第十二話 『十二』
僕は違う世界に入っても、眼を開けよう、とはしなかった。もう見たくないからだ。自分の夢を。僕は憧れていた、嫉妬していた。自分には手に入らないものだ、と分かっていた。それでも欲しかった。この手に収めたかった。だが、無理だった。こんな世界でも手に入らなかった。いつまでも付きまとう過去のせいだ。過去があったからこそ、憧れたり、嫉妬したりすることができる。だから、その夢を見るということは過去を思い出すことと同義なんだ。
一体、どのようにしたら僕は苦しまずに済むのだろうか?何も思いつかない。死ぬことしか。いや、死んでも同じような気がする。そのまま僕の魂が消滅せずに、天国や地獄に行ったとしたら、僕は今と同じような世界を創って、今と同じように苦しむのだろう。それとも、天国や地獄もなく、魂も消滅できる僅かな可能性に縋るのか?
もう、可能性のことなんか語らなくていい。死ぬとか、苦しいとか、どうでもいい。今は土のなかにいるんだ。そのなかで、自分が何にも感じない世界を探し出せばいい。それを見つけるのに、どれほどの時間を消費するのかは分からない。ただ、見つけ出さなければならない。そのためにはこの世界がどんな世界かを確認しなければならない。それが自分を苦しめるものだとしても、それが自分を幸福にさせるものだとしても、それが自分の望むものだとしても。
眼を開けると、そこには少女がいた。僕は少女を抱いていた。こんなことは予想していなかった。そのせいで、なかなか現状を上手く捉えることができない。考えるたびに頭が混乱する。どうやら、何かが詰まっているようだ。精液かな。そんなわけないか。
『ねえ、どうしたの?さっきから上の空だけど』
少女の声は綺麗だった。いや、顔までもが綺麗だった。瞳は大きく、睫毛が長く、唇は薄く、鼻は透き通っていた。そして何よりも、少女の肌はとても柔らかく、壊れてしまう気がした。
そんな少女が僕の隣で寝ているなんておかしな話だ。僕は今までに一度だって女の子と付き合ったことがない。会話すらしたこともない。なのに、今の僕は少女と付き合っている。少女と過ごした思い出がある。少女と何度も交わした記憶がある。不思議な感覚だ。まるで僕のようであり、僕ではないみたいだ。
『ねえ、聞いているの?』
「ああ」
僕が少女と出会ったのはある寂れた公園だ。そこで、ブランコを漕ぐ、ある一人の女の子がいた。それがあの少女だ。涙を流しながらブランコを小さく揺らしていた。その姿は幻想的で僕の心を魅了させた。
「ねえ、泣いているの?」
『え?』
誰もいない、と思ったのだろう。それもそのはず、こんな錆びれた公園に誰も来るはずがなかった。遊び道具のほとんどは錆びていて、下手をしたら怪我を負うだろう。最近の子供だって、その親だって、わざわざ、この公園で遊ぶことを望んだりはしない。だからこそ、少女はここでブランコを漕ぎながら泣いていたのだろう。
「何で泣いているの?」
『さっきから何なのですか?放って置いてください』
そうなるのは至極当たり前のことだ。誰も知らない人なんかと会話を合わせることなんてできない。自然の会話をするためにはそれなりの時間を有するだろう。いや、そんなことはどうでもいいことである。とにかく、少女と話さなければならなかった。
「何かあったの?」
自分はお節介な奴だ、と思った。たぶん、彼女だって迷惑だ、と感じているだろう。
『別に何でもないわ』
僕の顔を見よう、とはしない。やはり、少女は僕のことを迷惑だ、と思っている。それでも、僕はあの少女と話さなければならない。それは宿命なのかもしれない。いや、少女には僕をそうさせる力があった。
「何故君はここに?」
僕はまた疑問をぶつけた。
『あなたこそ何故ここに?』
疑問を疑問で返されてしまった。僕は仕方なくその問いに答えることにした。さすがに、自分の身を話さずに少女の話を聞くのは気が引ける。
「ぼ、僕はその、え、えっと……」
