上がる。
「生配信、スタートするわ。みんな、最高の顔を見せてちょうだい」
千夏の合図と共に、カメラの赤いランプが点灯した。
俺たちはセーフティゾーンを抜け、第30階層へと続く巨大な『ゲート』へと向かって歩き出した。
第30階層のゲート前は、巨大なドーム状の空間になっていた。
中央には、禍々しい紫色の魔力光を放つ、高さ10メートルほどの巨大な扉がそびえ立っている。あの向こうに、今回のターゲットである変異種ボスが待ち構えているのだ。
「……一番乗り、ね」
環が大剣の柄に手をかけながら呟いた。
空間には俺たちの他に誰もいない。
「よし、このまま突入するぞ。陣形を――」
俺が指示を出そうとした、その時だった。
「待ってください、店長。……来ます」
ノイズキャンセリング・ヘッドホンを片耳だけ外した太田真生が、鋭い声で警告した。
「空間の反響音が変わりました。反対側の通路から、大規模な集団がこちらに向かっています。歩調の統制具合から見て、【Noize】の主力部隊です」
「やっぱり来たわね。……でも、私たちの方が先よ」
千夏がドローンのカメラをゲートに向ける。
だが、真生の顔にはまだ険しい色が残っていた。
「……おかしいです。彼らのさらに後方から、登録外の複数の大集団の魔力反応が続いています。物凄い速度で、彼らを追うように……」
「後続? 他のクランってこと?」
俺たちが怪訝な顔を見合わせた直後だった。
「――おっと、待ちたまえよ。主役の登場前に幕を開けるなんて、無粋だぜ?」
ドームの奥、反対側の通路から、芝居がかった声が響いた。
多数の足音。
現れたのは、派手な黒と銀のユニフォームで統一された数十人の探索者たち。
そしてその先頭には、マイクスタンド型の杖を肩に担いだレイが、不敵な笑みを浮かべて立っていた。
その隣には、以前俺のアパートに押し掛けてきたマネージャーの木崎も控えている。
「やあ、久しぶりだな菊雄。こんな薄暗い地下でお前と再会するなんて、何の因果だろうな。……相変わらず、そんな古臭いベースを抱えてるのか」
レイは俺の愛機を一瞥し、鼻で笑った。
「その節はウチのマネージャーが世話になったみたいだな。……だが、今日で終わりだ。お前たちのその『パクリ』の音楽も、偽物の人気もな。ファーストキルの栄誉と、この配信のトップは俺たち【Noize】が頂く」
「笑わせるな」
西村実那子が、レイを睨みつけながら前に出た。
「他人の曲を盗んで、機械で作った偽物の音でイキってるアンタに、音楽を語る資格なんてないわよ」
「実那子……相変わらず口が減らない女だ。お前こそ、あんなオッサンの泥舟に乗って、落ちぶれたもんだな」
レイの瞳に、歪んだ優越感が浮かぶ。
彼は指をパチンと鳴らした。
「さあ、お遊戯はここまでだ。お前ら、道を開けろ。ここは俺たち【Noize】が通る」
レイの合図と共に、彼らの背後に控えていた数十人の探索者たちが、一斉にゲートの前に横一列に広がった。
巨大な扉を完全に塞ぐ、何重もの「肉の壁」。
「……何のつもりですか、これは」
千夏がドローンを操作しながら、鋭い声で問いただす。
「いやなに、我々も大所帯でしてね。少しゲート前で『戦術の最終確認』をしたいのですよ」
木崎が、銀縁メガネを押し上げながら慇懃無礼な口調で笑った。
「もちろん、探索者同士の私闘はギルドの規約違反ですから、我々は手を出しませんよ。……ですが、この狭いゲート前です。もし貴方方が無理に通ろうとして『ぶつかって』しまったら……それは事故ですかね? こちらには50人の目撃者がいます。もしウチのメンバーが一人でも『怪我をした』とギルドに訴えれば、貴方方は規約違反で即失格処分になりますよ」
卑劣な遅延戦術だった。
手を出せば失格。手を出さなければ、彼らがボスの討伐準備を終えるまで指をくわえて待っているしかない。
その間に、レイたちの精鋭部隊だけが悠々とゲートをくぐり、ファーストキルを奪っていく算段なのだ。
「てめぇ……ふざけんな! その腐った壁ごと、この盾でミンチにしてやろうか!」
ザーナ・ベリシャが激怒し、タワーシールドを構えようとする。
「待て、ザーナ! 挑発に乗るな!」
俺は慌てて彼女を制止した。
相手はメガクランだ。顧問弁護士もついているだろうし、ここで手を上げれば、間違いなく俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』は配信停止と活動禁止に追い込まれる。
「クズね。正々堂々とダンジョンで決着をつけるって言ったくせに、結局こういう小細工しかできないわけ?」
環が大剣を握りしめ、ギリッと奥歯を鳴らす。
「勝てば官軍さ。俺たちの『洗練された音楽』がボスを倒す映像さえ撮れれば、視聴者はそれに熱狂する。お前らみたいな泥臭いバンドは、ここで一生足止めでも食ってな」
レイが嘲笑し、マイクスタンドを回して背を向けた。
彼らの一軍パーティーが、悠々と肉の壁の奥へと歩を進めようとする。
絶体絶命。
俺の音は魔物には効くが、人間相手に暴力として使うわけにはいかない。
どうする。どうやってこの盤面をひっくり返す?
