5-8 退き方の稽古
翌朝。
砦の訓練場の一角に、粗い白線が引かれていた。
石灰を混ぜた粉を、太郎がさっきまでせっせとばらまいていた跡だ。
地面には三本の線。
前線に見立てた「前の線」。
退き始めの目安となる「中の線」。
絶対に割ってはいけない「後ろの線」。
それを囲むようにして、第一小隊の隊員たちが並んでいる。
ガルドは腕を組んで、その光景を見下ろした。
「……で、これは何の儀式だ?」
「儀式じゃなくて、手順の“見える化”です」
太郎は手に持った木の棒で、白線をこんこんと叩いた。
「前に出るのも、退くのも、全部“頭の中だけ”でやると、
新人ほど混乱します。
だから、まずは足で覚えてもらうところから、ですね」
イルスが隊員たちの列の中で手を挙げた。
「太郎さん、さっき言ってた“ペア”ってやつ、
もう決めちゃっていいですか?」
「お願いします」
イルスは器用に列を歩きながら、次々と名前を呼んでいった。
「ベテラン側——
ドラン、メルキ、ハルド、俺。
新人側——
ライネ、スオ、ミィシャ、ロック」
呼ばれた者たちが、小さく返事をしながら前に出てくる。
少し離れた場所で見ていたガルドが、眉をひとつ上げた。
「おいイルス。お前、自分をベテラン側に入れたか」
「“新人の退き方を教える側”の経験、必要ですから」
イルスは少しだけ胸を張った。
「俺も、昨日まで“なんとなく退いてた側”なので。
ちゃんと教えられるようになりたいです」
ガルドは鼻を鳴らす。
「……勝手にしろ」
それは事実上の許可だった。
「じゃあ、始めましょうか」
太郎は、前の白線の手前に立った。
「まず、“前に出る”練習は、いつも通りやってください。
俺の世界でいうと、“仕事のやり方”の部分です。
今日やりたいのは、そのあとです」
太郎は棒で、一番後ろの線を指した。
「この線を、第二小隊でいう“荷車の位置”だと思ってください。
ここを守りたい。
で——」
今度は真ん中の線を軽く叩く。
「ここを、“退き始める合図の位置”にします」
隊員の何人かが首をかしげる。
「いつもは……もっと前まで行ってから、
押し返されそうになったら下がってますけど」
「それだと、“下がる判断”が、個人任せになっちゃいますよね」
太郎はうなずいた。
「強い人ほど、粘りすぎる。
粘られたら、後ろも道を作れない。
だから、ラインを決めておくんです。
“ここまで来たら、誰かひとりが合図を出す”。
“そこから先は、前に出ない”。
シンプルですけど、これだけでもだいぶ変わります」
ガルドが口を挟んだ。
「合図を出すのは誰だ」
「隊の中で、いちばん状況を見ている人。
……たぶん、分隊長か、ガルドさん、あなたです」
「俺か」
「はい。
でも、全部を一人で見きれないときは、
“任せる人”を決めておいてください」
太郎はイルスのほうを見た。
「昨日の戦いで言えば、
後ろを見る余裕があったのは、イルスさんでしたよね?」
イルスは少しだけ照れたように視線を逸らした。
「まあ……そうかもしれません」
「そういう人に、“退き始めの合図役”を任せる。
その人が“退くぞ”って言ったら、
誰も勝手に前に出ない。
そのかわり、“退き方”をちゃんと決めておく」
太郎は棒を置き、実際に隊員たちの前に立った。
「じゃあ、やってみましょう。
ベテラン側と新人側、二人一組になってください。
ベテランが前。新人が半歩後ろ」
ざっと足音が動き、きれいな二列ができあがる。
イルスと新人のライネが、太郎の正面に立った。
「今から、“前に出る”ところまではいつも通り。
そのあとで、ここ——」
太郎は中の線を足で示した。
「——まで来たら、“退き方の練習”に切り替えます。
前の人は、絶対に振り向かない。
後ろの人が“下がる方向”を見ます。
いいですか?」
ライネが小さく手を挙げた。
「えっと……後ろのほうが、周りを見るんですか?」
「そうです」
太郎は頷く。
「前の人は、敵から目を離せない。
