第19話 大手クラン【Noize】からの引き抜き
『機巧の回廊』を驚異的な速度で踏破し、無事に帰還してから二日後の昼下がり。
俺のアパート――『サウンド・オブ・ブレイブ』の仮事務所には、すっかり見慣れた顔ぶれが揃っていた。
ソファーを占領してタブレットで動画編集の指示を出す千夏。
その隣で、剣の手入れをしながら時折俺の方をチラチラと見る環。
床に寝転がって漫画を読んでいるナナと、自分の大盾をダンベル代わりに筋トレしているザーナ。
そして、部屋の隅の暗がりにノートPCを持ち込み、ヘッドホンをして音波の解析に没頭している真生。
Sランク3名、Aランク2名。
日本中、いや世界中のギルドが喉から手が出るほど欲しがる戦力が、築40年の狭い木造アパートにひしめき合っている。
控えめに言って、異常な光景だった。
「……なぁ、お前ら。自分の家に帰らなくていいのか?」
俺はキッチンで鍋の灰汁をすくいながらボヤいた。
「いいじゃない。ここが一番落ち着くんだから」
「タワマンは広すぎて寂しいのよ」
千夏と環が口を揃えて言う。
真生に至っては、ヘッドホンを少しずらして「定時まではここにいます。ご飯が出るので」と堂々と宣言した。
すっかり俺は彼女たちの「胃袋の管理者」として認識されているらしい。
「まぁいい。そろそろ飯が出来るぞ。今日は二日酔い気味のナナと、徹夜明けの真生のために、胃に優しいエスニックだ」
俺がそう言うと、ナナがむくりと起き上がった。
「おおっ、汁物か? ありがたい……昨日のテキーラがまだ残っててな……」
「今日のメニューは『フォー・ボー』だ。ベトナムの米粉麺だな。ただし、スープには徹底的にこだわってるぞ」
俺は寸胴鍋の蓋を開けた。
立ち昇るのは、牛骨の深く甘い香りと、複雑なスパイスの匂い。
昨夜からじっくりと牛骨と牛すじ肉を煮込み、徹底的に灰汁と脂を取り除いた、どこまでも透明なスープだ。
「フォーの命はスパイスだ。玉ねぎと生姜は直火で真っ黒になるまで焦がして香ばしさを出し、八角、シナモンスティック、クローブ、カルダモンはフライパンで空煎りして香りを引き出してからスープに投入している」
ただの鶏ガラスープとは違う。薬膳スープのように複雑で、それでいて澄み切った味わい。
別の鍋でサッと茹でた米粉の平打ち麺を深い丼に移し、熱々のスープを注ぐ。
その上に、薄くスライスした生の牛赤身肉を乗せる。熱いスープに触れた瞬間、肉の色が鮮やかな赤から薄いピンク色へと変わっていく。
「仕上げに、パクチー、ミント、バジル、そしてもやしを山盛りにする。好みでライムを搾って、チリソースと海鮮醤を足してくれ」
5つの丼をローテーブルに運ぶ。
ハーブの清涼感とスパイスの香りが部屋に充満し、全員の目が釘付けになった。
「うわ……すっごい本格的。お店の匂いがする」
「肉が……肉がエロい色してるぜ……!」
環とザーナが喉を鳴らす。
「待て。今日のペアリングはこれだ」
俺はシェイカーを取り出し、氷と一緒に手際よく酒を注ぎ込んだ。
ウォッカをベースに、ピーチリキュール、クランベリージュース、そしてフレッシュなオレンジジュース。
激しくシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
オレンジから赤への美しいグラデーションを持つ、トロピカルなカクテルだ。
「『セックス・オン・ザ・ビーチ』。南国の定番カクテルだな」
その名前を出した瞬間、環が「ぶっ!」とむせ、千夏がニヤニヤと笑った。
「ちょっとオジサマ。昼間から若い女の子たちに、なんて刺激的な名前のお酒出してるのよ」
「カクテルの名前に照れるなよ。味は保証する」
俺はグラスを配った。
「フォーのスパイス感と、たっぷり乗せたハーブの青臭さ。それを、ピーチとクランベリーのフルーティーな甘さがトロピカルに包み込む。ベトナムの熱気と南国のビーチの融合だ」
「……いただきます」
真生が誰よりも早く箸を取り、フォーを啜った。
