第十話 『十』
僕は手足を地面に叩きつけながら走っていた。僕の走る速度は風を切る。一人だったなら、その風を清々しい、と思っていただろう。だが、僕の背中には誰かが乗っていて僕の尻を何度も叩く。痛みに耐えながらも、ここにいる誰よりも速く走らなければならない。それが僕の役目となっている。何でそういう風になっているのかは分からない。ただ、速く走らないと上に乗っている誰かが僕に対して怒鳴ってくる。主人も僕の体を鞭で何度も叩きつける。痛い思いをしたくないので、仕方なく速く走っている。
『おい、尻大丈夫か?』
隣を走っているダイワスカーレットが話しかけてくる。
「ああ、大丈夫だ。何度も主人が僕を叩いているからね」
『お前も大変だな』
そう言った矢先に彼の上に乗っている誰かが尻を叩いた。
『いってぇ』
彼は痛みに耐えながら、速度を上げていく。通り過ぎるときに、彼は僕だけにしか聞こえないようにぼそぼそと呟いた。
『何のために俺たちは走っているんだろうな』
全く持ってその通りだった。一体、彼らは何を考えているのだろうか?僕には到底理解できない。
「いけけんとえおえのえめおえ」
上に乗っている誰かが僕に向けて、何か言ってくる。そして、僕の尻を何度も何度も叩く。尻がヒリヒリしたが、とにかく速く走らなければならない。僕は足の速度を上げ、ダイワスカーレットを追い越そうとしたが、彼は何度も何度も、僕よりも尻を叩きつけられたせいで、さっきよりも速く走っている。きっと、彼は僕よりも悲惨な人生を送ったのだろう、と思った。
『うおおおおおお』
ダイワスカーレットがゴールした瞬間、僕らが走っている場所を囲んでいる多くの誰かが声を沸かしていた。耳を塞ぎたいほどの大きさで、僕はまたうんざりした。一体、この走りに何の価値があるというのだ?
『はあ、うんざりするよ』
一番速く走れた彼が僕に話しかける。彼の顔は疲れきっていた。たぶん、尻を叩かれ過ぎてしまったからだろう。彼の足が速くなるのも、叩きが僕よりも強かったせいだろう。
「尻大丈夫か?」
そう僕が尋ねると彼は不機嫌になる。
『大丈夫じゃないよ。お前も分かっているだろう。あんなにも叩かれたんだぞ』
確かにそうだ。わざわざ言う必要なんてなかった。自分も同じような立場に立っているのだから、彼の苦しみは分かっているはずだ。それを言葉にするということは残酷な行為なのだ。
「すまない。言葉にする必要なんてないよな」
『別に気にしてねえよ。あと、いちいちそういうことを言うなよ。余計に腹立つから』
「ああ、気をつける」
僕たちの関係は確実に崩れてしまった。僕が余計なことに首を突っ込んでしまったせいだからだろう。他人に自分の苦しみを分かってもらいたくないし、心配なんかもしてもらいたくない。
僕は空を見上げた。白い空。多量の紫外線を放出しつづける太陽。僕は羨ましかった。他人には侵されることのない領域にいるからだ。僕の声も届かないくらいに。あいつらは下にいる奴なんか気にしていないだろうな。ただ、僕たちの不幸を笑っている。責め続けている。
『おい、動け』
僕の上に乗っている誰かが尻を叩く。周りを見てみると景色が変わっていた。僕がいた競馬場はなくなっていて、代わりに僕の通っていた小学校の教室になっていた。また、過去が僕のなかに入ってきた。どこまでもどこまでも僕を貶めていく。
『おい、どうしたんだよ?ちゃんと動けよ。お前は馬なんだろう?』
僕の背中で馬乗りしているクラスメイトは何度も何度も僕の尻を叩き続ける。僕は痛い尻を押さえてうろたえる。
『何だよ、これぐらいで駄目になりやがって。お前は馬じゃないのかよ』
僕は馬なんかじゃない。ただの人間だ。なのに、何でお前は僕の背中に乗り続けているんだ?無駄に身体が重いお前が。僕は彼を睨みながらも、彼の言うとおりに馬のように歩いた。そんな自分が惨めだった。僕は誰に対しても歯向かうことなんてできなかった。誰の言うことも聞いていた。皆はそれを優しさと言う。違う、ただの弱虫だ。いや、本当は分かっているのかもしれない。僕をもっと貶めるためにそんな言葉を使っているだけなのかもしれない。
『おい、さっさと動け』
