第41話 深層の主、音を喰らう魔物
数万人の観衆の熱狂を背に、新宿第3迷宮の特設ゲートをくぐってから数時間が経過していた。
ギルド公式の特大イベント『レイド・フェス』。
ターゲットである第30階層の『変異種ボス』のファーストキルを競い、日本中のトップクランがこの巨大な地下迷宮へと雪崩れ込んでいる。もちろん、因縁のメガクラン【Noize】もだ。
勝負は数日間に及ぶ長期戦が予想されていたが、俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』の進撃速度は、ギルドの観測班が悲鳴を上げるほどに常軌を逸していた。
「――そこ! 次の曲がり角、落とし穴と酸のトラップが連動してます。黙らせますね」
パチン、と太田真生が指を鳴らす。
ただそれだけで、壁の奥から『ガコンッ』と何かが砕ける音が響き、凶悪な罠が完全に沈黙する。
さらに、角から湧き出してきた『マッド・リザード』の大群に対し、アナスタシアがホログラムコンソールを操作して氷の嵐を叩き込む。
「Drop it! 雑魚はすっこんでなよ!」
凍りついたリザードの群れを、ザーナの巨大なタワーシールドがロードローラーのように粉砕しながら進む。
俺が鳴らすアップテンポなロックビートと、西村実那子のソウルフルなコーラスが、メンバー全員に無尽蔵のスタミナと火力を供給し続けているのだ。
まさに、誰にも止められない無敵のツアー行進だった。
「よし、このエリアを抜けたら休憩にするぞ」
俺の合図で、一行は第29階層の安全地帯へと足を踏み入れた。
いよいよ次が、ターゲットである変異種ボスが潜む最下層だ。
ここで体力を完全に回復させ、英気を養う必要がある。
「……はぁ。外の喧騒が嘘みたいに静かです」
真生がヘッドホンを外し、壁にもたれかかる。
「そういえば、ウチのお留守番はちゃんとやってるかしら」
坂本千夏がタブレットを取り出し、クランハウスに設置したペットモニターのアプリを立ち上げた。
「あ、起きてる起きてる」
千夏の言葉に、女性陣がワラワラとタブレットの周りに群がる。
画面の中では、豆柴のファズが、俺に似た茶色い猿のぬいぐるみを相手に一人でプロレスごっこを繰り広げていた。
短い前足でぬいぐるみに飛びかかり、ガブッと噛み付いたままゴロンと仰向けに転がる。そして、そのまま遊び疲れたのか、お腹を丸出しにしてスヤスヤと寝息を立て始めた。ピンク色の肉球が画面越しでもよく見える。
「……っっ! 反則級の可愛さね……!」
実那子が胸を押さえて悶絶した。
先頭を走って気を張っていた村上環も、画面を食い入るように見つめ、顔をだらしなく緩めている。
「ほんと、癒やされるわ……。帰ったらたくさん撫でてあげなきゃ」
「さて、極上の癒やしをもらったところで、陣中食にするぞ」
俺はクーラーボックスを開け、保冷剤の間からそれを取り出した。
真っ白な食パンの間に、色鮮やかな宝石が埋め込まれたような断面。
「『極上フルーツサンド』だ。ただの生クリームじゃないぞ。マスカルポーネチーズと生クリームを7対3の黄金比でブレンドし、少量の練乳でコクを出している」
俺が皿に並べたフルーツサンドには、エメラルドのように輝くシャインマスカットと、完熟して果汁が滴るような赤肉メロンがぎっしりと挟まれている。
クリームは固めに立ててあり、フルーツの水分をしっかりと受け止めている。
「うわぁ……! ケーキみたい!」
「疲れた体にこの甘さは反則だぜ……!」
環やザーナが目を輝かせてサンドイッチを手に取った。