俺が焦燥に駆られ、ミキサーのフェーダーに手をかけた、その時だった。
『――そこをどけ、偽物ども!!』
ドームの入り口から、地鳴りのような怒号が響き渡った。
真生が警告していた、「後続の大集団」が到着したのだ。
「な、なんだ!?」
木崎が驚いて振り返る。
通路から現れたのは、一つのクランではなかった。
所属も装備もバラバラな、だが明らかに歴戦の猛者と分かるAランク、上位Bランククラスの探索者たちの集団だった。
ベテランの重戦士、歴戦の魔術師たち。その数、ざっと百人以上。
「お前ら……どこのクランだ! ここは【Noize】が作戦行動中だぞ!」
木崎が威圧するが、彼らは一歩も引かない。
集団の先頭に立っていた、顔に傷のある大柄な戦士が、レイたちを睨みつけて唾を吐き捨てた。
「知るか。俺たちは『サウンド・オブ・ブレイブ』のファンだ。あいつらの音楽の最前線を確保しに来たんだよ」
「ファンだと……!? 馬鹿な、お前らのような連中がこの深層まで、どうやって……!」
木崎の顔が引き攣る。
大柄な戦士は、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「お前ら【Noize】が、ボスを倒して罠を全部解除して作ってくれた『安全なルート』を、有志の精鋭部隊で死に物狂いで駆け抜けてきたんだよ! あのスタンピードの時、俺たちは『音柱』と『剣姫』の奏でる爆音に命を救われた。あの魂の籠もった生音こそが、俺たち探索者を奮い立たせる本物の『神曲』だ!」
戦士の言葉に、後ろに続く探索者たちが一斉に武器を掲げて咆哮した。
アーニャの魔法に助けられたZ世代の魔術師たち、ザーナの盾に救われた重騎士たち、そして、俺のベースラインに勇気をもらった幾多の実力者たち。
「おい、そこをどきな! 手を出せば失格? 上等だ! 俺たちフリーの探索者が、お前らの壁を『事故』でこじ開けてやるよ!」
「本物の音楽を見せてくれ、音柱! 剣姫!」
怒号と共に、百人を超えるベテラン探索者たちが、Noizeの肉の壁へと押し寄せた。
武器は使わない。純粋なステータスによる体当たりと押し合い。
だが、その圧倒的な熱量と、修羅場をくぐり抜けてきた個々の力の前に、Noizeの下位メンバーたちは為す術もなく左右に押し流されていく。
「な、やめろ! 押すな! ギルドに報告するぞ!」
「あぁん? 人が多くてバランス崩しただけだろ! 通行の邪魔なんだよ!」
怒声と悲鳴が入り乱れる中。
巨大なゲートの前に、一本の真っ直ぐな道が開かれた。
「……信じられない。これ、全部私たちのファン……?」
千夏が、モニター越しではなく、目の前の光景を見て呆然と呟く。
俺も、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
これが、音楽の力だ。
俺たちが泥臭く積み上げてきたセッションは、確実に誰かの魂を震わせ、こうして彼らを突き動かしたのだ。
「……チィッ! 野蛮な猿どもが……!」
レイが顔を歪め、忌々しげに舌打ちをした。
俺はベースを背負い直し、開かれた道の中央を堂々と歩き出した。
環が、実那子が、メンバー全員が俺の背中に続く。
俺はレイの横をすれ違う瞬間、立ち止まり、サングラス越しに彼の目を見据えた。
「……お前の作ったハリボテの壁より、俺たちの奏でた『音』の方が、少しばかり遠くまで響いたみたいだな」
「菊雄……ッ!」
レイが憎悪に満ちた目で俺を睨む。
だが、俺はもう彼を一瞥することもなく、巨大なゲートへと向き直った。
「皆! 道を開けてくれて感謝する! 最高のフロントローだったぜ!」
俺が声を張り上げると、両側に立つ探索者たちから割れんばかりの歓声が上がった。
「行けーっ! ぶちかませー!」
「最高のアンコール、期待してるぞ!」
俺は背後のメンバーたちを振り返り、ニヤリと笑った。
「さあ、行こうか。俺たちを待ってる観客が、山ほどいるみたいだからな」
「ええ。私たちの最高のライブ、世界中に見せつけてやるわ」
環が大剣を肩に担ぎ、不敵に微笑む。
千夏がドローンを一斉にゲートの奥へと飛ばし、アーニャがコンソールを起動して光のパーティクルを散らした。
ギゴゴゴゴゴォォォ……ッ!
紫色の魔力光を放つ巨大な扉が、重々しい音を立てて開かれる。
そこから漏れ出すのは、これまでのどんな階層とも違う、絶望的なほど濃密な死の気配。
だが、俺たちの心に恐怖はない。
俺たちは『サウンド・オブ・ブレイブ』。
すべてのノイズをかき消す、最強のバンドなのだから。
俺たちは歓声を背に受けながら、第30階層の奥底へと、一歩を踏み出した。




