第22話 引越し大作戦と、引きこもりの生態
8億円の豪邸を購入した翌日。
俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』は、各々の家を引き払い、新居である世田谷のクランハウスへの引っ越し作業を行っていた。
「そこのダンボール、二階の奥の部屋ね! 気をつけて、中身は化粧品だから!」
「了解だ! ……ふんっ!」
坂本千夏の指示を受け、ザーナ・ベリシャが巨大なダンボール箱を5つほど縦に積み重ね、片手で軽々と持ち上げて階段を駆け上がっていく。
Sランクの膂力を引っ越し作業に使うなど、引越業者が泣いて逃げ出す光景だ。
村上環も、自身の膨大な衣装ケースを両腕で5つも6つも抱え込み、スレンダーな体からは想像もつかない怪力で、涼しい顔をして階段を駆け上がっている。不器用な彼女らしく、便利な魔法などには頼らず純粋なステータスによるゴリ押しだ。一方、斉藤ナナに至っては魔力のリボンで複数の荷物を宙に浮かせ、優雅に舞いながら指定の部屋へ運んでいる。
「……探索者のスキルって、便利だな」
俺は一人、汗だくになりながら自分のベース用アンプ(自力で運ぶしかない)をリビングの隅に設置していた。
ふと足元を見ると、昨日家族になったばかりの豆柴『ファズ』が、短い尻尾をパタパタと振りながら俺の靴紐にじゃれついている。
コロコロとした赤茶色の毛玉。
新しい環境に戸惑うどころか、広大なリビングを遊び場として認識し、我が物顔でチョロチョロと走り回っていた。まだフローリングに慣れていないのか、時折ツルッと滑っているのがたまらなく愛らしい。
「こら、ファズ。踏んづけちまうぞ。そっちに行くな」
「ワンッ!」
俺が注意すると、ファズは嬉しそうに一声吠え、今度はリビングの隅で丸くなっている人物の元へトコトコと走っていった。
「……ん。ファズ、大人しくしてて。今、空間の反響を計算してるから」
太田真生だ。
彼女は新居の地下に設けられた巨大な防音室で、山積みになったダンボールに囲まれながら、ブツブツと何やら計算式を呟いていた。
彼女の荷物は、他のメンバーとは異質だ。服や生活用品はダンボール1箱のみ。残りの数十箱はすべて、アンプ、スピーカー、コンプレッサー、吸音材、防音パネルといった「音響機材」である。
「真生、手伝おうか」
俺が声をかけると、彼女はぼんやりとした目を向けてきた。
「……店長。これ、一人じゃ無理です。終わる気がしません」
「そりゃそうだろうな。その量の吸音材を壁に貼るだけで日が暮れるぞ。なんでこんなに買ったんだ?」
「……前の家は狭かったから妥協してましたけど、ここの防音室は広すぎるんです。空間が広いと、定在波が発生して、音が濁る。だから、壁の材質から反響まで、完璧に『調律』しないと、私はここで眠れません」
真生の【絶対調律】というスキルは、戦闘において無類の強さを発揮するが、日常生活においては呪いのようなものだ。
ほんの少しの環境音、壁の反響、家電のモーター音すら、彼女の繊細な耳には「騒音」として突き刺さる。
だからこそ、彼女にとって自室は「完全な無響室」でなければならないのだ。
「分かった。ミリ単位の調整が必要なんだろ? 俺に指示を出してくれ。力仕事と高所の作業は俺がやる」
「……いいんですか? 店長も疲れてるのに」
「俺は腐っても元バンドマンだ。ライブハウスのPAのセッティングや、防音材の貼り付けくらい、散々やらされてきたからな。素人よりはマシに動けるぞ」
俺が袖をまくって見せると、真生はほんの少しだけ目を輝かせた。
「じゃあ、お願いします。まずはそこのコーナーに、低音を吸収するバストラップを設置してください。角度は……壁から45度、隙間は3センチ」
「了解」
俺と真生の、マニアックなセッティング作業が始まった。
