第37話 環と菊雄、雨上がりの夜空に
奥多摩の保養所での強化合宿、二日目の昼下がり。
午前中の激しい連携訓練を終えた『サウンド・オブ・ブレイブ』のメンバーたちは、思い思いの休息時間を過ごしていた。
真生は当然のように地下防音室のベッドへ潜り込み、ナナとザーナは縁側で将棋崩しのような謎のゲームに興じている。
俺がキッチンの在庫を確認していると、背後からスパイシーな香水の香りが漂ってきた。
「オジサマ、お疲れ様。今ちょっといいかしら?」
振り返ると、坂本千夏が車のキーを指先で回しながら立っていた。
動きやすいジャージ姿から、黒のタイトなタートルネックにレザーのタイトスカートという、洗練された大人の私服に着替えている。
「ええ。何か足りない機材でもありましたか?」
「機材じゃなくて、食材よ。明日の朝食用のパンと、夜の宴会用のお酒が心許ないの。……というわけで、買い出しに行くわよ。荷物持ちとして付き合いなさい」
千夏は有無を言わさぬ笑顔で、俺の腕を引いた。
保養所の駐車場には、一行が乗ってきた大型の魔導バンの隣に、千夏が私物として別途走らせていた真っ赤なSUVが停まっていた。「現地での機動力を確保するため」と彼女がわざわざ自分で運転してきた車両だ。
そのSUVは、緑豊かな山道を滑らかに下っていく。
車内には、静かなボサノバが流れていた。
「……で、買い出しというのは建前ですか?」
助手席でシートベルトを締めながら尋ねると、千夏はハンドルを握ったまま、ふふっと笑った。
「バレてた? ま、二人きりのドライブ・デートってことでいいじゃない。たまには私にも、プロデューサーとしての労いを頂戴よ」
「そいつは光栄です。でも、何か深刻な話がある顔に見えますよ」
俺の言葉に、千夏の目つきが少しだけ真面目なものに変わった。
彼女は前方を真っ直ぐに見据えながら、静かに口を開いた。
「……環のことよ」
「ボスが何か?」
「あのポンコツ剣姫、またスランプに片足を突っ込んでるわ。今日の午前中の訓練、気づかなかった?」
言われてみれば、思い当たる節はある。
敵のダミー人形に対する環の踏み込みが、いつもよりコンマ数秒遅れていた。迷いがある時の、重い動きだ。
「……レイド・フェスのプレッシャーですか」
俺が推測を口にすると、千夏は小さく溜息をついた。
「ええ。あの子、実那子さんとのセッションを経て、自分のリズムが『生』すぎることに怯え始めたみたいなのよ。昨日のニュースで見たでしょ? レイたちの【Noize】が披露した、一分の隙もない完璧なデジタル・同期。あのアンドロイドみたいな精密さと自分を比べて、自分の荒削りな動きが『未熟』なんじゃないかって思い詰めてるわ」
「馬鹿な。あの計算され尽くした合成音とは、魂の入り方が違う。比べるもんじゃありませんよ」
「私たち大人はそう割り切れても、あの子はまだ25歳の不器用な女の子なのよ。しかも、Sランクっていう重すぎる看板を背負ってる。自分のミスで『本物の音』の証明に泥を塗ることを、何よりも恐れてるわ」
千夏は信号待ちで車を停め、俺の方を向いた。
「来週の直接対決。環の心をチューニングできるのは、プロデューサーの私でも、歌い手の実那子さんでもない。貴方の『音』だけよ」
千夏の手が、コンソールボックスに置かれた俺の手に重なった。
華奢だが、Aランク探索者としての硬いタコがある手。
「……頼んだわよ、リーダー。うちの絶対的エースを、ちゃんと導いてあげて」
「……了解です。必ず、本番までに仕上げてみせます」
俺が頷くと、千夏は満足げに微笑み、俺の手をパッと離した。
「よし、仕事の話は終わり! あとは純粋なデートを楽しむわよ! 本当は私がオジサマを独り占めしたいんだからね?」
「からかわないでくださいよ」
俺は苦笑しながら、窓の外の景色に目を向けた。
空には、来たる決戦を暗示するように、重く湿った雨雲が垂れ込めていた。
夜。
予報通り、奥多摩の山中には冷たい雨が降り注いでいた。
木々を打つ激しい雨音が、保養所全体を重く包み込んでいる。
俺はキッチンでお湯を沸かし、小さなトレイを持って中庭に面した訓練場へと足を運んだ。
屋根付きの訓練エリアには、予想通り、たった一人の人影があった。
「――っ、はぁっ!」
村上環が、木刀を振るっていた。
雨の湿気と汗で、黒髪が頬に張り付いている。
何度も、何度も同じ軌道で素振りを繰り返しているが、その太刀筋はひどく強張っていた。
「1、2、3、4……ダメ、まだ『ズレ』がある。これじゃ、レイのテンポには対抗できない……!」
環はギリッと唇を噛み締め、苛立たしげに木刀を床に叩きつけた。
カラン、と乾いた音が訓練場に虚しく響く。
彼女は膝をつき、顔を覆った。
「……何やってるのよ、私」
震える声が、雨音に溶けていく。
俺は足音を立てて、彼女の元へ歩み寄った。
「夜更かしは美容の敵ですよ、ボス」
「……近藤さん」
環が顔を上げる。その猫目は、微かに潤んでいるように見えた。
「休憩にしましょう。雨で冷えたでしょうから、温かいものを作ってきましたよ」
