第42話 無音の指揮
その頃、地上は激しい嵐に見舞われていた。
新宿第3迷宮から溢れ出した異常な魔力濃度が、東京上空の大気と乱反射を引き起こし、季節外れの猛烈な雷雨をもたらしていたのだ。
世田谷の高級住宅街に建つ、8億円のクランハウス。
主たちが全員出払った広大なリビングで、豆柴のファズは、お気に入りのフカフカのクッションの上で、無防備にヘソを天に向けて爆睡していた。
夢の中で、菊雄特製の茹でた鶏胸肉でも食べているのだろう。短い後ろ足をピクピクと動かし、時折「くふっ」と幸せそうな寝息を漏らしている。
その時だった。
ズドガァァァァァンッッ!!!
窓ガラスが割れんばかりの、凄まじい落雷の音が邸宅を揺るがした。
「ヒヤンッ!?」
ファズは奇っ怪な悲鳴を上げ、バネ仕掛けのおもちゃのように、四肢をピンと伸ばしたまま空中に跳び上がった。
そのまま空中で一回転し、フローリングの床に着地――しようとして見事にツルッと滑り、前足から盛大に転んだ。
パニックに陥った小さな毛玉は、シャカシャカと爪を鳴らしてフローリングを空回りしながらダッシュし、革張りの巨大なソファの下へと間一髪で潜り込んだ。
「くぅ〜ん……くぅぅぅ……」
頭だけをソファの下の暗がりに隠し、外に丸出しになった赤茶色のお尻と短い尻尾を、ブルブルと小刻みに震わせている。
雷という未知の恐怖におののき、「見えない敵」から身を隠しているつもりなのだ。
誰もいない静かなリビングで、一匹だけでパニックになっているその姿は、緊迫した死線とは無縁の、平和で、そして破壊的なまでの愛くるしさに満ち溢れていた。
一方、雷鳴すら届かない新宿第3迷宮・第29階層の大広間。
そこは、完璧な、そして絶望的な「無音」に支配されていた。
巨大なスライムと蝙蝠を掛け合わせたような異形のボス、『サイレント・イーター』。
俺たちの【音響共鳴】によるバフの魔力音波や、アーニャのサンプリング魔法、そして実那子の歌声を文字通り「捕食」し、自らの鋼鉄の筋肉へと変換した化け物。
音を出せば、喰われる。
魔法を唱えれば、相手を強化するだけ。
「……っ、はぁ、はぁ……!」
壁際に叩きつけられた村上環が、折れた肋骨を押さえながら荒い息を吐くが、その息遣いすらも、空気に溶ける前にボスの巨大な耳へと吸い込まれていく。
隣では、ザーナ・ベリシャが大盾を杖代わりにして、ギリギリで片膝をついて耐えていた。
「(どうする……!)」
坂本千夏が音を立てずに二丁魔銃を構え直すが、その銃声すらも相手の餌になるため、引き金を引くことができない。
俺はミキサーの電源を落とし、冷や汗にまみれた手でベースのネックを強く握りしめていた。
絶体絶命。
打つ手がない。俺のBGMがなければ、今の彼女たちは極限まで強化されたこのボスにスピードでも力でも勝てない。だが、音を鳴らせば相手はさらに強大になる。
「ギチギチギチ……!」
サイレント・イーターが、パラボラアンテナのような耳をピクピクと動かしながら、次の獲物を物色するように這い寄ってくる。
音のない世界。
俺の心臓の鼓動だけが、耳の奥で嫌に大きく響いていた。
――ドクン。
ドクン。ドクン。
その時だ。
俺の脳裏に、かつて音楽の師匠的存在だった老ベーシストの言葉がフラッシュバックした。
『いいか、菊雄。音楽ってのはな、音を鳴らすことだけじゃない。休符も音楽の一部なんだ。……ファンクでもブルースでも、一番客の心を揺さぶるのは、音が鳴っている瞬間じゃない。「音と音の間の、無音の瞬間」なんだよ』
そうだ。
音楽とは、音と静寂の連続だ。
音が通じないなら、「静寂」を指揮すればいい。
俺はゆっくりと立ち上がった。
音を立てないように、しかし、確かな意志を持って。
俺の動きに気づいた環や千夏、真生たちが、絶望に染まった目でこちらを見た。
「(……俺を見ろ)」
俺は声を出さず、口の動きと鋭い視線だけでメンバー全員に合図を送った。
環と目が合う。
実那子と目が合う。
アーニャ、真生、ナナ、ザーナ、千夏。
彼女たちは、俺の作る飯を食い、俺の作るビートの中で命を預けて踊ってきた仲間たちだ。
俺の足音がどのようなテンポを刻むか。俺が料理をする時の包丁のリズムがどれほど正確か。俺のベースラインが、どこでタメを作り、どこで爆発するか。
彼女たちの体は、すでに俺のグルーヴを完璧に記憶している。
俺はアンプに繋がっていないベースギターを、高く掲げた。
そして、大きく息を吸い込み、弦に右手の親指を叩きつけた。
バチィッ!
