第17話 塩対応少女を動かす唯一の方法
新宿第3迷宮、第27階層『機巧の回廊』。
無機質な金属の壁と、絶えず鳴り響く歯車の駆動音。殺意に満ちた罠が張り巡らされたこのエリアに、俺たち『サウンド・オブ・ブレイブ』は再び足を踏み入れていた。
だが、攻略のペースは先日と大して変わっていなかった。
理由は明白だ。
「……あー、帰っていいですか」
パーティの最後尾を、這うような速度で歩く少女。
新たに加入した天才音響解析士・太田真生が、死んだような目をしながら呟いた。
今日でこの台詞を聞くのは、すでに20回目くらいだ。
「ちょっと真生ちゃん! もっとシャキッと歩きなさいよ! さっきから全然進んでないじゃない!」
「環さん、声が大きいです。耳が痛い。……あ、そこのタイル、踏むと毒ガス出ますから避けてください」
真生が気怠げに指を差す。
先頭を歩いていた環が慌てて足を止めた。見れば、確かに床のタイルの色が周囲とわずかに違う。
真生の【絶対調律】は本物だった。彼女の耳は、壁の奥で回る歯車のノイズや、魔法陣が発する微細な不協和音を聞き分け、すべての罠の位置を正確に特定してみせた。
能力は、疑いようもなくSランク級だ。
しかし、いかんせん「やる気」がない。
「もう疲れました。帰りたいです。お布団が私を呼んでます」
「まだ潜り始めて1時間しか経ってないわよ!?」
プロデューサーの坂本千夏が頭を抱える。
前衛で盾を構えているザーナは「おいチビ、私が小脇に抱えて走ってやろうか?」と物騒な提案をし、二日酔い気味のナナは「迎え酒ならあるぞ」とフラフラしながら絡んでいる。
「他人の汗の匂いも、お酒の匂いも嫌いです。それに、この階層……歯車の擦れる金属音がずっと頭の中で反響してて、吐き気がします。……やっぱり、私には無理でした。帰ります」
真生が踵を返し、本気で帰路につこうとした。
俺は慌てて彼女のフードを掴んで引き留めた。
「待て待て。このままじゃ日が暮れる。……よし、少し早いが休憩にしよう」
「休憩? 帰るんじゃないんですか?」
「帰る前に、飯を食ってけ。今日はアンタのために、とびきりの屋台飯を用意してきたんだ」
真生の足がピタリと止まった。
そのアンニュイな瞳の奥に、ほんの少しだけ「食欲」という名の光が灯るのを、俺は見逃さなかった。
俺は安全な小部屋を見つけると、素早く愛用の調理機材を展開した。
「今日のメニューは『サテ』だ。東南アジアの串焼きだな」
クーラーボックスから取り出したのは、竹串に刺さった大量の肉だ。
鶏肉、牛肉、そして羊肉。
昨夜から、特製のスパイス液――ターメリック、コリアンダー、クミン、すりおろしたレモングラスとガランガル、そしてココナッツミルクを混ぜ合わせたものに漬け込んである。
肉はすでに鮮やかな黄色に染まっていた。
「串焼き……焼き鳥ですか?」
「焼き鳥よりスパイシーで甘い。炭火で焼くぞ」
俺は魔石駆動の無煙ロースターに火を入れ、網の上に串を並べた。
ジュウッ! という音と共に、ココナッツミルクとスパイスが焦げる、強烈でエキゾチックな香りが立ち昇る。
「うわ、なにこの匂い……めっちゃお腹空く」
「ビールが欲しくなる匂いね」
千夏とナナが身を乗り出してくる。
真生も、少しだけコンロに近づいてきた。
肉をひっくり返しながら、俺は小鍋でソースを作り始めた。
サテの命は、肉そのものよりもこの『ピーナッツソース』にある。
たっぷりのピーナッツバターをベースに、ケチャップマニス、タマリンドペーストの酸味、そして唐辛子の辛味を加えて火にかける。
ドロリとした濃厚なソースが沸騰し、ナッツの香ばしさが加わった。
「それと、主食はこれだ」
俺はタッパーを開け、綺麗に成形された白い塊を取り出した。
バナナの葉の代わりとなる抗菌シートで包まれたそれは、一見するとただのおにぎりだ。
「特製おにぎりですか? 塩結び?」
真生が首を傾げる。
俺はニヤリと笑った。
「ただの白飯じゃない。『ナシレマッ』風のおにぎりだ。米を水じゃなく、ココナッツミルクとパンダンリーフ、生姜で炊き込んである」
東南アジアでは、サテの付け合わせとして『ロントン』を食べる文化がある。それをダンジョンで片手で食べやすいように、俺流に「おにぎり」としてアレンジしたのだ。
「焼けましたよ。ソースをたっぷりつけて食べてください」
俺は焼き立てのサテと、ココナッツおにぎりを皿に乗せ、真生に手渡した。
彼女はおずおずと串を受け取り、ピーナッツソースを絡めて一口囓った。
「……んっ」
真生の目が、今日一番の大きさで見開かれた。
スパイスの複雑な香りが鼻に抜け、炭火の香ばしさと肉の脂が口の中に広がる。そこへ、ピーナッツソースの暴力的なまでの「甘辛さ」が押し寄せる。
「……美味しい。なにこれ、お祭りの屋台の匂いがするのに、味が深いです」
「おにぎりも食ってみろ。相性抜群だぞ」
真生がおにぎりを齧る。
ココナッツミルクのまろやかな甘みとパラパラとした米の食感が、サテの強烈な味を優しく包み込み、中和していく。
無限に食べ続けられるループの完成だ。
「そして、この強烈な味を洗い流すペアリングはこれだ」
俺はクーラーボックスから、琥珀色の液体が入ったボトルを取り出した。
