5-6戦いのあと
いつ、音が戻ってきたのか分からなかった。
ただ、気づいたときには、どこかで誰かがうめき、どこかで誰かが叫び、どこかで誰かが名前を呼んでいた。
太郎は荷車の取っ手にもたれたまま、自分の呼吸がちゃんと続いていることを一つずつ確認した。
(……生きてる)
喉が焼けたみたいに痛い。
砂と血と煙の味が、口の奥から消えない。
前線だった斜面は、さっきとまったく違う景色になっていた。
盾の列は少し後ろに下がり、えぐられた地面の手前に新しいラインが引かれている。
焦げた土。
割れた岩。
そこに転がる、形の分からなくなった何か。
視線を長く留めてはいけない気がして、太郎は意識的に目をそらした。
「太郎さん!」
背後からイルスの声が飛んできた。
振り返ると、彼は片腕を包帯でぐるぐる巻きにされながらも、まだ立っていた。
顔は土と血で汚れているが、目ははっきりしている。
「さっきの通路、助かりました。
あれがなかったら……戻れなかった人、もっと多かったと思います」
「……それは、こっちの台詞ですよ」
太郎は力の入らない声で返した。
「押し返してくれなかったら、俺たち、通路ごとまとめて飛んでましたから」
言いながら、荷車の前に視線を落とす。
岩陰と荷車のあいだ。
さっきまで隊員たちが駆け抜けていった細い通路には、まだ足跡が濃く刻まれていた。
土が掘れ、ところどころ滑ってえぐれている。
(ここで誰か転んでたら、後ろが全部潰れてたな)
想像だけで、背中に冷たい汗がにじむ。
少し離れた場所では、ウルダが忙しなく動き回っていた。
「傷の深い人からこっち!
歩けない人は寝かせて!
包帯、もう一束!」
布と薬草の匂い。
血と焼けた土の匂い。
それらが入り混じった空気の中で、ウルダの声だけが妙に通る。
太郎は荷車の横にしゃがみ込み、通路のすぐ脇に置いていた木箱の蓋を開けた。
中は、思ったほどぐちゃぐちゃではなかった。
崩れかけた包帯の束を除けば、ほとんどの物資は元の列を保っている。
(……よく持ったな)
箱の縁には、小さなひびが入っている。
でも、中身は生きている。
今もウルダの手に渡り、誰かの傷を結び、命をつなぎとめている。
その様子を眺めながら、太郎の頭の奥に、じわじわと別の考えが浮かび始めた。
(ここまで運べたのは、たまたまじゃない)
崩れた盾。
折れた槍。
斜面に残された足跡の軌跡。
そこに、「偶然」だけではない共通点が見え始める。
前線から戻ってきた隊員の多くは、ほとんど同じような場所で傷を負っていた。
盾を構えた腕。
露出した太もも。
上からの一撃を受けた肩。
(同じパターンで、同じところをやられてる)
そして、もう一つ。
戻ってきた者たちの動き。
うまく退いているやつは、最初から「どこに下がるか」を意識していた。
うまく退けなかったやつは、最後まで「前だけ」見ていた。
(……教えられてない)
胸の中に、重い石が落ちた。
攻め方は、それなりに叩き込まれているのかもしれない。
でも、「退き方」も、「守り方」も、まして「新人にどう教えるか」なんて、誰もきちんと整えていない。
訓練でやっていないことは、本番ではできない。
主任だった頃、何度も見てきた当たり前が、今ここでもそのまま繰り返されている。
「柔角族」
荒い声が飛んできて、太郎は顔を上げた。
ガルドだった。
鎧のあちこちに傷が増えている。
血で濡れた袖を無理やり縛り、額の汗を乱暴にぬぐいながら歩いてくる。
「荷車の損耗は?」
「箱ひとつ、ひび割れました。
中身はまだ使えます。魔石も無事です」
「そうか」
ガルドは荷車と通路をぐるりと見回し、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「……よく持たせたな」
「たまたま、です」
太郎は肩をすくめた。