「飲み物はこれだ」
俺はガラスのピッチャーから、琥珀色の液体をグラスに注いだ。
シュワシュワと心地よい炭酸の音が弾ける。
「『アールグレイのティー・ソーダ』だ。高級なアールグレイの茶葉を一晩水出しして渋みを抑え、そこに強炭酸水を注いだ。シロップ漬けにした自家製のレモンピールを底に沈めてあるから、ストローで混ぜながら飲んでくれ」
実那子がサンドイッチを大きく頬張り、ティーソーダを一口飲む。
「……んんっ!! 最高!」
彼女が感嘆の声を上げた。
「マスカルポーネのクリームが凄く濃厚なのに、全然くどくない! シャインマスカットの弾けるような甘さと果汁が口の中で溢れて……そこへ、このティーソーダね!」
「アールグレイの渋みと炭酸が、クリームの甘さを上品に引き締め、マスカットの香りの余韻を何倍にも広げてくれるわ。すごく計算されたペアリングね、近藤さん」
千夏も眼鏡の奥で目を細め、至福の表情を浮かべている。
アーニャは「ヤバい、これ無限に食べられる……」と黙々とサンドイッチを口に運び、真生は「糖分……脳細胞が蘇ります……」と恍惚とした顔でレモンピールを噛み締めていた。
「腹は膨れたな。……千夏さん、現在地の確認を」
「ええ。ここから先は『大広間』ね。第29階層を統べる、正規のボス部屋よ。ここを抜ければ、いよいよ第30階層よ」
千夏がタブレットのマップを指差す。
「どうやら【Noize】の連中は別ルートを進んでいるみたいね。私たちが一番乗りよ。……で、どうする? このまま一気に突破する?」
千夏が問うと、環が口元のクリームを拭い、ニヤリと好戦的に笑った。
「当然よ。本番の前に、ちょうどいいウォーミングアップになるわ」
「そうだな! 私の盾も、そろそろデカい獲物を叩き潰したがっている!」
ザーナも両拳をぶつけ合わせ、やる気を見せる。
疲労の気配はない。俺の食事とティーソーダが、彼女たちの体力を完全にリセットさせていた。
「よし。じゃあ、サクッと片付けて、本命の首を取りに行こうか」
俺は立ち上がり、ベースを背負い直した。
いざ、第29階層の主が待つ広間へ。
俺たちは誰も、これから待ち受ける『絶望』に気づいていなかった。
重厚な石の扉を押し開けた先。
そこは、音すらも吸い込まれてしまうような、異常なほど静寂に包まれた広大な空洞だった。
壁は一面、ぬらぬらとした漆黒の粘菌のようなもので覆われている。
「……気持ち悪い部屋ね」
実那子が顔をしかめる。
その部屋の中央に、それは鎮座していた。
『サイレント・イーター』。
それは、巨大なスライムと蝙蝠を掛け合わせたような、名状しがたい異形の魔物だった。
ぶよぶよとした半透明の漆黒の肉体。そして、頭部に当たる部分には、不釣り合いなほど巨大な二つの「耳」がパラボラアンテナのように開いている。目も鼻もない。ただ、音を拾うための巨大な器官だけが存在していた。
「キチィィィィィ……」
耳障りな、ガラスを引っ掻くような低い威嚇音が響く。
「見た目はグロいけど、ただのデカブツね! 一気に片付けるわよ!」
千夏が二丁魔銃を構える。
環が大剣を抜き、実那子がマイクスタンドを握りしめた。
アーニャもホログラムコンソールを展開し、斉藤ナナが優雅に鉄扇を開く。
「近藤さん、ビート頂戴! 派手なやつで!」
「了解。速攻で決めるぞ!」
俺はミキサーのフェーダーを押し上げ、足元のディストーション・ペダルを踏み込んだ。
選んだのは、重厚なドラムと歪みきったベースが空間を支配する、ハードロックの王道ナンバー。
ズガガガァァァンッ!!