ちゅるるん、という滑らかな音。
「……あ。すごく、優しい」
真生がほうっと息を吐いた。
「スープが凄く澄んでるのに、牛の旨味が深くて……八角の香りが鼻に抜けます。お肉も柔らかい」
「このカクテルもヤバいぞ! 甘くてジュースみたいに飲めるのに、後からウォッカがガツンと来る! スパイシーなスープの後だと、桃の甘さが際立つな!」
ザーナがカクテルを煽り、フォーを口いっぱいに頬張る。
ナナも「……胃が、浄化されていく……」と涙目でスープを飲み干していた。
スパイシーで香り高いフォーと、甘くフルーティーなセックス・オン・ザ・ビーチ。
一見ミスマッチに思えるこの組み合わせが、互いの風味を引き立て合い、無限のループを生み出していた。
俺も自分の丼を持ち、その完璧なマリアージュを楽しんだ。
――そんな平和なブランチの時間が、最悪の形で破られたのは、全員がフォーを完食した直後のことだった。
ピンポーン。
アパートのチャイムが鳴った。
俺は首を傾げた。宅配便を頼んだ覚えはない。
「はーい」
俺が玄関の扉を開けると、そこには仕立ての良い高級スーツを着た、神経質そうな細身の男が立っていた。
銀縁メガネの奥の目は、このボロアパートを値踏みするように見下している。
「……どちら様で?」
「突然の訪問、失礼いたします。私、探索者クラン『Noize』のマネジメント部門に所属しております、木崎と申します」
男は恭しく名刺を差し出した。
Noize。
その名を聞いて、俺は眉をひそめた。
日本最大級のメガクランの一つだ。多数のSランク、Aランク探索者を抱え、配信事業でもトップクラスのシェアを誇る。
派手な魔法エフェクトと、過剰なまでの映像演出で、若い層を中心に絶大な人気を得ているグループだ。
「……Noizeの人が、うちの弱小パーティに何の用ですか」
「単刀直入に申し上げましょう。先日、貴方方『サウンド・オブ・ブレイブ』が第27階層で残した記録、そして配信の同接数。我々も高く評価しております」
木崎は薄く笑いながら、靴を脱ぐ許可も得ずに上がり框に一歩踏み込んできた。
奥のリビングから、環たちが怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「特に、村上環さん。そして坂本千夏さん。さらに……おや、これは驚いた。斉藤ナナさんに、ザーナ・ベリシャさん、太田真生さんまでいらっしゃるとは。まさに奇跡的なタレントの集結ですね」
木崎の目が、獲物を見つけたハイエナのように輝いた。
「これほどの人材が、あのような……失礼、少しばかり手狭な個人事務所で燻っているのは、業界全体の損失です。そこで、我々『Noize』からのご提案です」
男は胸を張り、宣言した。
「貴方方5名を、我々Noizeのトップチームとして好待遇でお迎えしたい。契約金は現在の相場の10倍。配信の収益配分も優遇いたします。我々の持つ最新の編集チームと広報力を以てすれば、貴方方は間違いなく世界のトップアイドルになれる」
引き抜きだ。
しかも、パーティごとの買収ではなく、価値のある女性陣だけをピンポイントで狙った、露骨な引き抜き。
「……ちょっと待て」
俺は低い声で口を挟んだ。
「5名? ウチのパーティは俺を含めて6人だ。俺へのオファーは入ってないようだが」
その言葉に、木崎は心底不思議そうな顔をして、それから「ああ」と鼻で笑った。
「近藤菊雄さん、でしたか。……失礼ですが、貴方は不要です」
「なんだと?」
「我々が評価しているのは、彼女たちの『ビジュアル』と『圧倒的なステータス』です。貴方のやっている……その、BGMを流すというパフォーマンス? 確かに物珍しさでバズりはしましたが、あんなものはただの『一発屋のギミック』に過ぎません」
木崎は、リビングの片隅に置かれた俺のミキサーとベースを、汚物でも見るような目で一瞥した。