「たまたま岩がいい位置にあって、
たまたま通路も塞がらなかっただけで」
「たまたまが何度も続くなら、もうそれは“狙ってやった”ってことだ」
ガルドは短く言い、斜面のほうへ視線を投げた。
えぐられた地面の手前。
元のラインと、新しいラインの中間あたり。
「あの辺りで、いちばん崩れたな」
「やっぱり、そうですよね」
太郎はうなずいた。
「戻ってきた人たち、だいたいあそこから足を引きずってました。
足場、悪いですよね? あの切れ目」
「悪い。前から分かってた」
ガルドはあっさり認めた。
「土が柔らかくて、鎧の重さで沈む。
慣れてるやつは避けるが、若いのは平気な顔して突っ込む」
「誰かが、事前にここ踏むなって教えたりは?」
「……そこまでは、回ってねぇな」
ガルドの声に、わずかに自嘲が混じる。
「剣の振り方と魔法の撃ち方で手一杯だ。
細けぇところは、現場で覚えろって話になっちまう」
(出た、現場で覚えろ)
太郎は心の中でだけ、深く息を吐いた。
どこの世界でも聞き飽きた言葉だ。
「前に出る練習は、どれくらいやってます?」
太郎は、あえて問いをずらした。
ガルドの眉が、わずかに動く。
「剣と魔法は、基礎からみっちりやってる。
訓練場もある。模擬戦も組んでる。
新人を前に出すときは、必ず誰かが隣に付く」
「じゃあ、前に出ることは教えてるんですね」
「ああ」
「前に出したあと、どう生かすかは?」
ガルドが黙る。
イルスが、息を呑む気配を見せた。
「俺の世界でも、似たようなことがありました」
太郎は自分の指を見下ろした。
血と土で汚れた手だ。
「新人には仕事のやり方だけ教えて、
ミスしたときどうするか限界が来たときどう言うかを教えない。
その結果、前に出したやつから順番に潰れていく。
現場がきついのは当たり前だろって顔をされながら」
言いながら、胸の奥がひりついた。
主任として見てきた、何人もの潰れかけた背中が頭をよぎる。
「ここも……少し似てる気がします」
ガルドはしばらく何も言わなかった。
斜面を見て、戻ってくる隊員を見て、足元の足跡を見て、
それからようやく口を開く。
「戦えるようには、叩き込んでるつもりだ」
声はいつもどおり低く、荒れている。
「だが……育ててるかどうかと言われると、
胸張って頷けるかは、微妙だな。
育て方を考える余裕がねぇまま、戦のほうが先に増えちまった」
「そのツケが、いま前線に出てるってことですね」
太郎が言うと、ガルドは鼻を鳴らした。
「言ってくれるじゃねぇか、柔角族」
「柔角族は、そういうところを見ちゃう種族らしいんで」
太郎は苦く笑った。
ガルドの口元が、わずかに歪む。
笑ったのか、苦い顔なのか判別しづらい表情だ。
「……今すぐ全部変えるのは無理だ」
ガルドは、いつもの調子に戻った声で言った。
「だが、今日みてぇな死に方を、毎回させる気もねぇ。
柔角族。お前の見え方を、あとで聞かせろ」
「あとでってことは、生きて帰る前提ですね」
「当たり前だ。死ぬ気なら、最初から連れてきてねぇ」
言い捨てるようにして、ガルドは前線のほうへ歩き出した。
戦いは、完全には終わっていない。
遠くでまだ、魔力がぶつかる音が続いている。
それでも、さっきまでの「落ちてくる空」の直後に比べれば、
今はわずかに、呼吸を整える余白があった。
太郎はひとつ深呼吸をして、岩陰から少しだけ外へ足を踏み出した。
えぐられた斜面。
足場の悪い場所。
誰がどこで倒れ、どこから戻ってきたのか。
それを目と足で、ひとつずつ確かめていく。
(ここから、育て方を変えないといけない)
戦い方だけじゃない。
退き方も。
守り方も。
新人に何を、どの順番で教えるかも。
頭の上で、角が風に揺れる。
太郎はそれに気づきもしないまま、ぐしゃぐしゃになった戦場の断片を、自分なりの「メモ」として心に刻みつけていった。