言葉が出なかった。何故、自分がここにいるのかが分からなかったからだ。たまたま公園に入ったら少女がいた。ただそれだけのことだ。理由なんてない。何故、わざわざ僕は自分の家からかなり離れた場所にある錆びれた公園にいるのかなんて分からない。気付いたときにはここにいた。本当にそれだけのことだ。
「分からない。何故、自分がここにいるのかが」
そう言うと、少女は笑い出した。そのとき、初めて少女の顔が窺えた。美人だった。少し触れただけで壊れそうな少女だった。そんな彼女が笑う。何だか奇妙に思えた。だが、そんな顔も僕を魅了された。
『ふふふ、あなたって変なの。何にも分からずにここに来たの?バカみたい。何だか泣いていたのもバカらしくなってくるわ』
少女はブランコから飛び降りる。軽やかな着地を決めた少女は僕に近づき、顔を覗く。そんな行為をされながら、僕は今日何を食べたのかを考えていた。餃子は食っていないはずだ、ならば、炒飯だったっけ?それとも、オムライスだったかな?いや、普通の揚げ物だったようにも思われる。もしかしたら、麺類だった気もする。うん、確かにそうだった。麺類だった。だったら、口臭は気にしなくてもいいはずだ。そんなことを考えていたら、また少女に笑われた。
『ふふふ、本当におかしな人。あなたの顔ってなんか他の人とは違う』
一体、それはどういう意味だろう?僕が他の人よりも悲惨な顔をしているということなのだろうか?もしも、そうなら僕のガラスのハートは傷ついてしまう。そんなに大層なものではないが。
「僕の顔って変?」
『うん、変』
彼女の笑顔には邪気がなかった。僕は落胆する。悲惨な顔をしていたのだ、と少女の口から出てしまったからだ。
『ううん、そういう意味じゃない』
僕に気を遣ってくれているのだろうか?もしも、そうなら余計に傷つく。
『ただ、他の人よりも表情が豊かだなと思って』
何だそんなことか。こんな娘が面と向かって顔が悲惨なんて言うはずがなかった。可憐な少女。僕は恋をした。一目惚れした。
『ドキューン』
ハートが射ち抜かれた。僕は少女にメロメロ。僕の眼はハート型になっている。少女のことを考えると胸の鼓動がうるさくなる。僕の頭の中には君しかいない。ああ、何て可愛いらしい少女なんだ。抱き締めたい。
『さあ、私の胸に飛び込んで来なさい』
『え?いいのですか?』
僕は少女に言われた通りに抱きついた。ああ、温かい。少女の心臓の鼓動が聞こえてくる。その音は僕の心を落ち着かせる。
『これが恋なんですね』
僕がそう言うと少女は眼を瞑りながら頷く。
『ええ、そうね』
『ああ、愛しの君』
僕は彼女にキスをした。唇と唇を軽く、くっつけただけだった。それでも、少女の唇の柔らかさと温もりは忘れそうにはなかった。
『ああ、愛しの君』
……ああ、何て馬鹿らしいことをしているのだろう、と思った。もちろん、漫画少女みたいな出来事は少女と僕の間に行われていない。ただ、そういう風な妄想をしているだけだ。いや、そもそもこの世界自体が僕の妄想だ。僕みたいな奴が美少女と一緒に寝られるはずがないのだ。それに、現実の世界に漫画のような偶然性はどこにも存在しないんだ。ずっと求めることしかできない。
「君のうちはどこ?」
少女を背負って、僕は道を聞く。
『いやだ、帰りたくない』
少女は僕の首に回していた手を強める。
「いててて、人の首を絞めんなよ」
『だって、離れたくないんだもん』
僕の首を絞めていた手を緩める。こういう素直な彼女が僕は好きだ。夕日を背景に少女を背負っている光景がどこか遠くのように感じる。だが、それは実際に起こっていて、少女の胸が背中に当たっている。
『ねえねえ、あなたの家に行ってみたいわ』
「はあ?」
あまりの展開に僕は戸惑ってしまう。僕の歩みも次第に遅くなっていく。ついには歩くのをやめてしまった。
「自分で何を言っているのか、分かっているのか?」
背にいる少女を見る。少女は別に困った様子はなかった。
『うちに電話すれば問題ないでしょ?』
少女はそれが当たり前でしょ、と言う。
「はあ?問題ありありだよ。君は未成年なんだろう?そして、僕は大人だ。そんな奴の家に泊まると親が聞けば、警察沙汰になるかもしれない。いや、なるはずだ。最近は物騒だからな」
