第34話 コメント欄の戦争
世田谷のクランハウスのリビングは、深夜だというのに不夜城のような熱気に包まれていた。
ただし、それはいつものような宴会の熱気ではない。
張り詰めた、殺伐としたサイバー戦の空気だ。
「……またスパムの波が来たわ! 今度は海外のプロキシを経由してる!」
巨大なダイニングテーブルに数台のモニターを展開し、坂本千夏が叫ぶ。
彼女の指はキーボードの上で目にも止まらぬ速さで踊り、悪意あるコメントのIPアドレスを次々とブロックしていく。
「プロデューサー、こっちもヤバい! X(旧Twitter)でウチの切り抜き動画が『著作権侵害』で一斉通報されてる! 完全に組織的な工作だよ!」
千夏の対面では、アナスタシア――アーニャがタブレットとスマホを何台も同時に操作し、Z世代特有の圧倒的な情報処理能力でカウンターを仕掛けている。
彼女は自分たちのファンコミュニティに向け、冷静な対応を呼びかけるメッセージを多言語で発信しつつ、不審なアカウント群のアルゴリズムを分析して弾き出していた。
数時間前、大手クラン【Noize】のリーダー・怜が放った「俺の曲を盗まれた」という事実無根の告発動画。
それは瞬く間に拡散され、俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』の公式チャンネルやSNSは、大炎上状態に陥っていた。
『泥棒』『パクリクラン』『Sランクの威光に寄生するダニ』。
画面を流れる言葉の刃は、直接的な暴力よりもタチが悪い。
「くそっ、見ているだけで腹が立つわ! 私が乗り込んで、あの男を直接斬ってきた方が早くない!?」
ソファで腕を組んでいた村上環が、ギリッと奥歯を鳴らした。
その隣で、西村実那子も不機嫌そうにマイクスタンド型の杖を磨いている。
「同感ね。ネットの裏に隠れてコソコソと……あたしの歌で、あいつらのサーバーごと物理的に吹っ飛ばしてやろうかしら」
「落ち着け、お前ら。ここで俺たちが手を出せば、それこそ奴らのシナリオ通りだ。暴力で解決しようとする野蛮な集団だってレッテルを貼られるぞ」
俺は苛立つ前衛組を宥めながら、アイランドキッチンに立っていた。
俺にできることは、ネットの海で戦う彼女たちを後方支援することだけだ。
つまり、腹ごしらえである。
「で、真生。そっちの調子はどうだ?」
俺が声をかけると、リビングの片隅に胡座をかいている太田真生が、ヘッドホンを片耳だけずらして答えた。
「……堅いです。相手はメガクランだけあって、ファイヤーウォールの層が分厚い。ダミーのサーバーがいくつも囮になってます」
真生の目の前には、黒い画面に緑色のコードが滝のように流れるモニターがある。
彼女は【Noize】の配信動画の音声データから抽出した微細なノイズを逆探知し、彼らのメインサーバーのバックドアを探り当てようとしていた。
「でも、音の繋がりは確実に見えています。少しずつ、本丸の扉の鍵を開けているところです。……ただ」
「ただ?」
「脳の糖分が枯渇しました。このままだと餓死してハッキングが止まります」
真生が死んだような目で俺を見る。
千夏とアーニャも「私たちも限界……」「目がチカチカする」と悲鳴を上げた。
極度の集中を強いる頭脳労働は、ダンジョン探索以上にカロリーを消費する。
「分かってるよ。もうすぐ出来る」
俺はオーブンから、熱々の耐熱ガラス容器を取り出した。
「夜食のメニューは『ラザニア』だ。以前、真生のアパートに押し掛けた時にも作ったが、今回はさらに頭脳労働向けの特化型にアレンジしてある」
オーブンの中で、何層にも重なったパスタとソースがグツグツと煮立ち、表面のチーズが黄金色に焦げて香ばしい匂いを放っている。
トマトと肉、そして焦げたチーズの暴力的な香りが、殺伐としたリビングの空気を一瞬で塗り替えた。
「今回のミートソースには、細かく刻んだマッシュルームとクルミを大量に混ぜ込んである。クルミのオメガ3脂肪酸とビタミンEは、脳の疲労回復に直結するからな。それに、食感のアクセントにもなる」
俺はラザニアカッターで、分厚い層をザクザクと四角く切り分けた。
ヘラで持ち上げると、自家製のモチモチとした生パスタの間から、濃厚なベシャメルソースとミートソースがとろりと溢れ出す。
モッツァレラ、チェダー、パルメザン。3種類のチーズが複雑に絡み合い、滝のように伸びた。
「はい、お待たせしました」
俺はキーボードと格闘する真生たちの横に、湯気を立てるラザニアの皿をそっと置いた。
「……いただきます」
真生が視線をモニターに向けたまま、片手でフォークを握り、ラザニアの層を崩して口に運ぶ。
「……っ!!」
その瞬間、真生のタイピングの手がピタリと止まった。
彼女のアンニュイな瞳が、限界まで見開かれる。
「美味しい……! 前に作ってくれた時より、お肉の味が深いです。それに、この時々来るザクッとした食感……ナッツの香ばしさが、トマトの酸味とすごく合う」
「ヤバい、これ犯罪級の美味さ! チーズのコクが疲れた脳みそに直接流れ込んでくる感じ!」
アーニャもタブレットを置き、両手でフォークを握りしめて夢中で食べ始めた。
千夏も「太る太る」と言いながら、食べる手が止まらない。
「待て。これだけじゃないぞ。ラザニアに合わせる、今日のペアリングはこれだ」
俺は冷蔵庫から、大きなガラスのピッチャーを取り出した。
中には、真っ白な液体が入っている。
「……牛乳?」
「ああ。以前、プルコギの時にも出したあの特濃ジャージー牛乳だ。深夜の過酷な頭脳労働にエナドリやコーヒーを流し込むと、後で胃が死ぬからな。今回は氷温ギリギリのシャリシャリになる寸前まで冷やしてある」
俺は氷を入れたグラスに、とろりとした濃厚な牛乳を注いだ。
「チーズと肉の暴力的な脂を、同じ乳製品である冷たいミルクの甘みで優しく洗い流すんだ。口の中が完全にリセットされて、荒れた胃粘膜も保護される。深夜のハッキングには最適なガソリンだろ?」
真生がグラスを受け取り、牛乳を一口飲んだ。
「……あ。すごく、すっきりします」
真生の口元が、ふにゃりと緩んだ。
「熱くて濃いラザニアの後だと、ミルクの甘さが際立ちます。冷たさが喉を通って、頭の芯までクリアになるみたい。……これなら、徹夜でもいけます」
「最高! コーラより合うかも!」
アーニャも牛乳で口を潤し、再びラザニアの沼へと突撃していく。
熱と冷。塩気と甘み。
この完璧な往復運動が、彼女たちの枯渇した脳細胞に莫大なエネルギーを注入していくのが分かった。
環や実那子、ナナ、ザーナたちも集まってきて、あっという間に巨大な耐熱容器のラザニアは空になった。
「……ふぅ。ごちそうさまでした。糖分と脂質、100パーセント充填完了です」
綺麗に空になった皿を置き、真生が冷たい牛乳を飲み干した。
彼女が再びキーボードに向かった時、そのタイピングの速度は、先程までの比ではなかった。
タタタタタタタタタタッ!!