アンプからは音が出ない。弦がフレットに当たる、微かな物理音だけが響く。
サイレント・イーターがその微かな音に反応し、巨大な耳をこちらに向けたが、魔力が乗っていないただの物理音では、大したエネルギーに変換されない。
だが、俺のメンバーたちには、その「音のないビート」が、爆音のドラムロールよりも鮮明に聞こえていた。
タン、タ、タン。
俺は体を揺らし、首でリズムを刻みながら、ベースの弦を叩き、弾き、激しくフレットの上を滑らせた。
無音のファンク。
静寂のダンスビート。
その瞬間、俺の中に眠っていたスキルのコアが、熱く脈打つのが分かった。
音波を介さずとも、視覚と、これまで培ってきた絆という「共感」のパスを通じて、俺の脳内に流れる音楽が、直接彼女たちの心臓へと流れ込んでいく。
――スキルの進化。
固有スキル【音響共鳴】の派生、【無音の指揮】。
「……!」
環の瞳に、驚愕と歓喜の色が同時に弾けた。
彼女の体に、バフの証である淡い赤いオーラが立ち昇る。音を出していないのに、俺のリズムが彼女の神経系を直接ブーストしているのだ。
「(……聞こえる。近藤さんの音が、頭の中で)」
環が音を立てずに立ち上がる。
その顔から痛みの色が消え、極限の集中力が宿った。
俺は目で合図を送る。
『1、2、3、4』。
4拍子の裏拍。休符のタイミング。
ドンッ!
俺が足で床を無音で強く踏み込んだ瞬間。
環が、音速を超えた。
彼女は一切の踏み込み音も、気合いの叫び声も上げず、ただの赤い閃光となってサイレント・イーターの懐に潜り込んだ。
ボスの巨体が反応しようと触手を振り上げる。
だが、その触手の軌道上に、すでに巨大な壁が割り込んでいた。
ザーナだ。
彼女もまた、咆哮を上げずにタワーシールドを構え、ボスの打撃を「無音の受け流し」で逸らした。
彼女の頭の中にも、俺の鳴らす重厚なベースラインが響いている。
ボスが混乱し、巨大な耳をピクピクと動かす。
餌となる「音」が全く鳴っていないのに、目の前の獲物たちの戦闘力が異常に跳ね上がっているという矛盾に、魔物の処理能力が追いついていない。
「(今よ!)」
千夏のリップシンク。
ナナが鉄扇を開き、床を擦る音すら立てずに、流麗なステップを踏む。
【浄化の舞】が無音で発動し、環たちの傷を癒やしていく。
さらに、アーニャがホログラムコンソールを無音で展開した。
音を出せない彼女に魔法攻撃は撃てない。だが彼女は歯痒さに唇を噛みながらも、ホログラムの光の明滅だけで、俺のビートに合わせた視覚的なカウントダウンを空間に投影し、前衛のタイミングをサポートする。
俺はベースの弦を激しく掻き鳴らす。
サビへのビルドアップ。
俺の体が、頭が、指先が、強烈なクレッシェンドを表現する。
実那子がマイクスタンドを強く握りしめ、声には出さず、口の動きだけで魂のシャウトを前衛に送る。歌声という魔力が封じられても、その熱い眼差しとパッションが、環たちの背中を力強く押していた。
――そして、曲はブレイクへ。
俺はベースの弦を右手で完全にミュートし、ピタリと動きを止めた。
空間が、真の静寂に包まれる。
環が大剣『紅姫』を上段に構えた。
俺の頭の中で、ブレイクの1小節が過ぎる。
『1、2、3、4』。
次の瞬間が、爆発のサビ。
俺は全身の力を込めて、右手を天に突き上げた。
それと完全に同時。
――――ッ!!!
