第十一話 『十一』
次の僕は包丁を持っていた。それを持って調理をしているのか、と思ったが、そうではないらしい。人を刺すために持っている。一体、この包丁で誰を刺すというのだろう?僕はある人に眼の焦点を合わせていた。たぶん、僕が刺そうとしているのはそいつだろう。そして、そいつとは僕の兄のことである。一体、どのような殺意が含まれているのだろうか?簡単な理由だ。ただ単に兄がいつになっても、僕にゲームのコントローラを握らせてくれないからだ。自分ばかりゲームをしている。僕だってやりたい。
「僕にもゲームやらせろ!」
泣きながら僕はそう言った。その場にいた皆は笑っていた。どうせ、僕が小心者だ、と彼らは思っているからだろう。だが、僕は本気だ。本気で兄を殺そう、と考えている。
『おいおい、どうせ刺せねえだろう?』
そう言って兄は挑発してくる。どうせ、無理だからって馬鹿にしているんだ。僕は許せない。何もかも独占する兄が。
「本気だ!」
僕は叫んだ。さらに皆は笑う。
『じゃあ、刺してみろよ』
そう言って、兄は手を胸に当てる。ここに刺してみろ、と言っているのだろう。絶対に刺してやる。絶対に殺してやる。
『出来ないじゃないか』
「うわあああああああああ」
そう叫んだときにはもう既に兄の胸には包丁が刺さっていた。兄の胸周りは血に染まっていた。そして、僕にもいくらか返り血を浴びていた。どうやら、僕は本当に兄を殺ってしまったらしい。後戻りなんてできない。いや、これでいいんだ。僕にゲームをやらせないのだから。
『人騒がせな奴だな』
兄の胸に刺した感触がいつのまにか消えていた。僕の手にはしっかりと包丁があった。だが、その包丁は兄の胸には刺さっていない。兄自身も血に染まってなどいない。一体、どうなっているんだ?確かに僕は兄を刺した。兄の呻き声も聞こえた。なのに、何故今の兄はあんなにも平然といられているんだ。
そこで僕は思い出す。自分が土のなかにいることを。だからなのか、僕が包丁を持っていたのは。僕は何故か忘れていた。憎しみが僕のなかで溢れていたからなのだろうか?その感情だけが僕を支配することができるものなのかもしれない。
『何だったんだよ、一体』
こっちがその台詞を吐きたい気分だった。だけど、今起きていることは土のなかのことなんだ。僕にどうすることもできない。ただ、見届けることしかできない。結局、僕はどこにいるのだろうか?どういう存在なのだろうか?
『あいつのことなんか放っておこうぜ』
誰かが言った。兄なのかもしれない。それとも、兄の友人なのかもしれない。もしかしたら、僕の友人(本当は違うのだが、色々と面倒なのでここではそう言っておこう)なのかもしれない。どちらにせよ、この言葉は過去の言葉である。僕を苦しめたひとつの言葉に過ぎないのだ。
「僕はゲーム……」
『はあ?何か言った?』
何も言えず、僕は拳を握り締めるだけだった。握り締めた手がメキメキと音が鳴っているが、痛みは感じない。精神的な痛みが身体的な痛みに優ったからだ。
『いけいけいけ』
皆がゲームで楽しんでいる後姿を呆然と立ち尽くしながら見ることしかできなかった。僕だけが疎外されている。包丁を持っても誰も何とも思わなかった。
『やれやれやれ』
皆がゲーム画面に向けて腕を振り、はしゃいでいる。僕だけが外側にいる。その空間に入り込むことができないでいる。いつも、彼らの後姿しか見えない。どんな武器を持ち込んでも、彼らが囲んでいる壁を壊すことはできない。誰も振り向いてくれない。さらに、壁を強固なものへとなっていく。誰も僕のことなんか真剣に取り合ってくれない。僕は外側にいるから。皆と違う場所にいるから。いや、どこにも僕はいないから。
『いけいけ、よしそこだ』
彼らの声が遠くから聞こえる。近くにいるはずなのに、僕には届かなかった。その遠さがどこまでも僕をどこまでも苦しめていく。一体、何回死にたい、と思ったのだろうか?気付けば、僕の足場が崩れていった。いつも、誰かが僕の邪魔をする。見たくもないものを何度も何度も見せてくる。分かっているはずなのに。自分が苦しむことを。
『お前なんかどこに行っても駄目なんだ』
頭のなかにいる誰かが僕の過去を掘り返した。
『絶対就職できないよね』
『歩き方が変だよ』
『蛆虫みたい』
『お前は異常が正常みたいだからな』
『お前まだいたの?』
『障害者は黙ってろ』
『お前って優しいな』
『少しは反抗してみたらどうだ?』
『お前のそういうところが嫌い』
『ちょっとは人のことを考えろよ』
『気持ち悪いから近づくじゃねえよ』
全て僕を苦しめた言葉。もう随分と昔のように思えてくる。だが、実際はごく最近のこと。土に埋められる少し前に言われた言葉。どんなに昔でも、どんなに最近でも、僕を苦しめているものだったらそれは同じこと。結局、問題なのは時間の経過ではなく、僕の頭のなかに残っているか、だ。
僕はもう嫌になった。過去を思い出す土のなかに居続けるのは。ただただ、自分を苦しめるだけなのだ。もう見たくない。何も見たくない。知りたくない。思い出したくない。何もしたくない。ただ、誰もいないところで蹲りたい。
それでも、まだ続く。今いる世界は崩れていく。結局、見なければならない。次の世界もここと同じように過去を思い出させるのだろう。ここは地獄だ、と思った。いや、地獄よりも残酷なのかもしれない。こんなの生きている、とは思えない。死んでいる、とは思えない。
一体、僕はどこにいるんだ?