『大丈夫よ。私の両親って放任主義だから』
「なら、いいか」
いいのかよ。
……そうして、僕は少女を自分の家へと連れて行った。
この状況は僕の望んでいたものなのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。女の子が欲しかった。女の子と恋愛がしたかった。どんな破滅的な恋愛でも。どんな形であろうとも、今起こっていることは恋愛なんだ。誰が言おうとも、それは変わらないことなんだ。阿呆みたいだ、と皆は言うだろう。だが、そんなことは僕に関係ない。
結局、僕は何が言いたいんだ?何に対してそんなに熱くなっているんだ?自分の愚かさを認めたくないのか?いや、違う。僕は愚かな人間だ、と自覚はしている。その事実から逃げようなんて思わない。言い訳は聞き飽きた。そろそろ、僕は僕だと言う行動をしなければならない。示さなければならなかった。
『ねえねえ、聞いているの?』
現在へと戻る。裸の少女、いや、裸の彼女は僕を寂しそうな顔で見る。
『あなた、ちゃんとここにいるよね?』
「え?何言っているんだ?僕はちゃんといるじゃないか」
彼女は頭がおかしくなってしまったのだろうか?たぶん、そうじゃないだろう。彼女は僕を心配しているんだ。彼女はそういう人なんだ。僕の記憶の中での彼女は。
『そうだよね。何言ってるんだろう?私』
「たぶん疲れているんだろう。休みなよ」
『そうね、そうする』
そう言って彼女は僕の隣で眠った。さっき彼女が言ったことを考えてみた。いや、考えなければならなかった。『ちゃんとここにいるよね』『チャントココニイルヨネ』『チャンと個々に射るよね』『ちゃんとここにいるよね』彼女は僕の何かを疑っているのか?だが、そのあと彼女は『何言っているんだろう?』『ナニイッテイルンダロウ』『何逝っているんだろう?』『何言っているんだろう?』と呟いていた。もしかしたら、それは彼女自身の言葉ではなく、誰かに植え付けられた言葉ではないのか?何だか馬鹿らしくなってきた。結局、何を考えればいいのか分からなくなっていた。考える内容は重要ではなく、その行為自体に意味があるのだろう。そうだとしても、馬鹿げていた。僕は目を瞑った。こんな馬鹿げた世界は終わりにしよう。こんなの僕の望むものではない。何が漫画だ。こんなのただ虚しいだけじゃないか。いつだって自分がいるんだ。どんな世界にいっても。僕が存在する限り、こんな世界を幸福に感じることなんてできないんだ。
『ねえ、起きて』
僕は彼女の声で眼を覚ました。だが、まだ身体は休息を欲していた。だから、彼女からすれば、僕はまだ眠っているのだろう。起きなければいけない。そのまま放っておくと、彼女は僕の体を揺らし始める。僕を起こそうとしてくれるのは非常にありがたいが、揺らされて起こされると目覚めが悪くなる。しまいには吐きそうになる。
「だ、大丈夫、お、起きているから」
何とか自分が起きていると示すことができた。
『もう、あなたはいつも起きるのが遅いのよ』
そう言いながら、彼女はキッチンのほうへと向かう。彼女は今僕の家で同棲している。僕の家、とは言っても、両親が用意してくれた部屋だった。僕はここから何駅か乗り換えないと通えない大学に通っている(交通費が大分かかるから、僕一人だけで大学の近くで住んでいる)。そして、今は夏休みでここに帰郷していた。両親の暮らしている家へと訪ねたが、今はお前を入れることができない、と言われて門前払いされた。僕はどうすることもなく、当てもなく歩き続けると携帯が鳴った。それは父からだった。父はお前のために用意した部屋があるから、夏休み中はずっとそこで暮らせ、と言われた。何故そんなことになってしまったのか、理由を話してくれなかった。野宿もするわけにもいかず、仕方なくそこで暮らすことになった。
これが今の生活をしている経緯だった。彼女と同棲している理由も語らなければならないのだが、色々なことを一気に語る、と気が滅入ってしまう。それは、またいつかでいいだろう。人間はひとつのことだけで精一杯なんだ。