『リカール』。
フランスで作られる、アニス風味のリキュール、『パスティス』の代表的な銘柄だ。
「お酒ですか?」
「アンタ、もうハタチになってるだろ? 強い酒じゃない、水割りだ」
俺はグラスに氷を入れ、パスティスを注いだ。その時点では透明な琥珀色だ。
そこへ、冷たいミネラルウォーターを注ぎ込む。
「わっ……色が変わった」
環が驚きの声を上げた。
水と混ざり合った瞬間、グラスの中の液体が魔法のように白濁したのだ。
ウーゾ効果と呼ばれる現象。アニスの精油成分が水に反応して白く濁るのだ。
「飲んでみろ。好き嫌いは分かれるが、サテのピーナッツソースにはこれしかないってくらい合う」
真生がグラスを受け取り、白濁した液体に口をつける。
独特の、薬草のような甘い香りが広がる。
「……あ。すごく、すーっとします」
真生の頬が微かに紅潮した。
アニスの清涼感と甘草の風味が、口の中の油っこさを一瞬でリセットし、スパイスの余韻だけを美しく残していく。
東南アジアの熱気と、南仏の涼風の出会い。
「……負けました。美味しいです。おにぎり、もう一個ください」
真生は観念したように言い、ガツガツと二本目の串に手を伸ばした。
環たちも「ずるい! 私たちにもちょうだい!」と騒ぎ出し、あっという間に串の山が消えていく。
食後の余韻。
パスティスのグラスを傾けながら、真生はふぅ、と小さく息を吐いた。
「ご飯は最高でした。……でも、帰りたい気持ちは変わりません」
「まだ言うか」
ザーナが呆れたようにため息をつく。
「だって、うるさいんです。この階層の金属音、私の耳には針で鼓膜を引っ掻かれてるみたいに痛くて……いくらご飯が美味しくても、労働環境がブラックすぎます」
真生は両手で耳を塞ぎ、うずくまってしまった。
彼女の【絶対調律】は、常人には聞こえないノイズまで拾ってしまう。この機巧の回廊は、彼女にとって拷問部屋のようなものなのだ。
「……なるほどな。アンタの『帰りたい』は、単なるサボりじゃなくて、物理的な苦痛から来てたわけだ」
「……はい」
「なら、話は早い」
俺は立ち上がり、背負っていたミキサーの電源を入れた。
そして、傍らに立てかけてあった安物のベースギターを手に取る。
「耳を塞ぐ必要はない。俺が『マスキング』してやる」
「マスキング……?」
俺はシールドをミキサーに繋ぎ、ボリュームを調整した。
ノイズキャンセリング・ヘッドホンと同じ原理だ。不快な騒音に対して、それと真逆の位相を持つ音の波をぶつけることで、音を相殺する。
俺のスキル【音響共鳴】を使えば、その効果を空間全体に拡張できる。
俺はベースの弦を弾いた。
派手なスラップや、激しいピック弾きではない。
指の腹で、優しく、深く、低音のサイン波に近い音を鳴らす。
ボォォォン……という重厚な低音が、床を這うように広がっていく。
環境音楽。
規則的に鳴り続ける歯車の音を包み込み、中和し、別の心地よい音像へと変換していく。
「……え?」
真生が耳から手を離した。
彼女の周囲から、針で引っ掻くような金属ノイズが完全に消え去っていた。
代わりに満ちているのは、深い水底にいるような、あるいは胎内にいるような、圧倒的で穏やかな『静寂』。
俺のベースが作り出した、音響的な安全地帯だ。
「……静か。嘘みたい」
真生は信じられないといった顔で、周囲を見回した。
「俺のベースが届く範囲内なら、アンタの耳を不快なノイズから守ってやる。静寂空間のデリバリーだ。……これで、労働環境の改善にはなったか?」
俺がベースを弾きながら微笑むと、真生はぽかんと口を開け、それから小さく、本当に小さく笑った。
「……店長、すごいです。本当に魔法みたい」
「店長じゃない、リーダーだ」
「ふふっ。……分かりました。これなら、悪くないです」
彼女は立ち上がり、スウェットの袖をまくった。
その目には、先程までの死んだような光はない。プロの音響解析士としての、静かな集中力が宿っていた。
「ただし、定時退社は絶対ですからね。あと、帰ったらさっきのパスティス、もう一杯ください」
「約束しよう」
俺が力強く頷くと、真生は音叉型の短剣を取り出し、チーンと鳴らした。
その澄んだ音が、俺のベースの低音と美しく和音る。
「環さん、ザーナさん、ナナさん。……行きますよ。私が全部の罠を黙らせます」
そこからの真生の働きは、まさに鬼神の如きものだった。
俺の作り出す静寂空間の中で、彼女は指パッチン一つで罠の音響的弱点を突き、次々とトラップを破壊・無効化していった。
毒矢の射出機は自壊し、落とし穴の機構は停止する。
今まで足踏みしていたのが嘘のように、俺たちは第27階層を駆け抜けた。
Sランクの火力と防御力、そしてAランクの神眼。
それを繋ぐ、俺のBGM。
『サウンド・オブ・ブレイブ』のパズルが、ついに完成した瞬間だった。
「……よし、ボス部屋が見えたぞ!」
千夏がドローンの映像を見て叫ぶ。
俺はベースを弾きながら、メンバーたちの背中を見つめた。
ここから先は、深層の主との対話だ。
俺はミキサーのペダルを踏み、アンビエントな静寂から、戦闘用の攻撃的なビートへと、滑らかに曲をクロスフェードさせていった。




