第43話 決戦前夜、菊雄の決意
新宿第3迷宮、第29階層と第30階層を繋ぐ広大なセーフティゾーン。
『サイレント・イーター』との死闘を制した俺たちは、いよいよ明日に控えた最下層への突入に備え、ここで長めの休息を取ることにした。
外部の喧騒が一切届かない地下深くの空間だが、簡易テントを張り、魔力ランタンの暖かな光を灯せば、そこは居心地の良いベースキャンプへと変わる。
「……本当にここで寝てて大丈夫なの、千夏? スピード勝負がかかってるのに」
「ええ、問題ないわ」
坂本千夏がタブレットのモニターから顔を上げ、自信ありげに頷いた。
「真生の仕掛けた監視データによれば、別ルートの【Noize】はまだ第29階層のボスのギミックに手こずっているわ。彼らがこの第30階層のゲートに辿り着くのは、早くても明日の朝ね。一番乗りを奪われる心配はないわ」
「なるほどね。流石は天才ハッカー。敵の進軍状況まで丸裸ってわけだ」
西村実那子が感心したように言う。千夏は眼鏡を押し上げ、プロデューサーとしての冷徹な顔つきになった。
「焦って疲労困憊で突っ込むより、ここでしっかり休息を取って万全の状態で迎え撃つのがプロよ。明日の朝、ゲートの前であいつらを待ち構えて、私たちの『完全なライブ』を見せつけてやるの」
「そうね。あいつらの前で無様な姿は見せられないわ」
村上環も大剣の手入れをしながら、静かに、だが確かな闘志を燃やしている。
彼女たちの勝利への執念は揺らいでいない。計算し尽くされた上での、戦略的な休息だ。
「さて。泣いても笑っても、明日が本番だ」
俺は簡易キッチンセットを展開し、まな板の上に分厚い魚のブロックをドンと乗せた。
鮮やかな赤身に、美しい白い筋が走っている。
「今夜の決戦前夜のメシは、俺の持てる技術を全て注ぎ込んだ『寿司』だ。ネタはこれ、新鮮な『鰹のはらす』」
鰹のはらす――つまり、マグロで言うところのトロにあたる腹身の部分だ。丸々と太った秋の戻り鰹の腹肉は、触れた指がテカテカに光るほどの濃厚な脂を蓄えている。
「ただ切って握るだけじゃない。皮付きのまま金串を打ち、このバーナーで皮目を一気に炙る」
ゴォォォォッ!
青白い炎が鰹の皮を焼き上げる。パチパチと脂が弾け、焦げた皮の猛烈に香ばしい匂いがセーフティゾーンに立ち込めた。
「美味そうな匂い……! たまらないわね」
千夏が喉を鳴らす。
「氷水には落とさず、そのまま粗熱だけを取る『焼切り』という技法だ。これで皮と身の間の極上の脂が溶け出し、香ばしさが身全体に回る」
俺はよく研いだ柳刃包丁で、炙りたての鰹を分厚く切りつけていく。
そして、傍らに用意しておいた木製の飯台の蓋を開けた。
立ち昇る湯気と共に、ツンとした酸味と深い旨味の香りが広がる。
「シャリは、三年熟成の赤酢と粗塩だけで切った『赤シャリ』だ。人肌の温度を保ったまま、空気を包み込むようにふわりと握る」
左手に切り身を乗せ、おろしたてのニンニクと生姜をほんの少し噛ませる。右手に取った赤シャリを合わせ、流れるような手付きで形を整えた。
黒く焦げた皮目と、ルビーのように輝く赤身。それを支える赤褐色のシャリ。
「さあ、食ってくれ」
大皿に並べられた鰹のはらすの握り。
環が、箸を使わずに指でつまんで口に放り込んだ。
「……んっ……!」
環は息を呑み、その場でうっとりと目を閉じた。
「凄い……! 口に入れた瞬間、シャリがハラリとほどけて、鰹の濃厚な脂と絡み合うわ……! 炙った皮の香ばしさとニンニクのパンチが効いてるのに、赤酢のまろやかな酸味が全部を優しく包み込んでる」
「マグロのトロよりも野性味があって、旨味の輪郭がクッキリしてるわね。最高級のディナーだわ」
実那子も、うっとりとした顔で咀嚼している。
極上の寿司。だが、これだけでは終わらない。
「今日のペアリングは、それぞれの好みに合わせて四種類の酒を用意した」
俺はクーラーボックスと酒瓶を並べたテーブルから、次々とグラスを差し出した。
まずは環と千夏。
「お二人には、きめ細かい泡を立てた『ピルスナー・ビール』だ。麦芽の甘みと微かなホップの苦味が、鰹の鉄分と絡み合って、口の中で美しい味のグラデーションを作ってくれる」
「ぷはぁっ! 本当ね……魚の脂がビールと混ざって、すごくリッチなコクに変わるわ!」
千夏がグラスを掲げて絶賛する。
続いて、斉藤ナナ。