『ねえ、何が食べたい』
彼女は裸のままエプロンを着る。何故か、裸よりも裸に近いほうが興奮する。
「朝食なんだから、別にそんなに凝らなくてもいいからな」
『嫌よ、どうせ食べるのなら美味しいほうがいいわ』
彼女はそう言って、サンドウィッチを作り始める。そういえば、村上春樹の小説でパンを切る包丁は清潔で切れ味のあるものでなければいけない、と語っていた気がする。実際のところ、その包丁で切ると、どのような味に変わるのか分からない。僕はあまり食事に興味がない。食えればそれでいいのだ。ここで言う、食えればそれでいい、というのは、決して腹を壊さなければいい、というわけではない。もちろん、不味いものなんて食いたくない。ただ特別に美味しいものでもなくていい、という意味だ。とにかく、不味くなければいいのだ。普通の美味さでいいのだ。何万円のする高級料理店のような味でも、ワンコインで食べられる定食のような味でもいいのだ。
とは言ったものの、美味いのに越したことはない。彼女の手料理は特別に美味かった。何かとこだわっているのだ。調味料も普通に売られているものではない。どこかしらで仕入れているのだ。何故、それほどまでにして、食にこだわっているのか分からない。僕が作っているわけではないから、そこまで強くは言えないけど。彼女は食に時間を掛けて、僕は考えることに時間を掛けている。ただ、それだけのことなのだろう。時間の使い方は人それぞれというわけだ。それに裸エプロンでサンドウィッチを作っている彼女を見ながら、過ごす時間も良いものである。
『さっきから何見てんのよ』
しまった、彼女の裸エプロンを見ていて、興奮していた。彼女は高校生であり、僕は大学生と言っても、二十歳を越えたいい大人だ。本当ならば、未成年と同棲するなんてあってはならないことなんだ。だが、もう僕たちは肉体関係でもある。興奮して後ろから襲ったとしても、今更どうすることもできない。後戻りなんかできないんだ。やってしまったのだから、自分は責任を取らなければならない。
『ちょ、ちょっと、さっきやったばかりじゃない』
いつのまにか、僕は彼女に触れていた。僕の体はいつだって性欲に正直だった。どんな状況でもそれは変わることはない。いくら朝食を作っているときでも。いくら包丁でパンを切っていたとしても。最悪な人間だった。高校生と同棲して、高校生の体を好き勝手に使わせてもらっている。こんなこと彼女の親に知られたら、ただでは済まされない。もしかしたら、警察のお世話になるかもしれない。
「そういえば、君の親はどうしているの?心配とかしていないの?」
行為をしながら、彼女にそう聞いてみた。
『あれ?言っていなかったっけ?私の親は放任主義だって』
確かにそう言っていたけど。いくら放任主義、と言ったって、娘が何十日もいない、ということになったら、心配のひとつぐらいするだろう。
『とにかく、そういう細かいことは気にしないで』
僕は溜め息を吐きながら、行為を続けた。
本当にこれでいいのだろうか?彼女が気にしないのなら、それでいいんだけど。何だか釈然としない。この世界は何だか歪な感じがする。
ある夜のことだった。
父から電話が掛かってきた。僕を追い出した父が一体何の用なのだろうか?
『そういえば、何で僕がお前を門前払いみたいなことをしたと思う?』
わざわざそんなことを言うために、僕の睡眠を邪魔したのか?僕の彼女もケータイの音で眼を醒ましたというのに。まあ、彼女はすぐにまた眠ってしまったけど。
「何だよ?こんな夜中に。そんなこと今言うことじゃないだろう」
苛々しているのが自分の声でも分かった。
『今だからだよ。ひとりのときの方がいいだろう?お前の彼女だって眠っている。ありがたいと言って欲しいね』
父が何を言っているのか分からなかった。いや、これは父ではない。別の誰かに違いない。ここは普通の世界ではないのか?僕の世界ではないのか?どこまでも、本当の意味で僕はこの世界の住人とはなれないのか?