爆音が空洞に叩きつけられる。
固有スキル【音響共鳴】発動。
俺の奏でる強烈なビートが魔力波形に変換され、環たちの身体能力を跳ね上げようとした、その瞬間だった。
「まずは私のドロップで凍らせるっ!」
アーニャがサンプリングした魔力を叩き込もうとコンソールを操作し、ナナが【精霊舞踏】のステップを踏み出そうとする。
「――Listen to my……えっ?」
実那子がシャウトを放とうと息を吸い込んだ時。
俺のスピーカーから放たれていた爆音が、突然、まるでテレビの電源を抜かれたかのように『ブツッ』と途切れた。
それだけではない。アーニャのコンソールが発する電子音も、ナナのステップが床を鳴らす反響音すらも、一切が消え去ったのだ。
「……!?」
音が、鳴っていない。
いや、俺は確かに弦を激しく弾いているし、ミキサーのレベルメーターも真っ赤に振り切れている。アーニャも懸命にパッドを叩いているが、氷結魔法のトリガーとなる音が発動しない。
空間に音が響かない。
真空空間に放り出されたかのような、完璧で無慈悲な無音状態。
「な、何が起きてるの!?」
環が声を上げるが、その声すらも、口から出た瞬間に「吸い込まれる」ようにかき消された。
視線の先。
巨大なスライム蝙蝠――サイレント・イーターが、パラボラアンテナのような耳を震わせていた。
その耳に向かって、空間の『音』が、文字通り物理的に吸い込まれているのが見えた。
「……最悪です。あの魔物、『音』を捕食しています」
真生が、戦慄を隠せない顔で呟いた。
サイレント・イーターの半透明な肉体の中で、俺が放った爆音の魔力波形、アーニャの電子音、実那子の歌おうとした魔力が、どす黒いエネルギーの塊となって脈打っている。
音が吸収されるたびに、スライムのぶよぶよとした体が硬質化し、一回り、二回りと巨大に膨張していく。
傷一つなかったその体に、まるで鋼鉄のような筋肉の鎧が形成されていくのが見えた。
「嘘でしょ……ウチらのバフの音や魔法を吸収して、自分のステータスに変換してるってこと!?」
千夏が血の気を引いた顔で後ずさる。
俺の固有スキル【音響共鳴】は、音波に魔力を乗せて味方を強化する力だ。アーニャのサンプリング魔法も音の波形を利用している。
だが、この魔物はその「魔力が乗った音波」そのものを捕食し、自らの糧とする、完全に俺たちを殺すためのメタ能力を持っていたのだ。
「ギチィィィィィィッ!!!」
俺たちの音楽を喰らい、極限まで強化されたサイレント・イーターが、悍ましい咆哮を上げた。
その咆哮は、先ほど俺が放ったハードロックのベース音と全く同じ周波数を持った、破壊的な超音波の衝撃波となって俺たちを襲った。
「しまっ……! ザーナ、盾を!」
「くぉぉぉぉぉぉっ!!」
ザーナが咄嗟にタワーシールドを構えるが、俺たちのバフを吸収して強化された衝撃波の威力は、彼女の『反響防御』の許容量をあっさりと超えた。
ガガァァァァァァンッ!!
「ぐあぁっ!?」
ザーナの巨体が宙に浮き、後方の壁に激しく叩きつけられる。
「ザーナ!!」
環が叫び、大剣を振りかぶって突進する。
だが、俺のBGMによる【音響共鳴】のバフを失った環の動きは、先ほどまでの神速のステップとは程遠かった。
リズムが、ない。
本来の「不器用な剣姫」の、単調な四拍子の動き。
サイレント・イーターは、硬質化した触手をムチのように振るい、環の大剣をいとも容易く弾き飛ばした。
「ああっ……!」
体勢を崩した環の腹部に、丸太のような触手の一撃が直撃する。
環の体がくの字に折れ曲がり、石の床を無惨に転がった。
「環さん!!」
「クソッ、音を鳴らすな! 全て吸収されるぞ!」
俺は慌ててミキサーの電源を切り、スピーカーの出力を完全に停止した。
だが、遅かった。
音響兵器である俺のベースも、実那子の歌も、アーニャのサンプリングも、全てが相手の餌になる。
音が出せない。つまり、俺たちの最大の武器である「連携とバフ」が完全に封じられたのだ。
「ギチギチギチ……」
無音となった広間で、筋肉の鎧を纏ったサイレント・イーターが、倒れた環とザーナを見下ろして不気味に蠢いている。
「……なんてこった」
俺はベースを握りしめたまま、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
練習がてらの腕試し。そんな慢心が招いた、最悪の事態。
最大の武器を奪われた俺たちは、この暗く静寂な絶望の底で、かつてない死の恐怖と対峙することになってしまったのだった。




