5-1 前線の朝
まだ空が白み始める前。
砦の一角だけが、すでに動き始めていた。
「……起きてますか?」
イルスの控えめな声とともに、太郎は薄く目を開けた。
眠った気がしなかった。
まぶたの裏にこびりついていたのは、昨日の帰還した姿のままだ。
(……あの馬車も、あの傷だらけの顔も……全部、昨日の話なんだよな)
胸の奥がきゅっと縮む。
でも、時間は待ってくれない。
外に出ると、砦の空気が肌に刺さった。
冷たい――だけじゃない。
空気そのものが、微かにざらついていた。
魔力の粒が夜気に溶けきらず、
朝霧の中でうっすらと淡い光を帯びて漂っている。
(……これが、戦場の朝か)
砦の外では、すでに第一小隊の面々が装備を整えていた。
声は少ない。
冗談もない。
一晩を生き残った者たちの、沈んだ呼吸音だけが漂っている。
その中で、ひとりの隊員が胸当てに触れると、
刻まれた紋章がわずかに赤く脈動した。
もうひとりは鎧の腕部分に触れ、
淡い青い膜のようなものが一瞬だけ揺らめいた。
(……え、なに今の……?)
説明はない。
だが、太郎には異世界の戦支度を見せつけられている感覚があった。
その空気の中に入っていくと、
太郎は思わず足を止めそうになった。
同じ場所に立っているのに、自分だけ外側にいるような感覚。
(……俺だけ、昨日の続きのテンポに乗れてない)
背筋が勝手に固くなる。
荷車の定位置近くでは、
黒い毛並みの魔獣が低く唸っていた。
その瞳は夜の残光を宿したまま、森のほうを睨み続けている。
背毛がゆっくり逆立ち、魔力の揺らぎに反応しているのが分かった。
太郎は荷車の取っ手を握りながら、呑み込んだ唾が喉で引っかかった。
(魔獣なんて言葉、現世じゃゲームの中の話だったのに……)
荷車に積まれた魔石が、
隊員たちの魔力の気配に反応したように
ときどき微かに脈打つ。
(うわ……これ、爆発しないよな……?)
怖いのか、寒いのか、自分でも判別がつかない震えが腕に走る。
ガルドの低い声が落ちてきた。
「柔角族、そっちは終わったか」
問いかけなのか確認なのか分からない。
太郎は慌てて姿勢を正した。
「は、はい。すぐ移動できます」
ガルドは短く頷いた。
その額の古傷が、夜明け前の光にかすかに反射した。
昨日よりも表情が硬い。
目の奥に深い疲れが沈んでいる。
ただ、その背に迷いはない。
その落ち着きが逆に太郎を焦らせた。
(昨日の死者が誰だったのか、聞ける雰囲気じゃない……)
誰も泣いていない。
誰も声を荒げない。
ただ淡々と、今日を迎える準備をしている。
その当たり前さが、太郎には一番怖かった。
イルスが小さく声をかける。
「太郎さん……行きましょう。
ここで遅れると、列に入り損ねます」
「あ、うん。行こう」
返事をした瞬間。
また置いていかれたくないという感覚が胸にせり上がった。
太郎は荷車の取っ手を握りしめ、深く息を吸った。
角が、小さく揺れた。
風か緊張か、自分でもわからない揺れだった。
そして、第一小隊の背中へと歩き出した。