「わざわざ、そんなことを言うために?僕をこんな気持ちにさせるために?どれほど僕を苦しめればいいんだ!」
『君はずっと分かっていたんだろう?こうなることも分かっていたんだろう?最初から分かっていたんだろう?何で知らないフリをしているんだよ?現実を見なよ。ここはお前の世界じゃない。何、楽しんでいるんだよ。そんなことをし続けていたら、余計に苦しくなるぞ。あまり情を出さないほうがいいぞ。ただ、それだけを言いに来た。現実の世界のことを忘れないようにな』
そう好き勝手に言って、あいつは電話を切った。分かっているよ。そんなことお前に言われなくても分かっているよ。わざわざ電話を通じて言う必要なんてどこにもない。嫌な奴、だと思った。
『あなたどうしたの?』
いつのまにか彼女が起きていた。電話口に向かって叫んでしまったせいだろう。
「ごめん、起こしちゃった?」
『ううん、別にいいよ。それよりも大丈夫?』
彼女の顔は本当に心配していた。確かにあいつの言う通り、少し情が出てしまっているのかもしれない。彼女のことを愛し過ぎてしまっているのかもしれない。だって仕方がないじゃないか。こんなに優しくされたことなんて今までに一度だってないんだから。僕の住む本当の世界はいつもあの冷めた視線だった。だけど、もうこの世界に入ってからその視線は感じなくなっていた。彼女はいつまでも僕の心を癒してくれる。
「ああ、君がここにいる限り大丈夫だよ」
僕はまた行為を始める。それでしか、彼女に対する想いを応えることができなかったから。どんなに綺麗な彼女でも僕は腐っていたから。僕の心は荒んでいたから。いつまでも彼女の体を求め続けている。それでは、ただの性欲の処理みたいなものでしかないではないか。それでも、僕は行為を続ける。それが彼女の望んでいることではなくても。どんなに醜くてもいい。言葉なんていらない。
『ね、ねえ、あなたは何が好き?』
絶頂を迎えた彼女がそう言った。その問いの答えはもう既に用意されてある。ずっと前から、彼女と会う前から考えていた。だから、僕は答える。この瞬間のために用意してきた言葉を。
「僕はこの世界が好きだよ」
『その中に私も含まれている?』
「もちろんだよ。と言うか、君がいるから僕はこの世界が好きなんだ」
『あら、嬉しい』
そう言って、彼女は微笑んだ。彼女の笑みはいつか見たあの向日葵よりもずっと綺麗で可憐だった。ああ、そうだ。僕はこの笑顔を見たくて、こんな世界を創ったんだ。ずっとここにいたい。もう、堂々巡りなんかしたくない。いいじゃないか、ここで終わっても。ここが終着駅でも。
『ねえ、あなたはどこにいるの?』
彼女の言った言葉に僕はドキッとした。
「いきなりどうしたんだよ。僕はここにいるよ」
『いや、そういうことじゃないの。あなた、いつも遠いほうを見ているから。まるで、こことは違う世界を見ているような気がしたの』
もしかしたら、気付いているのかもしれない。僕がこの世界にはいないことを。いや、実際はいる。ただ、僕はこの世界とは別に、現実の世界がある。だから、この世界はただ一時的にいるだけに過ぎない。いつか、僕は消えてしまうのかもしれない。だが、僕はもうそんなことを望んでいない。
『ほらまた』
そう言って彼女は僕に微笑みかける。
確かに言われてみればそうだった。僕はこの世界にいながらも、僕が住んでいた現実の世界のことを考えていた。ここが現実の世界、とはならないからだろう。現実の世界で生まれてきた事実から逃れることはできない。その事実をなかったことにしたいから、現実の世界のことを考えていたのかもしれない。
「君の言う通りなのかもしれない」
僕がそう言うと彼女は首を傾げて、何のことか、と聞こうとする。何でもない、としか僕は答えられなかった。
彼女ともう一度体を交わして、眠った。
『ねえねえ、起きてよ』