まるでピアニストの超絶技巧のような指捌き。
モニター上の緑色のコードが、滝のような速度で流れ落ちていく。
「……視えました。相手のメインサーバー、最深部のディレクトリ」
真生の目が、冷徹なハンターのものに変わる。
「ファイヤーウォール、突破。暗号化プロトコル、解除。……入りました」
エンターキーが、ターンッ! と力強く叩き込まれた。
瞬間、リビングのメインモニターに、【Noize】の内部サーバーのデータ構造が丸裸になって表示された。
「よくやった真生! さすが天才スカウト!」
千夏が歓喜の声を上げる。
「さあ、見せてもらいましょうか。奴らの『完璧な音楽』の裏側を」
真生がマウスを操作し、いくつかのフォルダを展開していく。
そこにあったのは、膨大な数の「音声プロジェクトファイル」だった。
「……やっぱりですね」
真生がファイルを一つ再生する。
スピーカーから流れてきたのは、レイの配信で使われていたあの洗練されたEDMの「各楽器のパート」だった。
そして、その波形データには、明らかに後からデジタルで切り貼りされた無数の編集痕が残っていた。
「これ、現場で生演奏なんかしてません。外部のクリエイターに外注した打ち込みのデータを、ダンジョンの映像に合わせて後から合成しているだけです。魔力の共鳴波形すらも、エフェクトソフトで作られた偽物です」
真生の言葉に、リビングがどよめいた。
俺の【音響共鳴】によるバフ効果を模倣するためだけに、彼らは映像のタイムラインに合わせて、後から不自然な波形を足していたのだ。
「さらに、これを見てください」
真生が別のテキストファイルを開く。
それは、レイとクランの運営陣、そして木崎との社内チャットのログだった。
『――あの音柱のスタイル、ウチで完全にパクろう。どうせあいつらには特許もない』
『レイさんの昔のバンド仲間らしいですね?』
『ああ。だからこそ都合がいい。俺の曲を盗んだってことにして、あいつらを炎上させて潰す。そうすれば、あのSランクの女たちも居場所がなくなって、ウチに回収しやすくなるだろう?』
決定的な証拠だった。
盗作疑惑が完全なフェイクであり、俺たちを陥れるための悪質な工作であったことが、彼ら自身の言葉で克明に記されていた。
「……クズね」
実那子が、吐き捨てるように言った。
かつて同じバンドでレイの横顔を見ていた彼女の瞳には、深い失望と怒りが渦巻いている。
「これだけの証拠があれば十分よ! 今すぐこれをネットにばら撒いて、あいつらを社会的に抹殺してやるわ!」
千夏がタブレットを手に取り、告発動画の編集に入ろうとした。
だが、俺は千夏の手をそっと押さえた。
「待ってくれ、千夏さん」
「何よ、近藤さん! まさか、アイツを庇うなんて言わないでしょうね!?」
「庇うわけないだろう。ただ……ネットの暴露合戦で勝っても、俺たちの『音』が勝ったことにはならない」
俺は画面に映る、レイのチャットログを見つめた。
相変わらず、小賢しい手を使う男だ。音楽そのもので勝負せず、常に裏工作と見栄えでトップに立とうとする。
そんな奴を、データ上のログだけで倒しても、俺の腹の虫は収まらない。
「偽物の音楽で世界を騙しているなら、本物の音楽でそのメッキをひっぺがしてやらなきゃ意味がない。そうだろ?」
俺が実那子を見ると、彼女はニヤリと不敵に笑った。
「……ええ。全くその通りよ、菊雄。コソコソした泥仕合は、アタシたちの性に合わないわ」
「じゃあ、どうするのよ」
環が問う。
俺は全員の顔を見渡し、静かに宣言した。
「決着は、ダンジョンでつける。奴らが一番自信を持っている『ステージ』で、俺たちが真正面から叩き潰すんだ」
情報戦のフェーズは終わった。
ここから先は、純粋な「音」と「力」のぶつかり合いだ。
俺たちの反撃のイントロが、今、静かに鳴り始めていた。