「音楽やエフェクトが必要なら、ウチのプロの編集チームが後付けでいくらでも合成しますよ。もっと今風の、洗練されたEDMなんかでね。貴方のような、戦えもしない『ただのオッサン』が現場にしゃしゃり出て、画面の端に映り込むのは……正直、彼女たちのブランディングの『ノイズ』にしかなりません」
男の言葉は、冷酷で、ひどく事務的だった。
俺のこれまでの努力を、音楽を、存在意義そのものを、根本から否定する言葉。
「運良くSランクの彼女たちに取り入り、一時的にバズったことには敬意を表します。ですが、素人の遊びはここまでだ。大人しく彼女たちを解放し、貴方はまたコンビニのレジ打ちにでも戻られたらいかがですか?」
沈黙が落ちた。
俺は何も言い返せなかった。
男の言うことは、世間の一般的な常識からすれば、ある意味で「正論」だったからだ。
俺はただのFランクで、三十路のオッサンで、戦う力もない。
彼女たちのような輝く才能を持つ人間が、俺のような泥舟に乗っている必要はないのかもしれない。
――だが。
俺が口を開くより早く。
リビングの奥から、凄まじい「殺気」が膨れ上がった。
「……今、なんて言ったのかしら」
氷のように冷たい声。
村上環が、愛用の大剣『紅姫』の柄に手をかけながら、ゆっくりと立ち上がっていた。
その猫目は、今まで見たどんなボスの時よりも、深く、暗く濁っていた。
「私の……私たちの音を、ただのギミックだと言った?」
「え、あ……村上さん?」
木崎がたじろぐ。
環だけではない。
千夏が二丁魔銃の安全装置を外し、ナナが鉄扇を開き、ザーナが指の関節をポキポキと鳴らし、真生が音叉の短剣を構えている。
SランクとAランク、計5名による、一切の容赦のない本気の殺意。
狭い玄関の空気が、物理的な重さを持って木崎を押し潰そうとしていた。
「てめぇ……ウチのリーダー兼専属シェフを侮辱して、ただで帰れると思ってんのか?」
ザーナがドスの効いた声で一歩踏み出す。
「……あ、いや、私はただ、ビジネスとして最適な提案を……っ!」
木崎の顔から血の気が引き、スーツの背中には脂汗が滲んでいた。
彼ら【Noize】は、致命的な勘違いをしていたのだ。
俺が彼女たちに寄生しているのではない。
彼女たちを繋ぎ止め、その魂を震わせているのが、俺の「音」なのだということを。
「……環、ザーナ、待て」
俺は小さく息を吐き、木崎の前に立った。
そして、自分のパーティメンバーたちを背中で制する。
「今日は帰ってくれ、木崎さん。ウチのメンバーは、アンタのところの『洗練されたBGM』じゃ、どうも調子が出ないらしいんでね」
俺は静かに、だがはっきりと言い放った。
木崎は引き攣った顔で俺と彼女たちを交互に見ると、「……後悔しますよ」と捨て台詞を吐き、逃げるようにアパートから去っていった。
扉が閉まる。
再び、部屋に静寂が戻った。
俺は肩の力を抜き、振り返った。
「……お前ら、物騒すぎるだろ。玄関先で魔銃のセーフティ外す奴があるか」
「だって、あいつ近藤さんのこと馬鹿にしたじゃない!」
「そうよ! うちのパパ……じゃなくてプロデューサーに向かって、なんて口の利き方なのよ!」
環と千夏が怒り心頭といった様子で叫ぶ。
「……ふっ」
俺は思わず吹き出した。
ただのオッサン。荷物持ち。
世間からの評価は、まだその程度なのだろう。
だが、この世界最強の女たちは、俺の音を、俺の飯を、誰よりも必要としてくれている。
それだけで、俺がこのパーティでベースを弾き続ける理由としては十分すぎた。
「……さて。変なノイズのせいで、せっかくの食後の余韻が台無しになっちまったな」
俺はミキサーの電源を入れ、ベースを手に取った。
「口直しに、一曲やろうか。俺たちの音が、ただのギミックじゃないってことを、改めて体に刻み込んでやるよ」
「望むところよ、リーダー」
環が不敵に笑う。
大手クランからの宣戦布告。
だが、俺たちの『サウンド・オブ・ブレイブ』が、こんな安っぽいノイズに負けるはずがなかった。




