3 揺らぐ思い
ソフィアがクロエと名を変え、新しい町でレオと共に暮らす日々は、穏やかだった。人目を避け、静かに生きることを第一に、目立たない場所で小さな焼き菓子の店を開いた。町の人々に笑顔を向けながら、癒しの術を使わずとも、誰かの一日を少しだけ軽くする方法を模索していた。
レオはすっかり落ち着きを取り戻していた。栗色の髪は整えられ、少し伸びた前髪が額にかかっていたが、目を隠すような仕草は減っていた。学校には通っていなかったが、ソフィアの本を読み、時折来る旅の語り部から話を聞いては、真剣な目で学ぼうとしていた。
けれど、過去はそう簡単には遠ざかってくれなかった。
ある日、街の広場で小麦を買いに出た帰り道。ソフィアは、あの瞳を見た。冷たい藍色。まっすぐに刺すような視線。テオドール・モレル。
「逃げても無駄ですよ、ソフィア。あなたがどんな名前を使おうと、罪人である過去は変わりません。」
彼は、あの頃と変わらぬ声で言った。律された抑揚と、容赦のない語調。ソフィアは立ち止まり、少しだけ考えてこたえた。
「ええ、変わらない。でも、未来は変えられるのよ。」
その直後、町に火災を知らせる鐘が鳴り響いた。商店街の裏路地、狭い通りに火の手が回り、取り残された子どもたちがいると、男が駆けてきた。
テオドールは一瞬、判断を迷った。「戒律を優先せよ」――規則ではそうなっていた。だが――
「私が行くわ!」
ソフィアが叫び、火の中へと飛び込んでいった。躊躇する間もなく、彼女は炎の中を駆け抜けていく。呆然とするテオドールの目の前で、ソフィアは次々と子どもを抱きかかえ、煙の中から引きずり出していった。その姿は、掟を破った罪人でも、逃亡者でもなかった。ただ、命を救うために動く、ひとりの人間だった。
最後のひとりを助け出した後、煙に巻かれて倒れたソフィアを、テオドールは抱きとめた。彼の腕の中で、ソフィアはかすかに呼吸していた。
「どうして……こんな危険なことを……逃げられるわけでもなしに……」
問いかける声は、いつになく弱かった。ソフィアは、熱に浮かされたような声で答えた。
「助けられる命があるなら、理由なんて……いらないのよ。あなたの正しさは、誰のためのもの?」
テオドールは、初めてそのとき、自分の中に空洞があることに気づいた。今まで自分は、法の名のもとに“裁くこと”しかしてこなかった。だが、“救う”ことは、いつからしなくなっていたのだろう?
その夜、テオドールは一人、街の教会の前で立ち尽くしていた。背中には誰もいない。肩に重い鎧も、声に背を押す掟もなかった。
正しさとはなんだ。掟に従うことだけが、本当に“正義”なのか?
教会の鐘が遠くで鳴り、夜の風がゆっくりと髪を揺らした。