表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

3 揺らぐ思い

ソフィアがクロエと名を変え、新しい町でレオと共に暮らす日々は、穏やかだった。人目を避け、静かに生きることを第一に、目立たない場所で小さな焼き菓子の店を開いた。町の人々に笑顔を向けながら、癒しの術を使わずとも、誰かの一日を少しだけ軽くする方法を模索していた。


レオはすっかり落ち着きを取り戻していた。栗色の髪は整えられ、少し伸びた前髪が額にかかっていたが、目を隠すような仕草は減っていた。学校には通っていなかったが、ソフィアの本を読み、時折来る旅の語り部から話を聞いては、真剣な目で学ぼうとしていた。


けれど、過去はそう簡単には遠ざかってくれなかった。


ある日、街の広場で小麦を買いに出た帰り道。ソフィアは、あの瞳を見た。冷たい藍色。まっすぐに刺すような視線。テオドール・モレル。


「逃げても無駄ですよ、ソフィア。あなたがどんな名前を使おうと、罪人である過去は変わりません。」


彼は、あの頃と変わらぬ声で言った。律された抑揚と、容赦のない語調。ソフィアは立ち止まり、少しだけ考えてこたえた。


「ええ、変わらない。でも、未来は変えられるのよ。」


その直後、町に火災を知らせる鐘が鳴り響いた。商店街の裏路地、狭い通りに火の手が回り、取り残された子どもたちがいると、男が駆けてきた。


テオドールは一瞬、判断を迷った。「戒律を優先せよ」――規則ではそうなっていた。だが――


「私が行くわ!」


ソフィアが叫び、火の中へと飛び込んでいった。躊躇する間もなく、彼女は炎の中を駆け抜けていく。呆然とするテオドールの目の前で、ソフィアは次々と子どもを抱きかかえ、煙の中から引きずり出していった。その姿は、掟を破った罪人でも、逃亡者でもなかった。ただ、命を救うために動く、ひとりの人間だった。


最後のひとりを助け出した後、煙に巻かれて倒れたソフィアを、テオドールは抱きとめた。彼の腕の中で、ソフィアはかすかに呼吸していた。


「どうして……こんな危険なことを……逃げられるわけでもなしに……」


問いかける声は、いつになく弱かった。ソフィアは、熱に浮かされたような声で答えた。


「助けられる命があるなら、理由なんて……いらないのよ。あなたの正しさは、誰のためのもの?」


テオドールは、初めてそのとき、自分の中に空洞があることに気づいた。今まで自分は、法の名のもとに“裁くこと”しかしてこなかった。だが、“救う”ことは、いつからしなくなっていたのだろう?


その夜、テオドールは一人、街の教会の前で立ち尽くしていた。背中には誰もいない。肩に重い鎧も、声に背を押す掟もなかった。


正しさとはなんだ。掟に従うことだけが、本当に“正義”なのか?


教会の鐘が遠くで鳴り、夜の風がゆっくりと髪を揺らした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