環の大剣が、一切の風切り音すら置き去りにして、振り下ろされた。
真空の刃。
極限まで研ぎ澄まされた、純粋な物理的破壊力。
サイレント・イーターの鋼鉄のように硬質化した筋肉の鎧が、豆腐のように滑らかに両断される。
ボスの体が、右から左へと斜めにズレた。
遅れて、真っ黒な体液が噴水のように舞い上がる。
「ギ、チィィィィィ……ッ!?」
音を喰らう魔物は、自分を殺した一撃の「音」すら認識できないまま、断末魔の悲鳴を途切れさせ、ドロドロと崩れ落ちて黒い灰へと変わっていった。
完全なる沈黙。
俺はゆっくりと右手を下ろし、ベースを背負い直した。
「……ふぅ。終わったか」
俺が普通に声を出した瞬間、大広間を支配していた死の静寂が、パリンと音を立てて割れた。
「「「はぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」」」
環、千夏、ザーナ、ナナ、実那子、アーニャ、真生。
全員が、肺の底に溜まっていた空気を一気に吐き出し、その場にへたり込んだ。
「死ぬ……死ぬかと思った……っ!」
「息止めてたから酸欠で倒れるところだったわよ!」
「なんなのよ今の! 音なしでどうやってあんなにタイミング合わせられたの!?」
千夏と実那子がぜぇぜぇと肩で息をしながら叫ぶ。
「不思議だぜ。お前が一歩踏み込んだ瞬間、次にどんなリズムが来るか、手に取るように分かった。……まるで、お前の脳内と直接繋がってるみたいだった」
ザーナが冷や汗を拭いながら、信じられないというように俺を見た。
環は膝をついたまま、俺を見上げてフッと笑った。
「近藤さんの『音』が、私たちの中に完全に染み込んでたからよ。……やっぱり貴方、最高の指揮者ね」
「買い被りすぎですよ。ただ、お前らとの付き合いが長くなってきたから、無意識に呼吸が合っただけです」
俺は苦笑しながら、ポケットからタオルを取り出して環に投げ渡した。
「それにしても、音を出さずに戦うなんて、もう二度とごめんです。私の【絶対調律】も役に立ちませんでしたし」
「アーニャも! 音出せないから、ただピカピカ光ってるだけなんてサイアク! あのスライム蝙蝠、万死に値するよ!」
真生とアーニャが文句を言いながら立ち上がる。
だが、その表情は明るかった。
俺たちの最大の武器を封じられても、俺たちは「絆」という見えないグルーヴだけで、深層の主を圧倒してみせたのだ。
「……さて」
俺はミキサーの電源を入れ直し、スピーカーのランプが点灯したのを確認した。
「これでもう、音を我慢する必要はない。準備はいいか、お前ら」
俺の言葉に、全員の顔つきが変わった。
この大広間の奥にある重厚な扉。
そこが、新宿第3迷宮の第30階層。レイド・フェスの本当のターゲットである『変異種ボス』が潜む最下層だ。
そしておそらく、そこには因縁のメガクラン【Noize】が待ち構えている。
「当然よ。ウォーミングアップは十分すぎるくらい終わったわ」
環が大剣を肩に担ぎ、不敵な笑みを浮かべる。
「偽物の音楽でイキってる連中のライブを、ぶっ壊しに行きましょう」
「ああ。俺たちの爆音で、あいつらのステージを乗っ取ってやる」
俺はベースの弦を、今度こそ力強く弾き鳴らした。
ジャァァァンッ!!
心地よいオーバードライブの音が、第29階層に響き渡る。
最強のメンバーによる、最強のアンサンブル。
レイド・フェスのクライマックスへ向けた、怒涛のフィナーレが、今、幕を開けようとしていた。