僕は走った。だが、馬ではなく人間である僕は背中に人を乗せながら走っていくのは難しかった。だから走る途中、上に乗っている彼を落としてしまった。彼は落ちるとき、机の角に頭を打った。ざまあみやがれ、と僕は思い、少し笑ってしまう。
『おい、今俺のこと笑っただろう』
「いえ、別に僕は」
『いいや、お前は笑った』
彼は片手で僕の体を押さえながら、もう片方の手で僕の頭を叩いた。彼が何度も何度も叩いてしまって、僕の脳細胞も何度も何度も死んでいった。
『おい、馬のくせに人の言うことも聞けないのか。この役立たず!』
今度は僕の腹を蹴る。腹筋のない僕はそこが一番痛かった。僕は痛みに耐えながらも彼の顔を見た。彼の顔は醜かった。ニキビが顔中に広がっており、鼻からはいつも鼻水を垂らしていた。汚らしい彼は僕よりも地位が高く、いつも僕を見下していた。そんな現実が悔しかった。
どんな奴でも、僕より下になることがない。何故、こんなことになるのだろうか?考えなくても、その答えはすぐに出た。僕が何をされても何ひとつ文句も言わないせいだからだろう。僕は怖いのだ。他人に対して反抗してしまったら、自分の身に何かが降りかかってくるのではないか、と考えてしまうのだ。だが、そんな態度でいるせいなのだろう。暴力を振るったり、言いたくないことを無理強いさせられた。僕はずっと耐え続けていたんだ。もういいのではないか。こんな奴のために耐える必要なんてどこにもない。もう我慢しなくてもいいんだ。反抗したっていいじゃないか。
僕は掃除をしていた。彼は掃除をせずに、まださっきのことを根に持っていた。僕が雑巾で教室の床を拭いているのにもかかわらず、邪魔ばかりをしてくる。僕の持っている雑巾を奪ったり、頭を殴ったり、腹を蹴ったりもした。ついには、僕にまた馬乗りをした。腹が立った。我慢の限界だ。ただ、僕は掃除をしたかっただけだ。いや、誰も率先してやりたい、とは思わない。だが、与えられた仕事はきちんとやっておきたかった。それなのに、真面目に生きようとしている奴に、彼は水を差すようなことばかりしてくる。許せなかった。
僕はいつのまにか、彼に向けて雑巾を投げていた。もう、そうなってしまったら自分を制御することはできない。彼の胸倉を掴み、壁に投げ捨てた。それだけでは僕の怒りは収まらなかったが、先生に何か言われては面倒だ、と思い、何とかそれで抑えた。それだけでもよかった。ついに僕は彼に逆襲することができたんだ。ほら、見ろ。あいつは今も僕の顔を呆けて見ている。いかにも、馬鹿そうな顔をしてやがる。やってやったんだ。いつのまにか、怒りを忘れて、僕は満足していた。
だが、それは僕がやったことではなかった。過去の自分がやったことだった。だから、どんなに僕が喜んでも意味のないことだった。どうせ、そのあと自分がどうなったのかを知っている。何も変わらなかったんだ。また、いつものあの過酷な生活が待っているだけだった。いっそのこと何もせずに耐えたほうが良かったかもしれない。自分がどういう立場の人間なのか、より一層に分かってしまったから。
なあ、いつまでこんなことを続けるんだ?次はどんな奴になるんだ?どんな過去を見せてくれるんだ?もう何も見たくない。だけど、きっと見らずにはいられないんだろうな。土のなかにいても考えることは一緒なんだ。一体、現実と何が違うのだろうか?他人がいないだけなのか。いや、いるのではないか。僕の頭のなかには数え切れない者たちがたくさん。笑ってしまう。くだらなかった。何で僕は土のなかにいるのだろうか?いつからだろう?何もかもが全部嘘のように思える。いや、もう嘘なのかもしれない。全部偽者なんだ。自分が生きやすいようにこの世界を創っているのかもしれない。だから、僕はいつまでもこの世界から抜け出せずにいるのだろう。
彼の顔が壊れていく。そして、僕も壊れていく。結局、僕も彼もこの世界ではただの風景に過ぎなかった。壊れていく世界で僕は新たな世界を見た。そこには包丁を持っている少年がいた。いや、あれは僕だ。過去の僕だ。次はあそこに行かなければならないのか。僕は眼を閉じて、そこに近づく。