俺は訓練場のベンチにトレイを置き、カセットコンロを展開した。
小さな鍋でお湯を沸かし、持参した材料を合わせていく。
「こんな夜には『ホット・バタード・ラム』が一番です」
「……お酒?」
「ええ。アンタはもう立派な大人ですからね。たまにはこういうのもいいでしょう」
俺はマグカップに、ダークラムを注いだ。
そこに黒糖を溶かし入れ、沸騰したお湯を注ぐ。
最後に、無塩バターの一片と、シナモンスティック、クローブを浮かべる。
バターが熱でゆっくりと溶け出し、ラム酒の芳醇な香りとスパイスの刺激が、夜の冷たい空気を一瞬で甘く暖かなものに変えた。
「それと、甘いお茶請けも必要ですね。買い出しで手に入れた紅玉リンゴを使った『ベイクドアップル』です」
芯をくり抜いたリンゴに、バターと砂糖、レーズンを詰めてオーブンで焼き上げたものだ。
トロトロになった果肉から、甘酸っぱい果汁が溢れ出している。
「どうぞ。冷めないうちに」
俺がマグカップを手渡すと、環はおずおずとそれを受け取り、両手で包み込むようにして口元へ運んだ。
「……あ、すごく温かい」
ふう、と息を吐き、ホット・バタード・ラムを一口飲む。
「……んっ。ラム酒の香りが強くて、でもバターのコクがすごくまろやか。黒糖の甘さが、冷えたお腹の底からじんわりと熱を広げてくれるみたい」
「焼きリンゴもどうぞ。シナモンの香りがラム酒とリンクして、無限に食べられますよ」
「……いただきます」
環はフォークで柔らかいリンゴを崩し、口に運んだ。
アルコールとスパイス、そして温かい甘味が、彼女の極度に張り詰めていた神経を少しずつ解きほぐしていくのが分かった。
ベンチに並んで座り、雨音を聞きながら、俺たちはしばらく無言でマグカップを傾けた。
「……私、自分のことが怖いの」
やがて、環がぽつりと口を開いた。
「実那子さんとのセッションで、自分のリズムがどれだけ不安定で、貴方のフォローに甘えきっているか痛感したわ。レイたちの動画を見たら……あいつらの音は、一切の無駄がない、完璧なデジタル回路そのものだった。それに比べて私の剣は、感情で走ったり、恐怖で遅れたり……そんな『揺らぎ』だらけの音で、あの大舞台で勝てるのか、不安でたまらなくなるの」
Sランク探索者、剣姫。
最強の称号を背負いながら、彼女は自分の「人間臭いリズム」を欠陥品のように感じていたのだ。
「……バカですね、アンタは」
俺はわざと、呆れたような声で言った。
環がビクッとしてこちらを見る。
「【Noize】の音が完璧な回路なら、アンタの音は『生』の楽器ですよ。回路は壊れたら終わりですが、楽器は奏者の魂次第で、どこまでも化ける」
俺は環の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「デジタルには絶対に出せない『タメ』や『揺らぎ』……それこそが、観る者の心を震わせるグルーヴになるんです。アンタの無軌道で無茶苦茶な剣閃を、俺は一秒たりとも『ノイズ』だなんて思ったことはない。それは俺にとって、最高にスリリングなジャム・セッションなんだ」
「近藤さん……」
「アンタは何も変えなくていい。レイの機械的なリズムに合わせる必要なんてないんです。アンタのままの、我が儘なメロディを奏でてください。ズレたら俺がベースラインで力ずくで引き戻してやる。それが、リズム隊の役目だろ?」
俺はマグカップを置き、彼女の頭にポンと手を乗せた。
「自分を疑う暇があるなら、俺の音を信じなさい。アンタは、このバンドの不動のフロントマンなんだから」
その言葉を聞いた瞬間。
環の大きな瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は慌ててスウェットの袖で目元を拭い、小さく「……バカ」と呟いた。
「ずるいわ。そんなこと言われたら、もう貴方なしじゃ戦えなくなるじゃない」
「ハハッ、望むところですよ。専属契約ですからね」
環はマグカップをベンチに置くと、不意に俺の方へ身を寄せ、その頭を俺の肩にコツンと預けてきた。
シャンプーの甘い香りと、ラム酒の微かなアルコールの匂い。
彼女の温かい体温が、ジャケット越しに伝わってくる。
「……もう少しだけ、こうしてていい?」
「ええ。好きなだけ」
俺は彼女の肩を優しく抱き寄せた。
いつの間にか、屋根を叩く雨音が遠のいていく。
数分後、俺たちが顔を上げたとき、世界は静寂に包まれていた。
ふと空を見上げると、厚い雲の切れ間から、雨上がりの澄んだ夜空と、数粒の星が顔を出しているのが見えた。
俺たちの距離は、確実に縮まっている。
ただのポーターと雇い主ではなく、互いの魂を預け合う、唯一無二のパートナーとして。
大舞台への不安は、もう雨と一緒に流れ去っていた。
今の彼女なら、どんな精密なノイズの壁でも、その不揃いな、だが熱い剣閃で真っ二つに叩き斬ってくれるはずだ。
俺は雨上がりの冷たい空気を深く吸い込み、来たるべき決戦のイントロを頭の中で静かに鳴らし始めた。




