第12話 中華街の仙女、あるいは酒乱のお姉さん
銀座でのデートから数日後。
俺と村上環は、坂本千夏からの緊急連絡を受けて、横浜中華街の路地裏を走っていた。
『至急、援軍を求む! 手に負えない!』
メッセージアプリに送られてきたのは、その悲痛な叫びと位置情報だけ。
場所はメイン通りから外れた、地元民しか知らないようなディープな飲み屋街の一角だ。
「……千夏が助けを求めるなんて珍しいわね。モンスターの襲撃?」
「いや、この場所じゃダンジョン災害ってことはないでしょう。あるとすれば……」
俺は嫌な予感を覚えながら、古びた赤提灯が揺れる居酒屋『酔仙楼』の暖簾をくぐった。
「うい〜〜〜っ! もう一杯! お姉さん、紹興酒ロックで!」
「ちょっと! もう飲みすぎだってば! 店員さんも困ってるでしょ!」
店内に入った瞬間、聞き覚えのある声と、聞いたことのない呂律の回らない声が鼓膜を打った。
そこには、地獄絵図が広がっていた。
テーブルには空になった紹興酒の瓶が林立している。
その中心で、一人の女性がテーブルに突っ伏しながら、空のグラスを高く掲げていた。
長い黒髪。透き通るような白い肌。
服装は、先日見かけた時と同じ、優雅な中華風のドレスだ。
黙って座っていれば、まさに「中華街の仙女」と呼ぶにふさわしい、浮世離れした美貌の持ち主。
――ただし、現在は泥酔率120パーセントのダメ人間だが。
「あ、近藤さん! 環! 遅い!」
向かいの席で頭を抱えていた千夏が、俺たちの姿を見て泣きそうな顔になった。
Aランク探索者の威厳は見る影もない。完全に「面倒な先輩に絡まれた後輩」の顔だ。
「……千夏、これどういう状況?」
環がドン引きしながら尋ねる。
「どうもこうもないわよ! この人が『私の酒が飲めないのか』って絡んでくるから、付き合ってたらこのザマよ! 財布の中身も全部吸い取られたわ!」
「……で、この人は?」
「斉藤ナナ。27歳。Sランクの『精霊舞踏家』よ」
Sランク。
俺と環は顔を見合わせた。
この泥酔お姉さんが、国内に数人しかいないSランク探索者の一人?
「う〜ん……あ? 誰だオマエら……」
ナナと呼ばれた女性が、どんよりとした瞳で俺たちを睨んだ。
焦点が合っていない。
「あー、初めまして。近藤菊雄です。千夏さんの友人で……」
「男ぉ? 男はいらねぇんだよ! 私が欲しいのは酒と! 肴と! 愛だ!」
バンッ! とテーブルを叩く。
衝撃で空き瓶が一本倒れ、床に転がった。
「……ダメだこりゃ」
俺はため息をついた。
バンドマン時代、こういう手合いは嫌というほど見てきた。打ち上げで暴れるボーカル、失恋して荒れるドラマー。
扱いは慣れている。
「千夏さん、とりあえずここを出ましょう。店の迷惑になります」
「でも、この人テコでも動かないわよ?」
「任せてください。……おい、そこの酒乱」
俺はナナの耳元で、低く、しかしよく通る声で囁いた。
「もっと美味い酒と、最高にスパイシーなツマミがある店を知ってるんだが……行かないか?」
ピクリ。
ナナの耳が動いた。
「……美味い、酒?」
「ああ。ここじゃ出せないような、極上のやつだ」
「……行く」
彼女はゆらりと立ち上がった。
千夏と環が「えぇ……」と絶句する中、俺は彼女の腕を支え、店主に代金を支払って店を出た。
1時間後。
俺たちは都内にある俺のアパート――『サウンド・オブ・ブレイブ』の仮事務所兼、機材倉庫兼、俺の自宅にいた。
タワーマンションの環の家と比べればウサギ小屋だが、男の一人暮らしにしては片付いている方だ。
「うぅ……頭痛い……」
ナナはソファに沈み込み、死体のように動かなくなっていた。
どうやら移動中に酔いが回ったらしい。
「で、どうするの近藤さん。極上の酒なんてあるの?」
「あるわけないでしょう。あんなのは酔っ払いを動かすための方便です」
俺はキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。
中には、いつか使うと思って仕込んでおいた「あるもの」が眠っている。
「酒は出しませんが、約束通り『最高にスパイシーなツマミ』は出しますよ。二日酔いと空腹には、スパイスが一番効く」
俺が取り出したのは、白いボウルに入ったドロドロとした液体だ。
米と豆を水に浸して挽き、一晩発酵させた生地。
独特の酸っぱい香りが漂う。
「何それ? ホットケーキ?」
「いえ、『ドーサ』です。南インドのクレープですね」
俺は鉄板を熱し、油を引いた。
十分に熱せられた鉄板の上に、お玉一杯分の生地を落とす。
ジュウウッ! という音と共に、俺は生地をお玉の底で円を描くように薄く広げた。
直径40センチほどの大きな円。
生地が焼ける香ばしい匂いが立ち込める。
「へえ、面白そう」
環と千夏がキッチンカウンター越しに覗き込んでくる。
生地がパリパリに焼けてきたところで、俺は真ん中に具材を乗せた。
茹でたジャガイモを、マスタードシード、カレーリーフ、ターメリック、そしてたっぷりの青唐辛子と炒め合わせた『ポテトマサラ』だ。
「これを包んで……完成です。『マサラドーサ』」
俺は巨大な筒状に巻いたドーサを皿に乗せ、付け合わせに二種類のチャトニと、サンバルを添えた。
「はい、お待たせ。酒乱のお姉さん」
俺はソファの前のローテーブルに皿を置いた。
スパイスの刺激的な香りが、部屋中に充満する。
死んでいたナナが、ムクリと起き上がった。
「……カレーの匂い」
「インドの朝食ですよ。酔い覚ましにはカレーリーフとターメリックが効きます」
「……いただきまーす」
彼女はふらつく手でドーサを千切り、チャトニをつけて口に運んだ。
パリッ、という軽快な音。
そして次の瞬間、彼女の目がカッと見開かれた。
「んんっ!?」
覚醒。
その瞳から、泥酔の濁りが消え去った。
「辛っ! でも……美味い! なにこれ、生地がサクサクでモチモチで、酸味が絶妙……!」
「中のポテトも食べてください」
「んぐっ……はぁ〜〜! スパイスが脳天に突き抜けるわね! これよ、私が求めてたのは!」
ナナは猛烈な勢いで食べ始めた。
Sランクの身体能力が、食事という一点に集中されている。あっという間に巨大なドーサが消えていく。
「飲み物はこれだ」
俺は冷蔵庫から、キンキンに冷えた缶を取り出し、プシュッと開けて渡した。
水でもお茶でもない。
『レッドブル』だ。
「……エナジードリンク?」
「インド料理とエナドリのペアリング、意外といけるんですよ。スパイスで活性化した血流に、カフェインとアルギニンを流し込む。強制再起動です」
ナナは疑わしげに缶を見つめたが、意を決して煽った。
ゴクゴク、ゴク……ぷはぁっ!