彼女が僕の体を揺らす。朝が弱い僕はなかなか起きることができない。
『ねえねえ、起きて』
今度はさっきよりももっと強く体を揺らす。僕の脳がぐるぐると回る。早く起きないとここで吐いてしまいそうになる。
「分かったから、揺らすのはやめて」
そう言うと、彼女は揺らすのをやめる。
『だって、あなたなかなか起きないじゃない』
「だから、朝は弱いだよ。いつも言っているじゃないか」
僕はまだ醒めていない眼を擦りながら、彼女に抗議をした。
『朝弱いならなおさらよ。今のうちに直さないと』
「ああ、分かったよ」
『わかっていないから、また寝ようとしているんでしょ』
それから、長々と彼女の説教が始まった。だが、その説教はとても心地良かった。現実の世界では味わえないものだ。現実にいる奴らは自分の身しか気にしなかった。両親は特にそうで、僕をただの道具としか扱っていない。そして、僕が使い物にならなくなったから、土のなかに埋めた。だけど、この世界の彼女は違った。僕の身を案じて、説教をしてくれる。これ以上の幸福は今までの僕には持ち合わせていなかった。
『どうしたの?こっちが真剣に話しているのに、何で笑っているの?』
どうやら、いつのまにか僕は笑っていたらしい。
「いいや、別に。ただ、嬉しかったんだよ」
『何それ、変なの』
そう言って、彼女も笑う。彼女の笑顔はとても魅力的だった。この手で抱き締めたい気分になった。離れてしまわないように。
『ほら、変なこと言わないでさっさと起きるわよ』
彼女は僕の部屋から出て行った。僕は抱き締めよう、と思ったが、タイミングを見失ってしまった。
「おお、分かった」
彼女を抱き締めたくてもできなかった手を開いたり閉じたりして、僕はその動きをただ見続けていた。
『ねえ、明日で夏休みも終わりだね』
「ああ」
『何よ、素っ気ない返事して』
「いや、少し考え事をしていただけだよ」
嘘だ、僕は何も考えていない。呆然と自分の手を眺めているだけだ。何故、自分の手ばかりを眺めているのかは分からない。何かが掴めない気がした。何かが壊れている気がした。この世界の崩壊が近づいてるのかもしれない。いや、そんなはずはない。たぶん、そうでありたい。
『あなた、さっさと食べて。冷めるわよ』
「ああ」
『また、考え事をしているの?』
「ああ」
今度は本当だ。
朝食を食べ終えた僕たちは、ある場所へと向かった。そこは僕と彼女が初めて出会った場所らしい。らしいというのは、僕は彼女と出会って数日のことぐらいしか見ていない。もちろん、記憶としてはあるのだが。
『懐かしいわね』
僕たちの出会った場所は錆びれた公園だった。懐かしいのか、僕にはよく分からない感覚だった。実際には経験していないはずなのに。何故か彼女と同じく、懐かしい、と感じている。それはありえないはずなのに。
『ねえ、聞いてるの?』
「え?何が?」
『だから、次の夏休みもここへ来ようねって』
「ああ、そうか。帰らないといけないのか」
今、僕はこの街に住んでいないらしい。ここから離れた大学に通っているためである。彼女は未だにこの街に居続ける。そこから出られないような、箱入り娘のような、まるでここが世界のような……彼女を見るたびにいつもそう思う。
『寂しいわね』
彼女の髪は風で揺らされながら、彼女の表情を隠した。泣いているのだろうか?何か考えているのだろうか?怒っているのだろうか?それとも、喜んでいるのだろうか?笑っているのだろうか?表情を見ることのできない僕には分からなかった。
それから、彼女と二人でベンチに座り、風に揺れる木や落ちていく陽を眺めたり、鳥の囀り声や風音や蝉の声を聞きながら、ゆったりとした時間を過ごしていた。その間、会話はほとんどなかったが、とても貴重な時間だった。今日で終わりなのだ。僕は戻らなければならない。
一体、どこへ?