吸音材を壁に貼り、スピーカーの位置をメジャーで測りながら調整する。ただ適当に置くだけではない。ミリ単位の角度調整、インシュレーターの設置、さらには部屋のコーナーに低音が溜まるのを防ぐためのバストラップの配置など、素人目には狂気すら感じるこだわりだ。
リスニングポイントからスピーカーまでの距離を完全な二等辺三角形にし、高音域のツイーターの角度を真生の耳の高さに合わせる。
「店長、右のスピーカー、あと2ミリ内側です」
「ここか」
「……はい。完璧です。位相が揃いました」
ケーブルの配線一つにも彼女のこだわりがある。ノイズが乗らないよう、電源ケーブルと音声ケーブルを交差させないように這わせていく。
黙々と作業を続けること3時間。
広い防音室は、まるでプロのレコーディングスタジオのように変貌を遂げていた。
壁一面を覆う幾何学模様の吸音パネル。整然と配置されたハイエンド機材。
「よし、これで全部だ。音を出してみるぞ」
俺がオーディオインターフェースの電源を入れる。
真生がタブレットを操作し、テスト用のピンクノイズや、高音質のクラシック音源を再生した。
……驚いた。
音が、違う。
スピーカーから鳴っているという感覚がない。空間の至る所から、それぞれの楽器が独立して「そこで演奏している」かのように立体的に響いてくる。
そして、音が止まった時の「静寂」。
耳鳴りがするほどの、完全な無音。不快な反響は一切カットされ、自分が水底に沈んだような圧倒的な安らぎがあった。
「……すごいです。完璧な無響空間。前の部屋より、ずっとクリア」
真生はベッドにダイブし、そのままクッションを抱きしめた。
その顔は、これまで見たどんな時よりも幸せそうに弛んでいた。
「店長、ありがとうございます。これなら、外の世界がどれだけうるさくても、私はここで生きていけます」
「引きこもる前提かよ。たまにはリビングにも顔を出せよ。ファズも寂しがるぞ」
俺が足元で丸くなっている豆柴を指差すと、真生は「くぅん」と鳴くファズをそっと抱き上げ、自分の隣に寝かせた。
ファズの静かな心音と、完璧な静寂。
彼女にとっての「聖域」が完成した瞬間だった。
「さて、と。労働の後は腹が減るな」
俺が立ち上がると、真生もムクリと起き上がった。
「……出前ですか?」
「引っ越しといえば蕎麦かピザが相場だが……今日は、もっとアメリカンでジャンクなやつで景気づけしよう」
1階のアイランドキッチン。
最新型のオーブンや巨大な冷蔵庫が並ぶ、俺にとっての聖域だ。
作業を終えた女性陣がリビングのソファでぐったりとしている中、俺は腕を鳴らして調理にとりかかった。
「引っ越し祝いのメニューは、『特製ダブルチーズバーガー』だ」
俺の声に、環や千夏が「おおっ」と歓声を上げる。
「ハンバーガーの命は、当然『パティ』だ。合い挽き肉なんて使わない。スーパーで買ってきたブロックの牛肩ロースと牛脂を、二本の包丁を使ってリズミカルに叩き切って作る『ハンドチョップ・パティ』だ。肉の繊維を適度に残すことで、噛み締めた時の弾力と肉々しさが格段に跳ね上がる」
俺は分厚い牛肉の塊を、トントンと軽快な音を立てながら細かく刻んでいく。
ミンチというよりは、細かく刻んだステーキ肉だ。これを繋ぎを一切使わず、塩コショウだけで丸く成形する。
「今回は『スマッシュバーガー』スタイルで焼くぞ」
煙が出るほど熱した極厚の鉄板に、丸めた肉のボールを落とす。
ジュウウウッ! という凄まじい音と共に、牛脂の甘い香りが弾ける。
すかさず、上から重いプレス機で肉を平らに押し潰す。
こうすることで、肉の表面が鉄板に焦げ付き、強烈なメイラード反応が生まれるのだ。
縁はレースのようにカリカリに焦げ、中心はジューシーなミディアムレア。暴力的な肉の匂いが、広いリビングを埋め尽くしていく。
「やば……匂いだけで理性が飛びそう」
「コソボの軍隊食より100倍美味そうだぜ……」
ザーナが涎を拭う。
肉を裏返し、その上にチーズを乗せる。
コクと色味の「レッドチェダー」と、とろける食感の「モッツァレラ」。二種類のチーズが、肉の熱でトロトロに溶けていく。