「――キタわ」
彼女は缶をテーブルに叩きつけ、立ち上がった。
その全身から、目に見えるほどの魔力オーラが立ち昇る。
酔いは完全に冷めたようだ。いや、スパイスとカフェインでハイになっているのかもしれない。
「美味かった! 礼を言うぞ、髭の店主!」
「店主じゃなくて家主です。近藤菊雄と言います」
「そうか近藤! お前、いい腕してるな。私の専属シェフにしてやろうか?」
デジャヴだ。
このセリフ、環にも言われた気がする。Sランクの女は胃袋を掴まれるとすぐに専属にしたがる習性でもあるのか?
「お断りします。俺はもう『サウンド・オブ・ブレイブ』のリーダーなんでね」
「サウンド・オブ・ブレイブ? ああ、あの最近話題の……」
ナナはそこで初めて、同席していた環と千夏をまじまじと見た。
「剣姫の村上環に、魔弾の坂本千夏……なるほど、本物か」
「ええ、本物よ。やっとお目覚め?」
千夏が呆れ顔で言う。
「で、斉藤ナナさん。貴方をここに連れてきた理由、覚えてる?」
「……確か、ウチのパーティに入らないかって話だったか?」
「そうよ。私たちは今、優秀なヒーラーを探してる。貴方の『精霊舞踏』による広範囲回復とバフ、私たちのスタイルにぴったりなの」
千夏は単刀直入に切り出した。
だが、ナナはふんと鼻を鳴らした。
「断る」
「即答ね。理由は?」
「私は束縛されるのが嫌いなんだ。それに……」
ナナはチラリと俺を見た。
「噂は聞いてるぞ。『音柱』のBGMに合わせて戦うんだろ? 冗談じゃない。私は私のリズムで踊りたいんだ。他人の音楽になんか合わせられるか」
なるほど。
予想通りの反応だ。音楽的センスがある人間ほど、自分のリズムにこだわりがある。
だが、千夏は引かなかった。
「合わせられるわよ。貴方なら」
「根拠は?」
「さっきの居酒屋での貴方を見てたからよ」
千夏はニヤリと笑った。
「貴方、店内で流れてた有線の演歌に合わせて、無意識に貧乏揺すりしてたでしょ? しかも完璧な裏拍で」
「なっ……!?」
「泥酔しててもリズムを刻んでしまう。それは貴方の体に音楽が染み付いている証拠よ。近藤さんの音にも、絶対に適応できるはずだわ」
ナナが動揺して言葉を詰まらせる。
そこへ、俺が追い打ちをかけた。
「それに、俺のパーティに入れば……毎日このレベルの飯が食えますよ」
「ッ!?」
ナナの肩が跳ねた。
効果てきめんだ。
「マサラドーサだけじゃない。ビリヤニ、タンドリーチキン、それに中華も和食もいけます。酒に合うツマミのレパートリーなら、そこらの居酒屋には負けません」
「うぐぐ……」
「さらに、ウチは報酬の歩合もいい。好きなだけ高い酒が飲めますよ」
悪魔の囁き。
ナナの表情が、葛藤に歪む。
プライドと食欲の戦い。
「……わ、分かった。一度だけだぞ」
数分後、彼女は搾り出すように言った。
「一度だけ、お前たちの『音』に合わせてやる。もしそれで私が気持ちよく踊れなかったら、契約はなしだ。あと、慰謝料としてそのドーサをあと10枚焼くこと。いいな?」
「交渉成立ですね」
俺はニッと笑い、握手を求めた。
ナナは渋々といった様子で、しかし力強くその手を握り返してきた。
その掌は、Sランク特有の硬さと、ダンサー特有のしなやかさを併せ持っていた。
「よろしく頼むわ、新入り」
「へいへい。……あ、ちなみに私、二日酔いの時はポンコツになるから、その辺よろしく」
「もう二日酔い前提かよ」
こうして。
中華街の路地裏で拾った酒乱の仙女が、俺たちのパーティに仮加入することになった。
最強のアタッカー、敏腕プロデューサー、そして酒好きのダンサー。
俺の家はますます狭く、そして騒がしくなりそうだ。
俺は空になったレッドブルの缶をゴミ箱に放り投げ、次のドーサを焼くために鉄板を熱した。
新しいリズムが、俺たちの生活に加わろうとしていた。