でも、本当は“足場”と“退き道”も見ないといけないですよね。
それをひとりに全部やらせるのは、無茶です。
だから、後ろの人が“足場”と“通路”を見る。
退くときは——」
太郎は、イルスの背中に軽く手を添えた。
「後ろの人が、“押す側”になります」
ライネが目を見開いた。
「押す……?」
「はい。
前の人が“逃げてる”んじゃなくて、
後ろの人が“前の人を生かして下げてる”って意識で」
ガルドの目が細くなる。
太郎は続けた。
「前の人は、剣を構えたまま半歩ずつ下がる。
後ろの人は、足場を見ながら“こっちです”って押す。
さっきの斜面なら、
柔らかい場所を避けて通路に誘導する役ですね」
イルスが、ライネに向き直った。
「やってみようか」
「……はい!」
ガルドの号令が飛ぶ。
「前へ——進め!」
隊員たちが一斉に前線の白線へ向かって踏み出す。
剣を構え、模擬の掛け声を上げながら、決められた位置まで進む。
「そこから四歩前!」
ガルドの声に、前列がさらに進む。
太郎は、中の線の手前で腕を上げた。
「——ここから、“退き方”に切り替え!」
前列の足がそろって止まる。
後列がひと呼吸遅れて追いつき、前の背中に手を添えた。
イルスの声が飛ぶ。
「右半身、下がりながら——三歩!
左、被せて!」
ライネは片手でイルスの背を押しながら、足場を確認するように視線を走らせる。
前の列が、揃ったまま斜め後ろへ滑るように下がる。
その動きはまだぎこちないが、バラバラではなかった。
「もう三歩!」
今度は別のペアのベテランが声を上げる。
「通路沿いに退け! 柔らかい土を踏むな!」
太郎は、隊列が崩れないことを確認しながら、後ろの線を見た。
(……ちゃんと、守れてる)
誰も、最後の白線を無意識に踏み越えていない。
足がそろって下がってくる。
ガルドの声が飛ぶ。
「止まれ!」
砂煙がわずかに舞い上がり、列が止まった。
しばらく静寂が流れる。
ガルドは各ペアをざっと見回し、
太郎のほうへ視線を戻した。
「……悪くねぇな」
短い評価だったが、否定の色はどこにもなかった。
太郎はほっと息を吐きかけて、慌てて飲み込んだ。
「いまのを、何度か繰り返しましょう。
“前に出る”稽古のあとに、“退く”セットを必ず一回つける。
それを……そうですね」
太郎は少し考え、指を三本立てた。
「最低、三日は続けてください」
「三日か」
ガルドは顎に手をやった。
「少ねぇな」
「“まずは”です」
太郎は苦笑した。
「三日続ければ、
“やったことがある感覚”くらいは、身体に残ります。
あとは、戦いの合間に、ちょっとずつ回数を増やしていけばいい」
イルスが息を整えながら笑った。
「……やってみると、意外と難しいですね」
「どのへんが?」
「前を見て、後ろを押して、足場も見るって、
思った以上に頭使います」
「それが、“教える側の負荷”ですね」
太郎はうなずいた。
「でも、それを経験しておくと、
自分が前に出たときに、“退き方を教える側”の気持ちも分かりますよ」
ライネが、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「俺、今まで“下がると怒られる”って思ってましたけど……
“退き方を教えるために下がる”って考え方も、あるんですね」
「それを、ちゃんと口に出して言うのが、
これからのガルドさんたちの仕事です」
太郎がそう言うと、ガルドはわずかに目を細めた。
「柔角族。お前、どこの世界でも中間管理に回されるタイプだな」
「係長と主任は経験済みです」
太郎は肩をすくめた。
「どうせまた似たようなことやるなら、
今回は、もう少しマシな結果にしたいだけですよ」
砦の上空を、冷たい風が通り抜けた。
その風にあおられて、太郎の角がかすかに揺れる。
誰もそこに特別な意味を見出さないまま、
第一小隊の「退き方の稽古」は、その日何度も繰り返された。