「日本酒党のナナさんには、純米吟醸の冷酒だ。米から作られた酒と、赤酢のシャリ。お互いの米の旨味が口の中で一つの球体のようにまとまるはずだ」
「……あぁ、見事だ。酒のフルーティーな香りが、鰹の藁焼きみたいな香ばしさと完璧に同調してるぞ」
ナナは目を細め、お猪口をクイッと煽った。
そして、ザーナ・ベリシャ。
「ザーナには、ガツンとくる『芋焼酎のロック』だ。鰹の強い野性味には、これくらいドシッとしたアルコールと芋のふくよかな香りをぶつけた方が、大人の深みが出る」
「ハッハッ! 喉の奥がカッと熱くなるな! この香ばしい鰹の皮と焼酎の相性は、まさに無敵の盾と矛だ!」
最後に、20歳のZ世代コンビ、太田真生とアナスタシア。
「お前らには、少し背伸びした大人の酒だ。『アイラモルト』のトワイスアップ。ピートという泥炭で燻された、正露丸みたいな強烈なスモーキーさが特徴だ」
「……うわ、本当に独特な匂いがします。でも」
真生がグラスを傾け、ウイスキーを含んだ直後に鰹の握りを口に入れる。
「……すごいです。このウイスキーの煙たいピート香が、鰹の血合いの匂いを極上のスパイスに変えてくれました。薬品みたいだったのに、急に甘く感じます」
「ほんとだ! なにこれ、めっちゃ大人な味! 音楽のサンプリングみたいに、全然違う個性がぶつかって新しい味が生まれてる!」
アーニャも驚きの声を上げ、琥珀色の液体を楽しんでいる。
極上の寿司と、それぞれの個性に合わせた完璧な酒。
決戦を翌日に控えた強烈なプレッシャーは、このささやかな晩餐の熱気の中に溶けて消えていった。
深夜。
メンバーたちがテントの中で静かな寝息を立てる中、俺は一人、薄暗い魔力ランタンの光の下で愛機の弦を拭き上げていた。
いよいよ明日。
あの扉の向こう、第30階層で、かつての相棒、レイと相対する。
俺はベースのボディに触れながら、昔の記憶を頭の片隅に呼び起こしていた。
昔のレイは、とにかく「完璧」を求める男だった。
少しでもリズムが揺れることを嫌い、ライブでもクリック音を耳に流しながら、機械のように正確な演奏を全員に強要した。
俺の荒削りで、感情のままに走るベースラインは、彼にとって常に「排除すべきノイズ」だった。
結局、俺たちは音楽性の違いという名の決定的な亀裂を抱え、あいつが俺の曲を奪ってメジャーへ行ったことで、バンドは崩壊した。
だが、不思議と今の俺の胸に、あいつに対する「憎しみ」や「未練」はない。
あるのはただ、純粋な音楽家としての『答え合わせ』の欲求だけだ。
あいつはダンジョン配信という新しい舞台でも、デジタル合成と後付けのエフェクトで、一切の隙のない「完璧な偽物のショー」を作り上げた。
だが、俺の今の最高のメンバーたちはどうだ。
リズム感ゼロで感情のままに剣を振り回すポンコツ剣姫。
トラウマを抱えた重騎士。
気分屋の仙女。
金にがめつくて演出過剰なプロデューサー。
協調性のないZ世代のDJと、引きこもりのハッカー。
そして、かつてレイに見切りをつけられた言霊歌手。
バラバラで、不格好で、ノイズだらけの女たち。
だが、彼女たちのその「揺らぎ」を、俺のベースラインが下から力ずくで支え、まとめ上げた時。
そこには、どんな完璧な電子制御にも生み出せない、圧倒的で暴力的な熱量を持つ『生のグルーヴ』が生まれる。
「……なぁ、レイ」
俺は、誰もいないセーフティゾーンの空間に向かって、静かに呟いた。
「お前が求めた『ノイズのない音楽』は、確かに綺麗だ。でもな、俺は知っちまったんだよ。不器用な連中が、魂を削ってぶつかり合う時に鳴らす『不協和音』が、どれだけ人の心を震わせるかってことを」
俺はベースをケースにしまい、立ち上がった。
テントの方を振り返る。
そこには、世界で一番イカれた、俺の最高のメンバーたちが静かな寝息を立てている。
もう、過去の幻影に囚われることはない。
俺は『サウンド・オブ・ブレイブ』のリーダーであり、彼女たちのためのBGM係だ。
「明日、あいつらに極上のアンコールってやつを教えてやるよ。お前が捨てたベースラインが、今、どんな化け物みたいな音を出しているかをな」
俺は静かに笑い、ランタンの火を落とした。
いよいよ、大舞台の幕が上がる。
新宿第3迷宮・最下層。そこは俺たちの「生音」が、世界を騙す「合成音」を完全に凌駕するための、最高のステージだった。