『行こうか』
そう言って、彼女が手を差し出す。
「ああ」
僕はその手を握り締めた。離れないように。
家に帰った僕たちはすぐに部屋で抱き合った。長い長い夜だった。何度も上手くできなかったけど、彼女はその度に僕を優しく抱いてくれた。これが永遠に続けばいい。明日なんか訪れなくていい。ここが一番居心地がいいんだ。もう、これ以上何もいらない。次の世界なんか行きたくない。終わりが来ない世界。それがこの世界であればいい。ずっと彼女と一緒にいたい。
『あなた、どうしたの?泣いているの?』
僕が泣いている?彼女がそう言っているのならそうなのだろう。これが涙なんだ。今までに味わえなかったもの。彼女がくれたもの。この涙は失いたくなかった。もしも、なくなってしまったなら、そのときはこの世界が終わった、ということ。僕は最後の最後まで抗いたい、と思った。
「ああ、泣いているのかもしれない」
翌日、僕は部屋にある全ての荷物をまとめた。もう帰らなければならない。彼女と別れなければならない。きっと、夏休みはまた来るんだから。
「じゃあ、行ってくるよ」
『ちょっと待って、私も行くわ』
まさか彼女も一緒に来てくれるのだろうか。だけど、よく見れば彼女の手には荷物はなかった。たぶん、ただの見送りなのだろう。
「なあ、もう一度だけあの場所に行かないか」
『え?でも、もう少しで出発すると思うけど』
「いいよ、一本遅らせる」
『なら、いいけど』
「じゃあ、行こう」
僕は彼女の手を取って走り出した。何故、走ったのかは分からない。ただ、もっと彼女と触れ合いたいから。後悔をしないように。
着いた場所はあの錆びれた公園だった。相変わらず人はいなかった。まだ朝というのもあるかもしれないが、子供が遊ぶ時間になったとしても、ここの公園を利用する人はほとんどいないだろう。その人気のなさも、あのときのままだった。彼女の出会ったときからずっと。
『どうしたの?思い出しているの?』
「ああ」
彼女の手を強く握り締める。
『痛いよ』
「ああ、ごめん」
僕は手を離す。
そうすると、彼女が手を握ってくる。
『ねえ、いつまでもこうしていたいね』
「ああ」
彼女の表情は髪で隠れてよく分からない。
『ねえ、また来るよね?』
「ああ」
彼女は自分の頭を僕の肩に乗せる。
『一年って長いよね?』
「ああ」
僕は彼女の肩に手を回す。
『あなたのこと好きだわ』
「ああ」
いつまでもそんな会話を繰り返した。
気付いたときにはもう陽が落ちていた。その時間はとても長いようで、短かった。いつまでもいつまでも続けばいい。何本も遅らせたけど、関係ない。帰りたくなかった。ここに居続けたい。
『ねえ、もう行こう』
「ああ」
僕は戻らなければならなかった。
駅に着き、彼女と一緒に電車が来るのを待つ。もう、来なくてもいいのに。ずっと待ち続けてもいい。彼女と一緒なら。
『ねえ、大学ってどんなところなの?』
「うん?別に楽しくないところだよ」
『へえ』
「君も行くのか?大学」
『どうしようかな……』
「まあ、結構金がかかるからな」
『ねえ、あなたの大学に行ってもいい?』
「え?」
『ねえ、次の夏休み、あなたのところに行ってもいい?』
「ああ」
来年の夏休みには彼女が僕のところへ来てくれる。
「なあ、やっぱり……」
僕は寸前のところで口を噤む。何故、言えなかったのかは分からない。誰かが言わないようにしている気がした。
『どうしたの?』
「いや、なんでもない」
『ガタンゴトン』
電車が来たみたいだ。これで彼女と別れなければならない。僕はこの電車に乗らなければならない。電車がとまり、扉が開く。僕は中に入る。扉が閉まる前に振り返った。そこには彼女がいた。
『さようなら』
彼女がそう言った瞬間、扉が閉まった。
……僕は電車に揺られながら、彼女のことを考えていた。いつかまた会えるよな。そうであると信じたい。来年は彼女が僕のところに来てくれる。そのときが来るまで、僕は待ち続けよう。
『続きまして、〇〇駅、〇〇駅』
その言葉が聞こえた瞬間、周りの風景が壊れていった。
『もう、お前なんか必要ない』
僕は僕ではなくなった。