「バンズも妥協しないぞ。内側にたっぷりと澄ましバターを塗り、パティを焼いたのと同じ鉄板でカリッと香ばしく焼き上げる。肉の旨味をパンに吸わせるんだ」
焼き上がったバンズの上に、特製オーロラソースをたっぷり塗り、シャキシャキのレタス、厚切りのトマト、スライスオニオンを重ねる。
そして、チーズが絡みついたスマッシュパティを贅沢に2枚重ねてドンと乗せる。
最後にバンズで挟み込み、上から串を刺して固定する。
肉汁とチーズが滝のように溢れ出す、高さ15センチはあろうかという巨大な「特製ダブルチーズバーガー」の完成だ。
「よし、できたぞ。……だが、これだけじゃジャンクすぎる。最高のペアリングを用意した」
俺は冷蔵庫から、ガラスのピッチャーを取り出した。
中には、氷と透明な液体、そして大量のハーブと柑橘類が沈んでいる。
「今日の飲み物は『ボタニカル・スパークリングウォーター』だ」
強烈な炭酸水に、フレッシュなミント、ローズマリー、スライスしたライムとレモンを漬け込んだ自家製のフレーバーウォーター。
酒ではないが、その爽快感はビールやコーラをも凌駕する。
「グラスに注ぐと、ハーブの清涼感が炭酸と一緒に弾ける。ハンバーガーの強烈な脂と塩気を、このスパークリングウォーターが一瞬で洗い流し、口の中をゼロにリセットしてくれるんだ」
俺は5つの皿とグラスを、リビングの巨大なダイニングテーブルに並べた。
ファズも匂いにつられて、足元で「クンクン」と鼻を鳴らしている。
「さあ、冷めないうちに食ってくれ」
「「「いただきます!!」」」
Sランクの美女たちが、一切の恥じらいを捨て、両手で巨大なハンバーガーを掴む。
そして、大きな口を開けて一気にかぶりついた。
ザクッ、ジュワァァァ……!
バンズの香ばしい音と、肉汁が弾ける音が重なる。
「……んんっ!! 最高!」
環が目を丸くして叫んだ。
口の周りにソースがつくのも気にしない。彼女の細い顎が外れないか心配になるほどの勢いだ。
「何この肉! ハンバーグっていうか、完全にステーキ! 噛むたびに肉汁が爆発するわ! チーズのコクもたまらない!」
「スマッシュパティの焦げたカリカリの部分が、死ぬほど美味いぜ! このソースの酸味も肉の重さを中和してる!」
ザーナと千夏も夢中で食べ進める。
真生は少し食べるのが遅いが、それでも無言でパティを噛み締め、時折「……美味しい」と呟いている。
そして、半分ほど食べたところで、彼女たちはグラスのスパークリングウォーターを呷った。
シュワァァァッ!
「……ぷはぁっ!」
ナナが天を仰いだ。
「なんだこれ、すっごい爽やか……! ミントとライムの香りが、炭酸と一緒に喉を突き抜けていく! 口の中の油が全部消え去ったぞ!」
「でしょ? そして油が消えると、また猛烈にハンバーガーが食いたくなる。……無限ループだ」
俺がニヤリと笑うと、環たちは「悪魔的ね……」と呟きながら、再びハンバーガーにかぶりついた。
重厚な肉のビートと、爽快なハーブ炭酸のハイハット。
この食事自体が、完璧なリズムを持った一つの楽曲だった。
食後。
すっかり満腹になった彼女たちは、ソファでだらしなく寛いでいた。
ファズは真生の膝の上で、気持ちよさそうに丸くなって眠っている。
「……ふぅ。食った食った。引っ越しの疲れが全部吹き飛んだわ」
「近藤さん、このキッチン大正解ね。毎日このレベルのご飯が食べられるなら、8億なんて安い買い物だわ」
千夏と環が満足げに笑う。
俺も自分の分のスパークリングウォーターを飲み干し、窓の外を見た。
世田谷の高級住宅街に沈む夕日。
つい先日まで、新宿のボロアパートで廃棄弁当を食っていた自分の姿が、遠い昔の夢のように思える。
新しい家、新しい仲間、そして最強のメンバーたち。
環境は整った。
ここから先は、俺たちの快進撃を見せつけるだけだ。
俺はテーブルを片付けながら、明日からの深層攻略へ向けて、心の中で静かにフェーダーを押し上げた。




