5-7 退き方ノ話
日が傾きはじめた頃、第一小隊はようやく砦へ戻った。
門をくぐった瞬間、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
それでも、歓声が上がるわけではない。
誰かは治療室へ。
誰かは装備の手入れへ。
誰かはそのまま壁にもたれて、黙って空を見ている。
太郎は荷車を所定の位置に戻すと、取っ手から手を離した。
掌に残った感触が、まだじんじんと熱い。
(……終わった、でいいのか?)
足元には、砦の土。
さっきまでいた前線の土とは違う匂いがした。
それだけで、別世界に戻ってきたような気がする。
そんな中で、後ろから低い声が飛んだ。
「柔角族」
振り向くと、ガルドが立っていた。
鎧の血はざっと拭われているが、細かい傷までは追いついていない。
それでも姿勢はまっすぐだ。
「さっきの通路の件だが」
太郎の心臓が、ひとつ跳ねた。
「……怒られる流れじゃないですよね?」
思わず出た弱めの冗談に、ガルドの口元がわずかに動く。
「怒る暇があるなら寝る。
逆だ。話を聞きたい」
ガルドは倉庫のほうを顎で示した。
「荷車から離れていい。少し歩くぞ」
太郎はうなずき、イルスも自然とその後ろについた。
砦の外壁沿いの、比較的静かな通路。
人の出入りが少ない時間帯を選んだのか、足音はほとんど聞こえない。
しばらく無言で歩いたあと、ガルドが切り出した。
「さっき、お前……斜面の足場、全部見て回ってただろ」
「ああ、見てました」
「どこで誰が崩れたか、分かるか」
「正確な人数までは分かりませんけど——」
太郎は立ち止まり、土の上に指で簡単な斜面の形をなぞった。
「ここが元のラインですよね。
で、このあたりに柔らかい帯がある」
指で一本、斜めの線を引く。
「ここ踏んだ人たち、ほぼ全員、足を取られてました。
重い鎧で沈む場所って、決まってるんだと思います」
イルスが思わず身を乗り出す。
「たしかに……あそこで滑ったやつ、多かったです」
「それと、退くときの話ですけど」
太郎はもう一本線を引いた。
「うまく退けてた人は、最初からここ——さっき作った通路のライン——を意識してました。
逆に、崩れた人たちは、前を見たまま、その場で回ろうとしてた」
ガルドは土の図をじっと見ている。
「つまり」
「“前に出る練習”はしてるのに、
“下がる練習”はまったくしてない気がします」
太郎は言葉を選びながら続けた。
「攻め方だけ教えて、退き方は“なんとなくで覚えろ”って、
それは……現場を潰すやり方だと思うので」
静かな空気がしばらく続いた。
先に口を開いたのは、イルスだった。
「……言われてみれば、そうですね」
彼は苦笑する。
「訓練場では、いつも前に出るばっかりで。
どこまで進んだら今日は終わりってルールはあるのに、
どこからどう下がるかを決めたこと、なかったです」
ガルドは壁にもたれ、腕を組んだ。
「前に出るのは、分かりやすい成果だ。
何人倒しただの、どこまで押し込んだだのな。
下がるのは、見た目だけなら負けだ。
だから後回しになってた。……それだけの話だ」
それは言い訳というより、状況の確認に近い口調だった。
「提案、していいですか」
太郎の声に、ガルドとイルスの視線が向く。
「前線に出る前に、せめて退き方だけでも、
簡単な形でセットにしませんか」
「簡単な形?」
「はい。たとえば——」
太郎は指で、新たな線を描いた。
「・“ここより後ろには絶対に退き道を一本作る”って決める
・“誰が合図を出すか”だけ最初に決めておく
・“退き始めたら、前に出ない”ってルールを徹底する
これだけでも、だいぶ違うと思います」
イルスが目を瞬かせる。
「そんな単純なことで……変わりますか?」
「単純なことほど、現場じゃ守られないんですよ」
太郎は自嘲気味に笑った。
「俺の職場でもそうでした。
忙しいから後でって言ってた決め事のせいで、何人も潰れかけた。
だから、いちばん壊れやすいところから先に決めたほうがいい」
ガルドはしばらく何も言わなかった。
やがて、深く息を吐く。
「……全部を変える話をしないのは、助かる」
その言い方に、太郎は少しだけ目を丸くした。
「いきなり戦い方を変えろって言われたら、
たぶん俺は聞かなかった」
ガルドは壁から背を離し、図を靴で軽くなぞる。
「だが、退き方を一本決めろくらいなら、
明日からでもやれる」
イルスが口を挟んだ。
「その……俺たち第一小隊で、試してみてもいいですか」
彼は太郎を見る。
「太郎さんの見え方を、俺たちの中で形にするっていうか」
「俺は構いませんけど」
太郎は首をかしげた。
「現場の人間がやる気ないのに、
外からこうしたほうがいいですよって言っても、続かないですし」
「やる。少なくとも、俺の隊ではな」
ガルドは短く断言した。
「退き方の訓練を、前に出る訓練のあとじゃなく、
セットにする。
次の出撃までに、最低限の形だけ作る」
「じゃあ……明日、時間少しだけもらえますか」
太郎は、ほんの少しだけ息を吸い込んだ。
「前に出る新人と、退き方を教える側のペアの組み方とか。
教えるって意識を持ってもらう仕組みも、一緒に考えたいです」
ガルドは太郎を見た。
その目は、戦場で敵を見据えるときほど鋭くはない。
ただ、評価と警戒と期待が、すべて混ざったような色をしていた。
「柔角族。お前は……戦わねぇのに、よくそこまで考えられるな」
「戦わないから、かもしれません」
太郎は苦笑した。
「前に出る人の代わりに死ぬ覚悟は、たぶん俺にはないです。
でも、前に出た人が生き残る確率を少しでも上げるなら、
俺にもまだやれることがあると思うので」
その言葉に、イルスはふっと笑った。
「それ、なんか……太郎さんらしいですね」
「らしい、って言われるほど、ここで何かしましたっけ、俺」
「しましたよ」
イルスはまっすぐに言った。
「ここまで荷車を運んで、通路を開けて、
今こうやって、どうすればいいかを一緒に考えてくれてる」
ガルドは鼻を鳴らす。
「……明日の朝、時間を取る」
短く、それだけ告げた。
「訓練場をひと区画、第一小隊用に押さえる。
退き方の稽古とやら、見せてもらおう」
「了解です」
太郎は頭を下げた。
風が通路を抜ける。
頭の上で、角がかすかに揺れた。
それに気づいた者はいなかったが、
その揺れは、太郎の中で何かがひとつ決まった合図のようにも感じられた。




